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 戻ってきた、以前までの日常は色味がなく、何を食べようともあまり美味いとは思えない。
 自宅は変わらず静かで、そのところどころにななこの気配がした。それは恐らく、ここに初めて招いた女だったからというのが理由だろう。

 タワーマンションの最上階。あの部屋とは全く違う、自分が住んでいるその一室は親から与えられたもので、派遣されてくる清掃業者によって管理されている。最初のほうは彼ら以外にもどこぞの業者がやってきて、冷蔵庫に作ったものを色々と入れて帰っていた。それを特段食べる気にもならず放置していると、いつしか補充されることはなくなった。
 幼少期からそのタワーマンションに引っ越すまでは、母親や家にいた家政婦が準備したものを食べていたように記憶している。出歩くようになってからは徐々にその回数も減った。
 そして大して興味のない相手から料理を振る舞われそうになると断って、そこから逃げていた。その空間に長居する理由をつけられるのが嫌だったからだ。

 手料理というものから随分と遠ざかっていたそんなときに、いつぞやのななこの「何か食べます?」という提案を受け入れたのは、腹が減りつつも居心地のいい空間から動く気にならなかったこと。惣菜ではなく、加工前の野菜や肉、魚といったものを袋がパンパンになるまで詰めて帰ってくるのを見たことがあり、少し興味が湧いたことからだった。
 慣れた様子で料理する背中を見ながらしばらく待ち、出てきたのは豚肉の生姜焼きに卵焼き、味噌汁に白飯だった。不揃いの器に盛られたそれらは久しく口にしたことのないものが多いが、湯気が上がり、いい匂いが漂うことで、腹がくぅくぅ鳴った。差し出された箸を受け取って、ひとくち頬張る。美味い、と素直に思えた。
 彼女曰く茶色一色の手料理はいつも温かかった。

 誰かの家に泊まったこともなかったが、不意に思い付いてそうしてみた。肌が触れ合うぐらい近くに他者の気配があろうとも、むしろその温かみのおかげで眠りにつくのはすぐだった。寝坊したらしいななこが「やばい遅刻!」と声を上げるまで寝ていられたのだ。
 そうして、泣いていることの多いななこの側にいるという大義名分のもと、寝食をともにして彼女のいろんな表情を見た。

 料理が上手くいったらしいときのにんまりと口角を上げた、得意げな顔。難しいと呟いて眉間にシワを寄せてから、テキストに向かう真剣な顔。夏祭りで射的を外したときの悔しそうな顔に、「もう一回!」と子どものように駄々をこねてからの不貞腐れた顔。こちらを見、笑いを堪える顔。花火を見上げ、そのまばゆさに見入る顔。甘いものを口にいれ、幸せそうに笑む顔。好きなことを話す、キラキラと輝いて見えるような顔。申し訳なさそうにこちらをチラチラ見ながら、様子をうかがってくる情けない顔。眠たそうに目をこする顔。キスしたなら照れくさそうにそっぽを向く間際の顔。
 どれも愛おしいと思えた。

 自分からそんなななこを切り取ったなら、残ったのは虚無感だった。


 ベッドの上で何気なくアイフォンを操作して、ななこの連絡先は何も知らないことに気が付く。既読をつける気にもならないメッセージは届くのに、声が聞きたいと思う相手の電話番号も、それより簡単に交換されるメッセージアプリのアカウントさえも知り得ていない。
 それもそうか、と思った。彼女はこんな男に合鍵をあっさり渡して、夜遊びもせず、日付が変わるよりずっと前に必ず帰ってきていた。連絡を取らずともなんの心配もなく、顔を合わせられていたのだ。

 ちらりと見やった机の上には、あの家の合鍵が置いてある。唯一残った繋がりではあるが、ななこが銀時と上手くいったなら絶対に使ってはならない代物だと思う。だが手元に置いておくのも心苦しい。
 それを見る度に共有した時間に見合っただけの、積み重なった思い出がかけ巡るから。選ばれなかったという実感が心の芯を冷やすからだ。

 鍵を手に取って、ダウンジャケットを着る。あの日は秋口だったのにあっという間に冬になってしまった。通い慣れた道をゆっくりと歩いてしまうのは、本当の終わりが見えているからなのか。

 そうして深夜2時頃、俺は合鍵を返すためにその家の前まで来ていた。時間的にもう寝ているのは確実だったから、鍵をポストの中へ入れ、それで本当に終わりにしようと思っていた
 季節はもう12月で冬真っ只中だったことと、陽が落ちた頃にザーっと降った雨のせいでよく冷えた。そんななか外にいるというのは、ダウンジャケットを着ていようが体の奥まで冷やされるような寒さがあった。
 だからポケットから取り出した鍵をサッサとポストへ入れてしまおう。そうは思うのに、横に細長い入り口の奥へ押し込めない。外気によってすぐに冷たくなってしまう銀色を、どうしても手放せずにいた。

 顔を、ひと目、見るだけ。それだけだ。

 誰にするわけでもない言い訳を頭の中で復唱し、鍵穴へ先端を差し入れていく。カチャン、と錠の回る音がやけに響いて聞こえた。扉を開けた先は暗くとも、真っ直ぐに進めば見慣れた空間があることは知っている。だから電気やライトをつけないまま上がり込んだ。妙な緊張感を感じながら、最後の扉を開く。

 そして動揺した。ななこが起きていたから。恐らく携帯の画面を見ており、ぼぅ、と浮かび上がる顔が確かにこちらを向いたから。

 
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