「ねえ、土井先生はどうしたいの。俺と、先生のこと」
 そう言ったきり丸の目には、私の後ろの夕陽が映り込んで、まるで燃えるようにちらちらと光っている。
 それは、あの日から私の中で静かにくすぶっている炎と似ている。
 消してしまえたら楽なのに、未だに消えない、厄介な炎。



 夕暮れ、きり丸は一人町外れの廃寺にいた。
 何をするわけでもなく、ただ山の向こうに沈みゆく夕陽を見ていた。
 そうしてぼんやりと、昔の出来事を思い出していた。
 あれは五年前の夏。きり丸が一年生だった頃。
 危ないアルバイトに手を出して、自分を過信していたきり丸は案の定危ない目にあった。
 それは怪我をするとかそういう類のものではなく、それこそ貞操の危機だった。
 自分の倍はあるであろう男に組み伏せられ口を塞がれて、きり丸は心底後悔した。ああ、言いつけを守らなかった自分が悪いのだと。
 だが、きり丸の貞操は守られた。
 なぜかきり丸の所在を知っていた半助が、すんでのところで駆け付けてくれたからだ。
 どうしてここに、ときり丸が問うよりも早く、半助はきり丸を殴りつけた。
 それは、宿題を忘れたのを叱るような生易しいものではなく、きり丸が初めて見た半助が本当に怒った姿だった。
 後にも先にも、あそこまで激昂した半助を見たのはあれ一度きりだ。なぜなら、それ以降きり丸は自分の身の丈にあった仕事しかしないようになったからだ。
 今でこそあの頃は出来なかったような仕事や、忍として忍務を受けることもある。それを、別段半助も咎めたりはしない。
 歳月と共に成長したきり丸の諸々の能力を、おそらくは信じていてくれるからだろう、ときり丸は思う。
 そういう所を信じてくれてはいるのだ。でも、半助は肝心なところで自分を信用してくれてはいない、ともきり丸は思っていた。
 だが、そろそろはっきりさせなければいけない。
 だから、これは賭けだった。
 帰ると言った時間を大幅に過ぎて、ここでこうしているきり丸を、果たして半助はあのときのように見つけてくれるのだろうか。
 ほとんど期待などしていなかった。けどもし、もしも見つけてくれたなら。
 今日がその時だと、心に決めていた、


「何やってるんだこんなところで」
「……土井先生」
 呆れた顔でそう呟いた半助に、きり丸は驚きの表情を向けた。
 その顔を見て、半助はその瞳を細めて笑う。
「今日は帰りが早いって言ってたから、もう夕飯作っちゃったんだぞ。早く帰って食べよう」
「先生」
 歩きだそうとした半助を制するようにきり丸が口を開く。
「なんで、俺がここにいるって分かったんすか」
「……さあ……」
 きり丸の問いに、半助は曖昧な笑みを浮かべてそう答えた。
 ああ、またか。ときり丸は思う。
 この土井半助という男は、都合が悪いことにはすぐこうやって曖昧な顔をしてはぐらかそうとする。
 先生、でもね、もうはぐらかされるのにも飽きたんだよ、俺。

「なんとなくだよ。ほら、帰ろう。焼いた魚が冷める」
「あのさぁ先生。俺、来週卒業するんです」
 唐突に、半助の言葉に答えるでもなく、そう話し出したきり丸に、半助は少しだけ驚いたような顔をすると「知ってるよ」と答えた。
「それがどうした」
「卒業したら、しばらくはフリーの忍者としてやっていきますよ、俺」
「それも知ってる。散々進路希望調査で話したろう」
「そしたら、自分の食い扶持は自分で稼げる」
「そうだな」
「家だって借りられます」
「うん」
「ちゃんとしてなかったでしょ、俺が、先生んち出て行くか出て行かないのか、そのへんの話」
「…………」
 きり丸の率直な言葉に、半助はしばらく黙り込むと、また小さく微笑んで、「そうだな」と漏らした。
「どうしたいんだ、おまえは」
「先生が、どうしたいかによります」
 きり丸には分かっていた。半助はいつもきり丸の意思を尊重してくれる。どっちがいい? どれにする? おまえはどうしたい?
 なんでもそうだ。そうやってまずきり丸に決めさせてから、さも半助は自分もそれを選ぶつもりだったかのように振る舞う。
 口では厳しいことを言っていても、結局のところ大いに甘やかされていることに、きり丸はもう随分前から気付いていた。気付いていて、知らん顔をして甘えていた。
 でも、もうそれもお終いだ。
 そのままでは何も変わらない。変われない。
 きり丸と半助の間にある、浅いようで深い溝。埋めようと思えばいつでも埋められたのに、ためらってそのままにしていた溝を、埋めなくてはならない。

 きり丸の言葉に、半助は取り繕うように浮かべていた笑みを消して、なんの感情も読めない顔できり丸を見た。
 きり丸からは逆光になっていて、一層半助の表情は読み取れない。けれど、きり丸は臆せずに言葉を続けた。
「いい加減、先生もどうにかしなきゃと思ってるでしょ」
「……何を」
「俺と、先生のこと」

 親子でもない。兄弟でもない。けれど他人と言うにはあまりにも深い。ただの教師と教え子という言葉でももう形容しきれない。
 別に、きり丸は二人の関係性に名前をつけたいわけではなかった。
 半助ときり丸。それでよかった。けれど、名前はどうあれ、形をはっきりさせないといけないこともある。
 お互いに、もう随分前から気付いている。気付いてしまったのだ。
 自分の中にある感情の正体に。それが、二人とも同じものであることに。

「ねえ、土井先生はどうしたいの。俺と、先生のこと」
 半助の肩越しに陽が沈もうとしている。その光に照らされて、きり丸は目を細めた。
「…………」
 きり丸の言葉に、ただ何も言わず静かな眼差しを返していた半助は、しばらくすると小さく息を吐いて、自らの頭に乗せていた烏帽子を取った。
 癖のある長い髪が揺れて、肩にこぼれ落ちる。もう何度触れたか分からないその髪。決して質がいいとは言えないけれど、きり丸はその髪が好きだった。
「……さあ、どうしたいんだろうな」
 またそうやってはぐらかす。とは言えなかった。
 そう言った半助の声は今にも泣き出しそうで、逆光のせいで顔がよく見えなかったきり丸には、もしかしてすでに泣いているのではないかとさえ思えた。
 きり丸は、夕陽が半助の背中に隠れるまで待った。だんだんと見えてきた半助の顔は、やっぱり泣きそうな顔で微笑んでいたけれど、泣いてはないなかった。
 なんで、そんな顔すんの先生。
 俺たちの先には、そんな顔しなきゃいけない未来しかないって言うの。

「どうしたいか……先生、もう分かってるでしょ」
「分からないよ、私には」
「嘘だよ。俺は分かったよ。先生だって、分かってるはずだ」
「私はきり丸とは違うよ」
「そんなこと知ってるよ。もう誤魔化すのやめようよ、先生」
 そう言って立ち上がったきり丸と対照的に、半助は視線を落とした。
 そうしてきり丸と視線を合わせようとしない半助に、きり丸は一歩、また一歩と近付く。
「……駄目だよ、きり丸」
「どうして」
「駄目だ……無理だよ」
「無理じゃない」
「やめよう、こんな話……これまで通りでいいじゃないか。家には好きな時に帰ってきていい。必要なら仕事だって手伝ってやるし、なんなら」
「先生」
 すぐ目の前まで近付いて、きり丸が語気を強めると、半助はようやく視線を上げた。
 もう見上げることはない。半助を見下ろすほどまでには身長は伸びなかったけれど、ほぼ同じ高さにまできり丸は成長した。
 今なら、こうしてあなたと同じ目線で同じものを見られるんだよ、先生。
 だから、そうやって一人で背負い込もうとしないで。

「土井先生、そんなに俺頼りない?」
「……そういう、話をしてるんじゃ……」
「先生はさ、俺のことを考えてくれてるんでしょ。いつもそう。俺のことを一番に考えてくれる。だから今も、俺が、この先普通に恋愛して、嫁をもらって子を作って、そうやって家族を作るべきだって、そう思ってるんでしょ」
 きり丸の言葉に、半助は小さく唇を開いたまま、次の言葉を探して固まった。
 そうして何も言えない半助の代わりに、きり丸は再び口を開いた。
「俺もね、考えたことあったよ。もしいつか自分の子供が生まれたら、あれしてやろうとか、一緒にこれをしようとか。でもさ、もうしょうがないじゃん。気付いちゃったもん俺」
「きり丸」
 小さく呼んだ半助の声は震えていた。けれど、それでも、きり丸はその言葉を口にする。

「好きだよ、先生。俺、先生のことが好き。先生と、ちゃんと家族になりたい」

 そんなこと、口にしなくても分かっていた。お互いに。けれど、言わなくては前に進めない。
 半助を捉えている枷は、きり丸が外してやらないといけないのだ。自分では、多分もう外し方なんて忘れてしまっているのだろうから。
 きり丸の言葉を受けて、半助の瞳がわずかに見開かれる。この距離ならよく見える。そこには、きり丸だけが映っている。
 表情まではよく見えないけれど、多分、同じように泣きそうな顔をしているのだろう。
「先生、今まで、俺のことを守ってくれてありがとう。俺の幸せを一番に考えてくれてありがとう」
「きりま……」
「俺、自分の身は自分で守れるようになったよ。先生が教えてくれたんだ。自分の幸せをちゃんと掴めるような生き方」
「…………」
「だからさ、もう俺のことばっかり守ろうとか思わないでよ。まだ、二人分抱えられるほどじゃないと思うけど、でも、先生の背中を預かるくらいは、出来るようになったと思うよ」
 ああ、しまった。俺の方が泣きそうだ。
 先生の顔が歪んでいるのは、きっと俺もそんな風な顔をしているからだ。
 目の奥が熱い。格好悪いな。でも、いいんだ。散々この人の前では醜態をさらしてるんだから、今さら涙の一つくらい、しょうがないからくれてやらぁ。
「先生、俺と家族になって。大事なんだ。先生が一番大事なんだ。他を探そうたって、無理なんだ。今も昔も、俺には土井先生しかいないんだ」
 すんでのところで泣くのを堪えたきり丸は、代わりのように半助の頬に一筋流れた雫を見た。
「怖がらないでよ先生。無理じゃないよ出来るよ。夫婦じゃなくたっていい。子供だっていらないよ。でも、俺、しわくちゃになった先生の隣にいたいよ、俺」
「……しわくちゃとは、ひどいな」
「先生の方が早くじいちゃんになるでしょ。でもいいよ。歩けなくなったら、俺がおんぶしてあげる」
「……馬鹿者……足腰の弱る忍者がどこにいる……」
「それでもいいってことが言いたいの」
 きり丸の言葉に、半助は静かに涙を流しながら、小さく微笑む。
 そうして瞳を閉じると、一度だけ鼻をすすってから深呼吸をして、意を決したように口を開いた。
「……おまえが……呼んでくれる者になろうと思ったんだ。父でも、兄でも、おまえがそう呼ぶなら、そうなろうと思った」
「……ん」
「ただの教師と教え子でいられないなら、せめてそうなりたいと。でも、そこで留めておかないといけないって、思ったんだ」
「うん」
「おまえの……夢を、幸せな未来を奪っちゃいけないって、思った。そんなこと、できっこない。でも……でもな」
 そこまで言って、半助は耐えかねたように片手で顔を覆った。溢れ出る涙を堪えるように、唇を噛んで鼻をすする。
「でも……どうしような。どうしたらいいか分からないんだ。ずっと、分からなかった。おまえが卒業する日なんて、来なければいいのにって、そんなことまで、思ってた」
「うん」
「怖いんだ……すごく」
 きり丸には半助の恐怖の正体が分かっていた。だって、きり丸も同じだったのだ。
 自分の幸せを願うことが、相手の幸せを奪うことかもしれない。たとえ想い合っていても、二人の心を添わせることが、本当に互いのためなのか、自信が持てない。
 けれど、きり丸は気付いた。
 半助は、いつまでたってもきり丸を優先しようとしてしまう。嫁ももらわずに、いつまでもきり丸が帰ることが出来る場所を用意して。
 それならばもう、二人で幸せになったっていいじゃないか。
「先生」
 顔を覆っていた半助の手を取って、そっと握りしめる。
 ほらね、先生。手の大きさだって、もうおなんじくらいだよ。
 先生の手を、ちゃんと掴んで立てるよ、俺。
「先生。大丈夫……出来るよ、俺と、先生なら」
 とうとう、きり丸も堪えきれずに一筋涙をこぼした。悲しいのではないけれど、嬉しいのとも違う。ただ、こみ上げてくる。
 これを、愛おしいって、そう言うんだきっと。
「言ってよ、半助さん」
 きり丸がそう言うと、半助は握られた手をぎゅっと握り返した。
 そうして観念したように瞳を閉じ深く息を吐くと、今度は視線をそらさずに、きり丸を真っ直ぐに見て、言った。

「……好きだ……ずっと、好きだったよ。きり丸」
「……うん」

 頷いて、きり丸は半助をその腕の中に抱きしめた。
 昔は、抱きついたところで腰の辺りにしか届かなかったけれど、今なら、その頭を撫でるために手を回すことも出来る。
「ごめん……ごめんな、きり丸。ごめん」
「なんで謝るの。謝らないでよ」
「ごめん……」
 自分の腕の中で、とめどなく涙を溢れさせながら謝る恋人を、落ち着かせるように頭を撫でる。
 泣きじゃくるのはいつも俺のほうで、それを慰めてくれるのは先生の方だったのに。
 でも、俺はずっとこうしてあげたかったんだ。
 だって、先生はいつだって、泣きそうな顔で笑ってたんだ。
「土井先生、あと一週間だけ待って。そしたら、もう大丈夫だから。俺、すぐに大人になるから」
「……卒業したってすぐ大人になるわけじゃない阿呆……」
「泣くか怒るかどっちかにしてくださいよ先生」
「泣いてるのはおまえの方だろうが」
 俺も、だよ。先生。
 だってね先生、嬉しいんだ。幸せなんだ、俺。
「……土井先生、涙が引いたら帰ろう。俺腹減っちゃった」
 きり丸の言葉には答えず、代わりに半助はきり丸の背に回した腕に力を込めた。
 それに気が付いたきり丸は、同じように抱きしめ返す。
 そうしてふと顔を上げると、いつの間にか日は沈んで、遠く西の空が朱く染まっているだけだった。
 今日の帰り道は、五年ぶりに手を繋いで帰れるかもしれない。
 あの時と違うのは、その手をもう離さないってことだ。この先ずっと。

 幸せになろう、二人で。






夕暮れパラレリズム



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