君は泡沫の儚さを知っているかい 1/4 

 あれは大学一年生の入学式から、たぶん一週間後ぐらいだったと思う。講義だりぃなーめんどくせーなーなんて思いながら、自分はどこに座ろうかとぐるりと見渡したとき、例えや冗談などではなく、プルプル震える背中を発見した。
 同じ講義をとっているということはあの震えている子は恐らく同級生で、夏の序章という気候の中で、室内が寒いとかクーラーが効きすぎているとかそういうわけではないだろう。じゃあ何をそんなに震えているのか? そんな疑問と興味から近寄り、声を掛けてみた。

「なに震えてんの」
「…ふ、震えてます?」
「なんかプルプルしてる」

 そんなやり取りをしながら、相手に断ることもなくその隣に座る。自身の体の震えを指摘されたせいか、小柄な女子生徒はうつむき加減となり、その頬を朱に染めている。
 濃い色のジーンズに黒色のカットソー、その上にグレーで長袖のジップアップパーカーを羽織り、足元はぺたんこのスニーカー。傍らにリュックサックを置く彼女はよく言えば素朴、悪く言えば地味だった。

「なんかビビることでもあった?」
「いえ…何もないんですけど…」

 小さなボリュームで、徐々に尻すぼみになるような返事をし、そして未だにプルプルプルプル震え続ける姿をじっと見ていたら、なんだか可笑しく思えてきて、ブハ! っと吹き出してしまった。

「っえ? …わたし変ですか?」
「いや、変っていうか震えすぎってか…同い年なんだろうし楽にいこーぜ。なあ、」

 相手の名前を続けようかと思ったが、そういえば初対面で名前なんか知らなかったことを思い出した。
 相手からの返事はこない。その代わり驚いたように少し見開いた目でじっと見られることに、また疑問に思った。別に俺、そんな驚くこと言ってねーよな? と。

 会話は途切れた。ふと、講義を受けなければならないという眠たさとダルさがぶり返し、そのまま机の上にべしゃりと上半身を預ける。
 相手からの返事はこないまま、自分からも話題を振ることはない。なんとなく隣に座ったものの、無言はきちーよ、とかなんとか考えていたら、相手がどうも自分の銀髪を見ているような気がした。

「…なに?」

 そう聞くと目線が髪から下げられたものの、俺と目が合う寸でのところで彼女の視線が彷徨った。そして自分の手元を見つめているようだった。

「なんか、わたがしみたい、ですね」

 弱々しい声だったが、彼女は確かにそう言った。茶化す様子もなく、真顔で、至って真面目そうに。

「俺の髪のこと?」
「あ、はい…すみません…」
「そんな美味そうなもんに例えられたの初めてだわ」
「そ、そうなんですか? すぐそう思ったけど…」
「鳥の巣とかさァ…抜け出せねえ暗黒ホールとかさァ」

 そんな堅苦しい雰囲気を纏っていたくせにこちらの言葉を聞いたなら、その子は「ぶふっ」と吹き出していた。またプルプルと震える肩。だが今回は下がる目尻に歪んだ唇。握りこぶしで口元を隠し、持ち上がっている口角をごほん、と咳払いをしながら戻している。
 そしてなんとか平常を取り戻したらしい彼女がこちらをちらりと見やるので、酷えだろ? と会話を続けた。

「天パだから仕方ねえっつってんのに」
「えっ、それ天然ですか?」
「生まれてからずーっとこう」
「へえ…産まれた瞬間からオシャレだったんですね」

 少し目を見開きながら、本当に感心したように言うものだから、思わず俺もまた吹き出してしまった。プルプル震える俺の肩を彼女はじっと見ていたが、次第につられ始めたようで同じように震わせながら小さな笑い声を上げている。
 化粧っ気のない顔は、笑うと目がなくなるようだった。幼いな、と思った。それと同時に素直で話しやすくて、笑顔の可愛い子だなとも感じた。

 それがななこちゃんだった。


 もっと話せねーかな、なんか仲良くなりてーな。そんなことを考えながら、講義が被る度に話しかけた。ななこちゃんはいつも、少しオドオドしながら応えてくれた。
 視線は彷徨っているか自分の手元に落としていることが多いから目は合わない。それでもちょっとずつ返事がスムーズに返ってくるようになってきて、“坂田くん”と呼びかけてくれたあとにおはようからバイバイまで付け足してくれるようになった。そして少し目を細めて、不器用に笑ってくれている。
 それには拾った犬が懐いてくれるような可愛さと嬉しさがあった。

 ななこちゃんは押しに弱くて断れない性格のようで、俺が何も考えずに誘った男ばかりのキックベースに、視線を彷徨わせながら参加してくれた。
 じゃんけんの結果、敵チームになってしまい、外野といういちばん遠い距離からななこちゃんがバッターボックスに立つのを見守った。
 いきなり誘って迷惑だったかもしれねー、嫌々だったかもしれねー。そんなこちらのいろんな心配を跳ね除けるようなバッティングを見せ、誰かの”走れ!”に弾かれたように駆け出した彼女は、綺麗なランニングフォームで一塁から三塁まで走り抜け、最後はなんの躊躇もなくホームベースにヘッドスライディングで突っ込んでいった。

 気付けば、そこへ走り寄ってしまっていた。

 砂ぼこりに噎せながら体を起こしたななこちゃんは、いちばんの当事者のくせに誰よりも困惑しているように見えた。興奮して寄っていく男たちの中央で自分の胸に手を当てながら座り込んでいる。そんな彼女に誰よりも先に手を差し伸べたくてたまらなかった。

「大丈夫か? すげー勢いで突っ込んでたけど」

 声を掛けながら、想像通り誰よりも先にななこちゃんに手を伸ばすも、彼女はただ首を傾げるだけ。いやいや鈍感かよ、と思わず笑いそうになりながら、持ち上がる気配のない手を掴む。
 するとななこちゃんは少し顔を歪めた。予想もしない表情にパッと離すと、彼女は自分の手のひらをじっと見つめている。

「あ、血」

 ななこちゃんが呟いたとおり、そこには赤色が滲んでいた。

「洗わねーとバイキン入るやつじゃね? …立てる?」

 今度はななこちゃんの腕を引いた。それは自分の指が輪になって一周し、先が重なってしまうほど細く、その華奢さにどきりとした。それでもなんとか冷静を装った。
「選手の交代をお知らせしまーす」
 彼女の腕を引きながらふたりで退場することを合図し、ぐるりと周りを見回す。グラウンドの端に水道があるのを発見し、肩を並べないまま先導した。

 四角く、地面から突出したコンクリートに蛇口がひとつという簡素な手洗い場で手を洗うななこちゃんは、水を止めると急にその場にしゃがみ込んだ。思ってもみない行動に驚きつつ、彼女に声をかけながらその前に同じようにしゃがみ込む。

「緊張、してたみたいで」

 そう言うななこちゃんは両膝を腕で抱え、そこに顔を埋めている。女の子には珍しく、頭頂部につむじが見えた。俺が知っている女の子の頭は大抵、髪を左右に分かれさせているからつむじなんか消失している。不意に染めたことなさそうな黒髪に、つむじに触れてみたくなった。
 ななこちゃんの華麗なバッティングやランニングフォームについて会話しながらも、触ってもいいんだろうか、怒らないんだろうか、…いや、怒らなさそうだな。そんなことを考えながら恐る恐る手を伸ばす。

「…あ、そう、あれです」
「ん?」
「…ビギナーズラック?」

 語尾が上がった言葉に同意を求められているような気がして、咄嗟に手を引っ込めたなら、その瞬間にななこちゃんは顔を上げた。
 ばちりと目が合う。いつもなら彷徨う視線がそうはならなかった。だからななこちゃんの顔を初めてちゃんと真正面から見た。

 やはり化粧はしていなさそうだった。目の周りのラメっぽい輝きはなく、朱に染まった頬はきっと全速力で走ったせいだと思う。その顔立ちはここ数日の間よく見ていた同世代の女子よりずっと幼く見えた。
 だけど自まつげに縁取られた目は可愛らしく思えたし、上気させた頬もりんごほっぺみたいでやはり可愛く見えたし、ティントやらグロスやら塗られていないはずの唇も赤く瑞々しく、これも柔らかそうだし可愛いし、トータルで可愛いな。そう、思ってしまった。
 会話は途切れ、その黒目がちの目に見つめられていたら、ぎゅうっと左胸が締め付けられるような感覚があった。

 考えるよりも先に手が伸びた。指先でするりと頬を撫でて、流れる汗のせいでそこに張り付く髪の毛を払ってからはたと気付く。

 ななこちゃんの顔が真っ赤であることに。

 くらりとバランスを崩した彼女は、地面に尻もちをついてしまっている。赤い顔のななこちゃんにどきりとしたのも束の間、その赤さが熱中症なんかからきていたらヤバイなと、ぴたりと動きを止めてしまった彼女に呼びかける。

「おい、本当に大丈夫かよ。おーい」

 その眼前で手のひらを振って見せるも、ななこちゃんは瞼をぱしぱしと瞬かせるだけ。ーーー俺はきっとそんなに鈍いほうではない。
 真っ赤な顔に確かに汗はかいているが、本当に熱中症だったならこんなふうにただ座り込んではいられないはずだ。それなら自分の目の前で囚われたように動けないななこちゃんが、一体何に顔を赤くしているのか、自惚れながらも勘付いてしまう。

「さっきから思ってんだけど敬語、無しにしよーぜ。いいよな?」
「え、え? 敬語、ですか?」
「そう、だって俺ら同級生だしもう友達だろ? ほら、約束」

 話題を変えながら、立てた小指を差し出す。油の切れかけたロボットみたいにギギギ、と腕を動かすななこちゃんは、本当に恐る恐るといった様子で小指を絡めてくれた。それをきゅっと捕まえながら、俺は思った。
 一色の花の群生からぽつんと離れて咲いた、それも木陰の根っこに隠れたような一見わかりづらい場所で、花開きかけた色違いの一輪を自分だけが見つけたようだなと。

 
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