「何をしてる?」

見覚えのある後ろ姿にそう問いかけると彼女__小鳥遊沙雪はゆっくりとこちらを振り向き、俺を捉えて僅かに目を見開いた。「赤司くん、」
呟いた声は小さかったが、透き通ったソプラノは耳に心地よくすんなりと入ってきた。夜の静寂も相俟って響いたのだろうが、彼女はこれほど綺麗な声をしていたのかと少しだけ驚いた。
俺の名前を呟いたきり、こちらを見つめて何も言わない小鳥遊に痺れを切らして最初の問いをもう一度口にする。小鳥遊は小さく首を傾げてフェンスに手をかけた。

「分かってるんじゃないの?」

ああ勿論、分かっていなければ走って屋上にまで来るものか。推測できたからこそこうやって。

「やめてくれないか」
「……どうして? 赤司くんに止められる謂われはないでしょ? 赤司くんにメリットがあるとも思えないし」
「明日の教室が騒がしいのは居心地が悪い。屋上も立ち入り禁止になるだろうし、過ごしにくくなる」

小鳥遊は虚を突かれたように大きく目を見開き、暫く俺を見つめてから、ふと頬を緩めた。

「倫理観の問題じゃないんだ……」
「俺が君の見立てを誤ったようなら訂正するよ」

一般的な倫理観では到底止められないだろうという見立てが誤りなら。小鳥遊は緩く首を振って「ううん、合ってるよ」と苦笑を洩らした。そしてフェンスから手を離して2歩下がる。飛び降りるつもりはないという意思表示だろう。

「元からその気はなかったよ」
「本当に?」

彼女は困ったように首を傾げて、何かを閃いたらしく「そうだなぁ、」と考え込む。言葉をまとめているらしい。

「これは私の個人的な見解だけど、学校の屋上から飛び降りる自殺者の約8割くらいは学校で虐められてる生徒や教員だと思うの」
「残りの2割は?」
「他に場所を知らない人」
「……君の家は、」
「高層マンションの12階。飛び降りればまず即死かな。それで、赤司くんから見て私は虐められてそうかな?」

悪戯な笑顔で尋ねられて、俺はため息を吐いて「いいや、」と言葉を返した。でしょう? とでも言うように小鳥遊は琥珀色の長髪を微かに揺らす。
ちらりと見やった時計はもうすぐ見回りが来る時間帯を示していた。俺は小さくため息をもらして彼女の手首を掴まえて教室の方に歩き出した。勿論屋上の扉は閉めた。
小鳥遊は暫く呆けたように大人しく手を引かれていたが、不意に我に返ったらしく「え、赤司くん……?」と戸惑いながら声をかけてきた。

「君にその意志があるかないかは別にしても、こんな時間に屋上にいれば自殺志願者と間違われて然りだよ。見回りが来たら家族に連絡もいって大騒ぎだろうね」

なりたい? と端的に尋ねると彼女はふるふる首を横に振った。「それは嫌」
荷物を持っていなかった彼女のために教室に向かっているのだと、それは言わなくても伝わったらしい。なにも聞いては来なかった。



「君の家は? 送るよ」

校門を出てから尋ねるとその問いは少なからず彼女を不愉快にさせるものだったらしく、上目遣いで睨まれた。

「私、家知られていいって思うほど赤司くんと親しかった覚えないけど」

なるほど道理である。だが切り返す理屈もまた道理だろう。

「もうすぐ暗くなる頃だし、それに俺はさっきの君が言ったことを全部信じているわけではないからね、帰る途中で車に飛び込まれでもされたら困る。目覚めが悪い」

小鳥遊は不満げに赤司を暫く睨み、仕方がないと諦めたのか小さく息を吐き出した。



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