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 僅かに開いた隙間から覗くも、見慣れた内装が広がるだけ。怖いくらいに、しん、と静かだった。いないならいないで構わないが、鍵。とりあえずそれだけ返ってきたら何も文句は言わない。
 目線をさげたら、靴が置かれたままなのに気がついた。…なるほど、彼はまだご在宅だ。

 この部屋の間取りは至ってシンプルだ。玄関を開けたら靴を脱ぎ履きするスペースがあり、狭い廊下が続く。その途中、右手に浴室と脱衣所、そしてトイレがあって、きちんと別なのが有り難い。脱衣所内は意外と広く、洗濯機を置けるぐらいで、服を脱いでからの動線はなかなか便利だと感じている。それらを通り過ぎれば、キッチンも備えた狭い生活スペースになるのだが…その室内のどこかにあの人がいるのかもしれない。そう考えたら変に緊張した。
 自分の部屋とはいえ、このままでは民家を覗く変人なので意を決して踏み込んだ。なんとなく音を立てないように意識しながら、そろりそろりと目的地に近づく。



「遅ェ」

 そこへ足を踏み入れたら、下方から声がした。冗談抜きで飛び上がりそうになった。右下を見下ろすと、キッチンのシンク下に男性があぐらをかいて座り込んでいた。
 煙草を咥えながら、真っ直ぐに見上げられる。わたしがシャツを着ていってしまったせいで、上は、今の時期には少々早い半袖のTシャツ一枚だった。その傍らには、どこかで買ったであろう缶コーヒーが置かれている。
 ほんとに煙草吸うんだ、とか思っていたらチャリ、と音が鳴った。彼の指先につまみ上げられた、どうやっても見つからなかった銀色が揺れている。

「俺が何も考えねェ男なら、今ごろこの部屋は誰もいないうえに泥棒にでも入られてんだろうよ」
「その通りですね、あはは…」

 なんだか力が抜けて、わたしは思わずその場にへたり込んでしまった。怒っているのだろうか。そう思い、目を見るもそういうふうには見えない。ゆらゆら揺れる煙は口から吐き出されて、その表情を白く曇らせる。

「着てきたシャツはねェわ最悪だ」
「す、すみませんでした!!」

 表情は変わらないもののやはり怒っていたのかと、土下座せんばかりの勢いでフローリングに頭を近付ける。なのに頭上からはあの、喉の奥を鳴らしたような笑い声が聞こえた。

「傑作だったなァ。朝のあの慌てっぷり」
「…遅刻しそうだったんです」
「間に合ったのかよ」
「間に合いませんでした」

 恐る恐る顔を上げると、彼はフライパンなんかを入れてある収納棚の扉に背を預けて、ぼうっと天井を見つめていた。浮かべられている表情はやはり怒りを含んでいるようには思えない。自分が次に取る行動を図り兼ねて、その様をただ眺める。
 しばらく無言が続き、不意に目が合った。

「髪、ボサボサじゃねえか」
「みんなに笑われました」
「化粧なんかそっちのけかよ」
「そんなの構ってられなかったの、見ましたよね?」
「色気のねェ下着もどうにかしろ」
「…そこは目を逸らしてください」

 やっぱりばっちり見られてたよね…。落胆するも、こればっかりはもうどうしようもない。こちらに落ち度があるとはいえ忘れてもらうしか手立てはない。

 真剣に人の記憶の消し方を考えていたら、呼び掛けられた。顔を上げると、ちょいちょいと枝垂れた指先で彼の目の前を指し示される。

「こっち寄れ」
「…えっ?」

 昨日からどうも、相手から繰り出される言動がよくわらない。ただ押し倒されていたほうが簡単だった。目的がはっきりしていたから。

 これを断ったらと考えたならいつも、最初に出会ったときのことを思い出す。地にひれ伏す男たちの呻きをただの虫みたいに踏み潰して、こちらを振り返った姿を鮮明に思い出せる。だから従う他ないといつも思っていた。だけど少しだけ、違ってきている。
 昨夜、彼は何もしなかっただけだ。泣き喚く女の愚痴を聞いて、一緒に食卓を囲み、狭い布団の中で隣り合って寝ただけ。そんなことで、ちょっとした人間味に触れたせいで、側に寄るのが怖くなくなりつつある。自分は簡単な人間だった。

 示された場所へ座ろうとするとあぐらをかいていた足が解かれ、両膝が立てられる。目の前に座れと、言葉に出さずともそう言われている気がした。
 恐る恐る腰をおろしたがなんとなく正座してしまった。こちらのほうが目線が高くなるので、背中を丸めたその人を見下ろしてしまう。上がる紫煙は顔を掠め、独特の匂いがした。

「正座かよ」

 クク、と徐々に聞き慣れてきた笑む声が鼓膜を揺らす。口の端が持ち上がっていた。だけどいつもの、冷たく醒めたような笑みとは少し違うように感じた。
 彼はゆったりとした動きで、側に置いていた缶コーヒーのプルタブのあたりに煙草の先を押し付けた。白煙がくゆらなくなり、先がへしゃげて曲がる。そして形の悪いくの字に曲がったそれを、飲み口から中へ入れた。カン、音を立てて缶をフローリングの上に置いたと思ったら、急に二の腕を掴まれた。強く引かれて、前のめりになってしまう。バランスを取ろうとちょうどいい位置にあった相手の肩を掴むと、自分の頬の横を通った手に優しく髪を梳かれた。

「…変な女」

 吐息がかかって、荒れのない綺麗な肌が眼前に広がる。ーーーくちびるに柔らかいものが触れた。反射で後ずさろうにも、頭の後ろに手が回って許してくれない。隙間を割って、生ぬるい舌が侵入してきた。
 そんなものどうしろと、とまで考えて頭が真っ白になる。黒いレンズに自分の目元が映っているのを見ていられなくなって、ぎゅっと目を瞑った。絡め取られて、あとはされるがままだ。

 それは、苦い味がした。合間に、ちゅ、と漏れる音に恥ずかしくなった。尖らせた舌先で口腔の上側をなぞられると背筋がゾクゾクした。呼吸が苦しくなって離れたかと思っても、またすぐに塞がれる。

 なんだか食べられてるみたい。ポツンとその言葉が浮かんだら、弾むようなリップノイズを最後に呼吸が楽になる。薄目を開けたら、唇を濡らしたその人がこちらを真っ直ぐに見ていた。

「…また近いうちに来る」

 鍵を握らされて、やおらに立ち上がるのを目で追うのが精一杯だった。



 ファーストキスだったのに。

 じわりと滲む目を擦る。それが何による潤みなのかわからず、ただ混乱していると、背後で短く、バイブレーションする音がした。反射でそちらを振り返ると、鍵の見つからなかったキャンバス生地の鞄がぐしゃりとへしゃげていた。

 
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