「おい七瀬、大丈夫かィ?」

 当のわたしは涙目だった。

 お女中の先輩に買い出しを頼まれて、意気揚々と町に繰り出して帰ってきた、とそこまでは良かったのだけど最後の最後、玄関でこけた。僅かな段差に足を取られ、やばい! と思ったものの、両手いっぱいに荷物を抱えていたせいで、どこも庇うことなく地面とご対面してしまったのだ。
 運の無さはこれで終わらない。その場面を、見回り(サボり)から戻った沖田さんにタイミングよく見られてしまった。痛いやら恥ずかしいやらいろんな気持ちが混ざって、穴があったら入りたいとはこういうことかと実感する。

「だっ、だいじょうぶです、ちょっとこけただけです」
「顔面着地したの見てやした」
「…忘れてください」
「それはなんとも無理なお願いですねィ」

 座り込んだまま、ぶつけたであろうひざ小僧の痛みに耐えながら周りの状況を確認した。砂まみれの着物に、散らばる荷物。現実を見たくなかったなと自然に溜め息が漏れる。

「おい七瀬」

 なんでしょうかと返事をしようとしたけど、できなかった。わたしと目線を合わせてしゃがみこんだ沖田さんにがっちり手首を掴まれたからだ。
 綺麗な顔が近い。意外と大きく、骨ばった手が確かにわたしに触れている。

「ここ、怪我してやす」

 綺麗な瞳が見つめる先は自分の手のひらで、血が滲んでいた。引っ込めようとしたけど、掴む力はずいぶんと強くてそれは叶わない。「ここも、ここも」と指を指すその先は全部擦り剥けている。手首に頬、そして鼻先。

「消毒しねェといけねーな」
「そ、そうですね! とてもそう思います!!」
「下手くそな感想だねィ。10点」
「何点満点ですか!」
「100に決まってんだろ」

 涼しい表情のまま、おもむろにわたしの手のひらへ唇を押し付けた彼はにやりと微笑む。この笑みはやばいと脳みそは咄嗟に警告音を鳴らしたけど、手を引っ込めるのには先ほど失敗したところだ。

「消毒、しねェといけねーな」

 復唱したかと思えば、そっと手首の傷口に舌を這わされる。

「お、沖田さん!」
「さっきからうるせえ」

 唇の間から赤い舌がちらりと覗く。目を伏せるその綺麗な顔から、その赤い舌から目を離せない。

 ちゅ、と耳に障るリップノイズを最後に彼がようやく顔を上げたかと思うと、それはもう楽しそうな表情をしていて。「顔、真っ赤」とのお言葉を頂戴したがそんなこと言われなくても十分わかっている。顔がやけに熱くて逆上せてしまいそうだ。

 一瞬の間をおいてから沖田さんの顔が近づいてきた。後ずさりしようとしたけど、依然として手首を掴まれている力は強い。
 形の良い唇が触れた先はわたしの頬。擦り剥けてると指差していた箇所だろう。べろりと舐められて、ひりひりと痛んだ。再度「沖田さん」と控えめに呼んでみたけど止まることはない。

「だ、誰か来たらどうするんですか…!」
「そん時はそん時だろ。茹で蛸みてーな顔して恥ずかしいのは七瀬だけでィ」
「ダメだこの人ォォオ」
「うるせーや、ちょっと黙れ」

 わたしの後頭部に手を添えた、いや、むしろ鷲掴みにした沖田さんの表情は、もしこの状況を客観的に見られたなら天使のように綺麗な微笑みを浮かべたと思えたことだろう。残念なことに当事者には悪魔にしか見えなかったけれども。
 そうして鼻先に唇を落とされる。もはやキスとなんの遜色もないそれに震えたら、

「七瀬、目ェ瞑りなせェ」

 落ち着いた声色はそう告げる。
 …なにそれ。これはまさか乙女の憧れ、キス? わたしキスされるの? まさかのファーストキスウィズ沖田さん!?

 心臓が痛かった。なんだか頭も痛かった。擦りむいた箇所よりずっと重症だ。近づく顔にどうしようもなくなって、瞼に力を入れて思い切り目を閉じる。

 ええいもうどうにでもなれーーー!





 カシャッ。

「七瀬のキス顏ゲーッツ」

 カシャッカシャッ。

「…なにしてるんですか」
「…写真撮影?」
「どうして疑問系なんですか」
「見てわかんねーのかバカだなーの意でィ」
「…バカなのは沖田さんだァァア!」

 渾身のパンチをひらりとかわされて、涼しい顔して去っていく沖田さん。やっぱり悪魔だ。
 顔が熱くて心臓が爆発しそうで、というか全身が爆発しそうなのはあの人が無駄にイケメンなせいだ。そうだ。1億歩ゆずっても他意はありません。断じて。…そう、絶対に。

 動きすぎで今にも破裂しそうな心臓が落ち着くのを待って、ゆっくりと立ち上がる。すると少し離れたところから「七瀬のキス顏写真500円ー買う奴ー」との声が聞こえたところで「やめてくださいィィイ!」と叫びながら写真奪還に走った。買い出しで調達した品々を放っておいたせいでお女中の先輩に怒られた。

 これだからイケメンは嫌いだ。

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