永遠なんていらない
深い闇に包まれた見慣れた景色を目に焼き付ける。忘れないように、忘れてしまわないように。
最早第二の家とも呼べるこの本丸を、私はこの夜が明けたら去らなければいけない。
歴史修正主義者との戦いは、刀剣男士の勝利という結末で幕を下ろした。無限に出没し続けるかとも思われた歴史修正主義者は、検非違使によって数を減らされたこともあり、本拠地を突き止めてしまえばそれはもう今までの奮闘が嘘であったかのように早いものだった。幸い検非違使は、歴史修正主義者の元締めを倒し時代を遡ることをやめた刀剣男士たちをそれ以上追う気はないようで、本丸にはただただ平和な時間が訪れた。本丸でみんなと戦いが終わったことを祝って騒いで、夜が明けた日の朝である。
まだ半分眠っているような私にこんのすけは無機質な声でこう言った。
「おめでとうございます。貴方様の審神者としての使命は見事果たされました。そこで急なのですが、今日の夜が明けたら貴方様を現世へと帰します。勿論、刀剣男士のことは他言無用です。まあ言っても到底信じてもらえるような話ではありませんが…」
「ちょ、ちょっと待ってこんのすけ!現世に帰るって…いや、帰れるのは嬉しいんだけど、それってどういうこと?私、もしかしてもうみんなに会えないの?」
「一部の刀には会えますよ?博物館があるでしょう。現存している刀剣男士たちはただの刀の形をした付喪神に戻り、そこで眠り続けることになります。現存しない者は神界へ。ああ、安心してください。貴方の刀剣男士の記憶も刀剣男士の貴方の記憶も消えません。今まで戦い抜いてくれた報酬ですよ。人間は親しくなった者を忘れるのは辛いと聞きますからね。」
「そんな……!」
なんということだろう。そんなのってあんまりじゃないのか。他にも言いたいことは山ほどあったのだが、頭の処理が追いつかなく私はそれ以降口をつぐんでしまう。もう会えない。いや、会えないとは少し違うが、少なくとももう彼らと笑い合うこと、一緒に万事屋に繰り出して買い物をしたり、楽しくおしゃべりしたり、そういったことがもうできなくなるということだ。こんなのは、ほぼお別れに近い。こんなにも、突然だというのか。
「今日の、夜が明けたら…」
その日は、もしかしたら審神者としてこの本丸にきてから、一番忙しい日だったかもしれない。みんなを集めて現世に帰らなければいけないことを告げると、短刀たちや清光は泣き出すわ、燭台切が最後だからといって食べきれないほどのご馳走を準備するわ、あまり会話をしたことがなかった大倶利伽羅が自分から話しかけてくるわで、騒がしくて、あったかくて、不覚にも涙が出た。
去り際は潔く泣かないのがいい女、とは誰が言ったか、私はいい女には程遠く、鼻水が止まらなくてグズグズになるまで泣き続けた。つられて泣きだした刀剣男士も何人かいて、見兼ねた石切丸が懐紙を配り歩いていた。その石切丸の目にも涙が浮かんでいたことを私は知っている。みんな寂しいのだ。この本丸から、みんなから離れるのが。
夜になり、床に就いても私は眠ることができなかった。昼間にあんなに別れを惜しみまくり、ようやっと別れの覚悟を決めたというのに、私はまだ寂しいというのか。本丸の夜桜の見納めにと縁側に出てみると、そこには静かに闇夜を照らす三日月と、風に誘われて舞い落ちる花びら以外には何もなく、ここはこんなにも物悲しい所だったかとまた少し感傷に浸ってしまった。
最後なのだから、夜が明けるまでここにいるのも良いかもしれない。そして、これ以上別れ難くなる前に、みんなが目覚める前にここを出てしまってもいいかもいれない。
…もう二度と会えないのなら、いっそ記憶を消してくれた方が良かったのに。忘れてしまうのも悲しいけれど、忘れずもう二度と会えない者を想い続けるのもまた悲しい。
昔聞かされた昔話に、輝夜姫というものがあった。月の世界から追放されたお姫様が人間界で償いをし、時が来ると使いの者が迎えに来て大好きなお爺さんやお婆さんと離れなければいけなかったという話だ。私は姫とかいう柄ではないけれど、自分の住む世界に帰らなければいけない輝夜姫に何か親近感のようなものが湧いて仕方がなかった。輝夜姫も、ラストシーンではこんな気持ちでいたのだろうか。
「…月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見棄て奉りてまかる、空よりも落ちぬべき心地する。」
輝夜姫が手紙に書き置いた一文は、彼女の心の強さを思わせる。彼女は羽衣を着てしまうと感情がなくなってしまうことを知った上でこんな言葉を残したのだ。お爺さんたちの記憶が残らない彼女と、記憶は残る自分。不幸なのはどちらなのだろうか。
ふと、月を見上げた。雲一つない、綺麗な空、形の良い三日月。穏やかで優しげな月の光は、同じ名を持つあの人を思わせた。
「ふむ、竹取物語の一文か?」
「ッうわああ!?」
音一つもない静かな空間に突如響いた声に、夜中だというのについ大声を上げてしまった。足音も、気配もなかったというのに、全くこの人はいつからいたのか。ちょうど思い浮かべていた人物の登場に私の心臓は未だバクバクと鳴っていた。
「み、三日月さん、びっくりしたなぁもう…いつからいたの?」
「いやなに、今しがた。年寄りの眠りは浅くてな。主こそ、一人で花見か?」
「なんとなく眠れなくて。もうこの本丸の桜も見納めかと思うとちょっと…」
ふむ、と一つ呟くと、三日月さんはそれ以上何も言わず静かに私の横に腰を落とした。お香のような、どこか懐かしい良い匂いが香る。心の底から安心するような匂いだ。ちらっと横を盗み見ると、その怖いくらいに整ったこの世のものとは思えない美しい顔は真っ直ぐ月を見据えていた。
空に輝く三日月のように美しいその瞳が、好きだった。柔らかで静かな話し方が、好きだった。戦場で刀を振るうその勇ましく美しい姿が、好きだった。そのどれも彼に直接伝えることは出来なかったけれど、それでもいいと思えるくらいには彼を想っていた。安い言葉に聞こえるかもしれないが、傍にいられるだけで幸せというやつだ。もう傍にもいられなくなるけれど。せめて最後に、彼とこの静かな花見ができてよかったと思う。
現世に戻って博物館に足を運ぶのもいいかもしれないと思えてきた。例え刀の形をしていて、話すこともできなくても、彼の存在を唯一感じられる場所があるならば。刀に恋をしてしまったなんて、可笑しな話だろうか。けれど私にとって、これは確かに恋だったのだ。
「…なあ主よ。輝夜姫が去ったあと、残された者たちは月を見たと思うか?」
「え?何急に…まぁ、見たんじゃないかな。」
「何故?」
「なぜ、って…」
どうして彼は急にこんな質問をするのだろうか。文学に興じる自称文系刀と違って、物語の論評をしたいわけでもないだろうに。
「…忘れたく、なかったから。たとえもう会えなくても、そこにいるんだなぁって見上げるだけで、楽しかった頃のこととか、思い出すことができるから」
三日月さんが月を見上げるのをやめて此方に目線を移した。正面から見るその端正な顔はやはり涙が出そうなほど美しく、この目にずっと見つめられていたいとさえ思えた。何かを言おうと開いた口を少し思案して閉じ、代わりにとろけそうな柔らかい笑みを浮かべて三日月さんがまた口を開く。
「主も、俺を見つめていてくれるか?」
「え?」
言われて、言葉の意図がすぐに掴めなかった。何を言っているのだろうか。今こうして見つめ合っているというのに。
「今、この瞬間の話ではない。主が現世に戻り、俺がただの刀に戻ったあともこうして俺を見つめに来てくれるかと聞いている。」
「…当たり前じゃない。私、話すことも姿を見ることができなくても、確かにそこにいることには変わらないんだから絶対に会いに行こうって、そう思ってたのに…!」
「…っ。…そうか、それは嬉しいな。長い眠りも孤独ではないということだ。ははは。」
そう言って大らかに笑い声を上げる三日月さんはこんな時までいつも通りの三日月さんで、私はひどく安心したのと同時に少し残念に思った。今のは、私なりの精一杯の告白だったのだが、伝わっていなかったのかスルーされたのか。
「夜明けが近いね。私もそろそろお花見はやめて荷物をまとめてくるよ。付き合ってくれてありがとう。現世に戻ったらきっと会いに行くね。…お元気で、三日月さん」
これ以上彼の目を見つめていたら想いが溢れてしまいそうで、言っても困らせるだけのようなことを言ってしまいそうで、どうしようもなかった。素早く目をそらして腰をかけていた場所から立ち上がり、自分の部屋へ向かおうと背を向ける。名残惜しかったが、これ以上離れがたくなってもどうしようもないのだ。
「…主っ……!」
ふと、強い力に惹かれて背中が温かいものに触れた。え、と思う暇もなく身体の前に腕が回される。戦場で刀を美しく振るう美しい手が、傷つくたびに手入れしてきたその身体が、ぴったりと一つになってしまうんじゃないかと思うほどにくっついている。遅れて反応しだした心臓が先ほど驚いた時とは比にならないほどにバクバクと脈打っている。全身が心臓となってしまったかのようだ。
「え、あ、み、三日月さん?!」
混乱して身を捩ると、動きを押さえ込むようにしてさらに強く抱きしめられる。もう何も考えられなくなり動きを止めると、後ろから抱きしめられていたのが反転させられ、前から抱き込まれる形になった。
「…いっそこのまま、隠してしまえれば良かったろうに。」
「え?」
「神域に閉じ込めて、主を人の道から外れさせて、永遠に共に在れたら良かった…」
「…それって、神隠しってやつですか」
聞いたことがある。神に気に入られすぎたり、真名を知られたりした場合、神によって神隠しされる人がいると。その人は神に近いものとなり、永遠の時をその神の神域で暮らすのだ。いっそそれもいいかもしれないと思った。現世に帰れなくなるのは辛いが、それでこの愛しい人と永遠に共に在れるのであれば、それでも。
「そうだ。神と人間が永遠に共に在れる、唯一の方法。だが俺にはできん。」
「どうして…私、三日月さんになら神隠しされたって…!」
「そんなことを言うではないぞ、主よ。俺は主の笑顔が好きなのだ。たくさんの者に囲まれて幸せそうに笑う主の笑顔が。俺にはそれを奪えない。」
背中に回された手に力がこもるのが分かった。さらに小刻みに震えている。想われている。勘違いなどではなく、言葉から、行動から、触れ合った身体からそう感じることができた。
嬉しい、けれどどうしようもなく哀しい。これが最後となってしまうなんて、こんなに優しく包んでくる温もりを、もっと早く感じることができたらよかったのに。
「三日月さん、私、好きです。貴方のことが好きです。ずっと、好きでした。」
「ああ、主。俺も好きだぞ、愛している。」
「ずっと一緒に、いたかった…」
「主が俺に会いに来てくれる限り、いつでも会えるぞ。」
眠っていて私が来たこともわからない状態になるのに?そう思ったが、それでもいいのだと言ったのは自分だったか。話せなくても、会うことができなくても、そこにいることは変わらない。充分幸せなことではないか。
想いが通じ合ったというのにこんなにも満たされないことがあるのだろうか。どうしてこの美しく人間のような姿をした神は人間ではないのか。
「神様なんかじゃ、なかったらよかったのに」
「そうでなければ俺は主と出会えなかったぞ。…なあ主よ、この三日月宗近と出会ったこと、後悔しているか?」
そう問う声は甘く優しく、脳まで溶かすような聞いたことのない響きだった。出会った時のことを脳裏に思い浮かべ目を閉じる。日も高く昇った正午、気まぐれに行った鍛刀で、いつもよりも長く時間がかかることを不思議に思っていた。気になって手伝い札を使って確認すると、私の目の前には見たこともないほど綺麗な青年が立っていて、すっと此方に目を向けた青年のあまりの美しさに息が止まった気がした。そう、きっとあの瞬間、初めて目が合ったあの瞬間から私はー…
「後悔なんてしてない、するわけない…」
「そうだろう。俺もしていない。だから俺は付喪神で、主は人で、これでよかったのだと、俺は思うぞ。」
「うん…うん、そうだね」
「夜が明けるな…もうすぐお別れだ。主、目を閉じてくれるか」
言われた通りそっと目を伏せると、三日月さんの声が耳元で聞こえるようになった。心地よい声、このまま眠りにつけたのなら、どんなにいいか。
「必ずもう一度出会えるように。契の証だ。」
唇に触れた熱は刀だと思えないほど熱く、あぁ、こんなに人間みたいなのに、とまた悲しくなった。
*
満開の桜が風に揺られてはらりはらりと花びらを落としていく。桜は好きだが、どうも本丸での出来事を思い出して感傷に浸ってしまう。
私が現世に帰って、一週間が経とうとしていた。私が審神者として本丸で長い時間を過ごしていた間も現世では同じだけの時間が流れたようなのだが、政府の計らいにより帰された時間は私が本丸へ行った日と同じ日だった。誰も私が長い間現世を離れていたなど気づかない。ただ、私だけがあの日々を覚えている。
腕につけた時計を見ると、大学の入学式の開始時間が迫っていた。間がいいのか悪いのか、私は大学に合格して浮かれていたまさにその日に審神者に就任したのだ。新しく始まる大学ライフにわくわくしていたら刀剣男士を率いて戦う審神者ライフにはらはらしなければいけなくなったとは、本当にあの時はどうなるかと思っていた。
桜並木を一気に突っ切って大学へととにかく走る、走る、走る。この調子でいけば遅刻はまあないだろう。春特有の生温いようなけれど不快ではないような風が頬をかすめていく。
全く人がいないと思いおかましなしに走っていた桜並木の途中、目の前にふと人影が見えた。さっきまで一面桃色だった目の前が暗く変わる。同時に強い衝撃が訪れた。
「わっ、と、ごめんなさい!ちょっと急いでて前が見えてなく、て…」
かなり長身だったその人を見ると、昼だというのにそこには月が見えた。
桜を背景に輝く月。あの日のような。
一つ違うのはそこにいるのは本当に人間だったことだ。あの人のように煌びやかな装飾のついた着物も着ていなければ、髪にも何もつけていない。強いて言うなら少し寝癖がついているくらいか。
恋しすぎてついに幻覚を見てしまったのか。きっと先日博物館に足を運び、現代に保存される三日月宗近を見てしまったからだろう。
よく見るとぶつかった人は全く三日月さんには似ていな………いや、似ていた。まるで本人のようにこの世のものとは思えないほどの美しい顔をして、私を見下ろしていた。
「永遠の時など、一人なら何の意味もないものだな。人の寿命とはその短い時間を誰か大切な者と分けあえるように短いのだ。主よ、聞こえたぞ、その声が。」
その言葉が何を意図しているのか、何を言っているのか、わからない。
けれど、主と優しく呼ぶその声は。その笑顔は。
「三日月さん…!!」
私の身体を抱きとめるその温もりはあの夜の温かさとは少し違い、それは人間の体温だった。