そしてようやく一歩を踏み出してななこちゃんを鍋に誘えたとき、彼女は表情を曇らせて俺に聞く。
「坂田くん、好きってなんだろう」
そんな問いを聞いた瞬間、心臓がドッと跳ねる。どくん、どくん、と大きく鼓動するのがよくわかった。暑くもないのに首筋や手のひらによく汗をかいて、そのくせ指先は感覚がわからないほど冷たい。
ななこちゃんは洗い物をしてくれている。だからその手元を見ていて、視線をこちらに向けることがないのがもどかしいような有り難いような不思議な感覚に陥った。
「好き、ってのはなァ」
どう返事しようか悩んだ。俺たちの、どんな言葉も微妙に当てはまらなさそうな関係性に、どう転んでもきちんとした答えが出そうな気がしたから。
それでも返事をしないわけにはいかなかったし、いずれ話題に取り上げないといけない事柄だった。自分が素直にならなければならないタイミングは今なんだろうなと、漠然と思った。
「平々凡々なことしか言えねーけど、…欲が出たらじゃねーの?」
「欲って?」
「相手に対して話してーとか会いてーとか、こっち向いてくんねーかなとかそういうの」
「…坂田くんはわたしにそう思った?」
「そりゃあそうだろ。…たぶん俺はななこちゃんがチワワみてーに震えてるの見たときからそう思ってた」
「…ふうん」
「ななこちゃんは?」
そう聞くと、洗い物が終わっているのにザーッと流れる流水に手を濡らし続け、それを眺めるだけになったななこちゃん。俺がキュッと蛇口を捻ってその流れを止めても、彼女は濡れた手を引っ込めることはなく、ぽたぽたと落ちる雫を見ているようだった。
「俺の言う好きに俺は当てはまってんの? だからここにいてくれてるって思っていいのかよ」
自分で言ったセリフに笑いそうになった。そんなわけがない。高杉の面影を探し続けているななこちゃんに、こちらに向ける欲も気持ちもないだろうとこの2ヶ月間で思い知らされていたくせに、一抹の希望を見出したくてそんな聞き方しかできない。
ななこちゃんは変わらず困った顔をしていた。そして俺がその肩を掴んでこちらを向かせようとも、頭を肩に乗せようとも、ただ受け入れてくれている。
それは恋や好きなどではなく彼女の優しさからきているものだと、俺はもう知っていた。
「キスもその先も、俺を受け入れてくんね? でも全部を今すぐにとは言わねーし、時間かかってもいい。気持ちも後付けでいいから」
いっそのことななこちゃんの優しさにつけこんでしまおうか。どこまで受け入れてくれるのかわからないけど、彼女はいつだって俺を拒まなかったから。
「俺ァ、ななこちゃんがずっと好きだった。今もこれからも好きでいるから、そう約束できっから」
だから、、
その先を飲み込んで、ななこちゃんにキスをした。
想像していたよりずっと柔らかくて、脳の奥が痺れるような甘さがあった。唇を合わせただけなのに他の女の子とセックスするよりもずっと高揚感があって、確かな満足感があるのに足りないような気がする。
それと同時に後悔の波に襲われた。俺は今まで何をやっていたんだろう、なんでななこちゃんの代わりをたくさん作ってきたんだろう。彼女自身と向き合わなかったんだろう。
ななこちゃんの気持ちが不確かでわからないままでも、自分の気持ちをもっと大事にして、考えて、ななこちゃんがこちらを見てくれているあいだに手を伸ばすべきだった。そうすれば笑うと目のなくなるななこちゃんに、なんの壁を感じることもなく触れられるはずだったから。
唇を離したら、真っ赤な顔をしたななこちゃんがそこにいた。いじらしくて可愛い彼女は俺の胸に手のひらをついて、距離を取る。
「ごめん…」
でもやっぱりもう遅かったらしい。ななこちゃんの心には別の男がいることを、自分がつけ入る隙間を埋められてしまっていることをまざまざと見せつけられて、俺は目の前が真っ暗になった。「急にごめん」と謝ることはできたけど、泣きそうな顔をして部屋から出ていくななこちゃんを引き止めることはできなかった。
暗い夜道をひとりで帰らせてしまったこと、傘を持っていなかったのに次第に雨音が聞こえてきたことに、はたと冷静になって連絡を入れた。
いつもなら遅くなっても必ず返ってきていた電話は一回も折り返されることはなく、夜が更けても俺のアイフォンの液晶は光らない。
その頃にはもう何が正解なのかわからなくなっていた。
返事をしていないのに連絡してくる女の子はめんどくさい、なのに俺はななこちゃんに連絡をいれ続けた。来るもの拒まず去るもの追わずだったくせに、背を向けられることが嫌で、その背中が小さくなっていくのを必至で追っている。
自分が自分でなくなっていくような感覚の中、ななこちゃんが好きな気持ちや好きな相手を困らせるしかできない情けなさ、自分に対する怖さ、それぞれが入り混じり、ぽつんとある感情にたどり着く。
それは予想通り、俺の腕の中からすり抜けていったななこちゃんに高杉が好きだと告げられたあと、自分の中を大きく占拠した。
もう、諦めねーと。
きちんと気持ちを伝えてくれたななこちゃんをこれ以上、傷付けて泣かせてしまう前に。無理やり繋いだ手を離すタイミングは今を逃せばもう、またわからなくなる。
だから嫌で堪らなかったし、自分の気持ちに全く折り合いをつけられていなかったけど、俺は絞り出すように返事した。
「うん、わかった。ごめん、切るわ」
すぐに通話を終了させたのは、自分の目頭が熱くなったからだ。
俺は返ってこないメッセージをずっと確認していた。大学で講義を受けている途中もちらちらと携帯を盗み見て、既読がついていると気がついた瞬間に抜け出してまで電話をかけていた。大学内は人が多い。そんなところでぼろりと雫を零すことはできず、建物の陰に身を潜めた。
冷たい壁に背中を預けていたけど、そのうち立っていられなくなってずるずると座り込む。滲む視界でアイフォンの画面を操作し、ななこちゃんのメッセージアプリのアカウントを眺めた。震える指で画面をスワイプし、”ブロック”の赤い枠を出現させたけど、そこをタップすることがなかなかできない。
ーーーななこちゃん、俺はななこちゃんのことがこんなにも、
その先を言うことはもう叶わない。それは紛れもなく、ななこちゃんの気持ちの儚さに気づいていなかった自分のせいだった。