致死量の愛
「ねえ、あるじちゃんはさ、現世に彼氏、っていうのかな。……そういう人は、いなかったの?」
「え!? や、やだもう、燭台切さんってば! そんな人いませんよー! いたらきっと、未練があっただろうから、そもそもこちらの世界には来れませんでしたし」
今日の洗濯当番は僕と山姥切くんだったが、本丸の洗濯量は半端じゃなく多いため、本丸での洗濯は一日に3度行われている。山姥切くんは2回目の外干しにいっていて、その間、僕とたまたま通りかかったあるじちゃんとで、外干しを終えた洗濯物を畳んでいるのだけれど、人ひとりぶん開けて座っているあるじちゃんから、シャンプーの良い香りがして、くらくらしてしまう。
それにしても、あるじちゃんは本当に良い子だなあ。審神者は、仕事が多いと聞くけれど、僕のこんな雑用を手伝っていて、本当にいいのかな。
まあ何であれ、せっかく、大好きなあるじちゃんと2人きりで話す貴重な機会なのだから他愛もない世間話などをしていては勿体無いので、聞きたかったことを、聞くことにした。
とはいっても、こんな、”彼氏の有無”などが聞きたかったわけではない。あるじちゃんの言う通り、その世界に未練がある限りは、世界線の移動は不可能なのだから、あるじちゃんの元いた現世に彼氏なり好きな人なりがいれば、そもそもこちらに移動してくることは不可能だったことを考えれば、察しがつくというものだし。
「ああ、そうだったね。その世界での未練を断ち切れないと、世界線の移動は出来ないんだっけ」
「うん。そうですよ。……わたし、現世には何の未練もありませんでしたから。家族も、それに準ずるものも、なかったですし」
「あ……、ご、ごめん。あるじちゃんを不愉快にさせるつもりは、なかったんだけど……、」
あるじちゃんがふっと俯きながらそんなことを言うので、慌てて謝る。そんな僕の様子を見ておかしくなったのか、あはは、と顔を上げたあるじちゃんに「慌ててる燭台切さん、ちょっと可愛いです」なんて言われてしまった。……可愛いよりも、格好いい、がいいんだけどなあ。
「でも、心配事があって。聞いてくれますか?」
「もちろんだよ。僕でいいのなら、何だって聞くよ」
一転して、不安そうな顔で目を伏せながら、バスタオルを指で弄ぶあるじちゃんに、不覚にも胸が高鳴ってしまう。聞いてくれますか、だなんていじらしいことを言うなあ。僕はいつだってあるじちゃんのしてほしいことをしてあげたいと思っているし、思っているというか、何だってするつもりだ。長谷部くんじゃないけれど、あるじちゃんが望むなら、それこそ手討ちだって、してみせるつもりだ。
でもあるじちゃんはきっと、僕のことをみんなのお母さんだとか、良いお兄さんと思っているということは、気付いているし、知っている。僕は、あるじちゃんが思っているような男では、ない。だけど、あるじちゃんが、僕にそういう男であってほしいと願ううちは、そういう男でいてあげるつもりだ。それが、僕の唯一の、本当の意味であるじちゃんにしてあげられることだと思うから。
「……この戦いが終わったら、わたし、現世に戻らないといけないんです」
「…………それは、そうだね」
それは、知っているけれど。改めてあるじちゃんから言われると、胸にずっしりと鉛を落とされたような気分になってしまう。この戦いも向こう3か月は終わりはしないだろうけれど、僕とあるじちゃんの別れは、もう、すぐそこまで来ているといっても過言ではない。だけどきっと、それがあるじちゃんの心配事ではないのは、目の前のあるじちゃんの表情を見れば、分かることだ。
「わたし、きっと、現世には戻れません」
「……それは、どうして、そう思うのかな」
「…………最近、皆さんと……、もっとたくさんの時を過ごしたいと、思ってしまうんです……、いっそ戦いが、終わらなければいいのにと……。」
――ああ、いけない。
普段、あるじちゃんの命令で斬り伏せている敵と、あるじちゃんの虚ろに伏せられた瞳が、被ってしまう。この目は、いけない。あるじちゃん、ダメだよ。自分を失くしては、刀である僕たちに情を移してしまっては、自分がどうしてここにいるのかを見失っては、いけないと。君はこの世界の歴史を救って、現世に帰ってそれ相応の地位を与えられて、現世で幸せになるべきだと。そう思って、口には出そうとするのに、喉まで出掛っているのに、実際に僕の唇から吐いて出たのは、自分でも驚いてしまうほど、真逆の言葉だった。
「……なら、帰らなければ、いいよ。ずっとここにいよう」
「でも、どうやって……、あと少しでこの世界は救われてしまうのに、そんなこと、」
「だから、救わなくていいんだよ。世界なんて」
「……え、」
泣きそうな瞳をしながら顔を上げるあるじちゃんを、僕は、たまらなく、本気で愛おしいと思う。僕は刀で、この体はあるじちゃんの霊力によって与えられたもので、もしかしたら、このあるじちゃんを愛おしいと感じる感情すらも目の前のあるじちゃんによって造られたものかもしれないけれど、それでも構わないと思えるほどに。
あるじちゃんは、僕たちの、いや、僕のものだ。現世や時の政府なんかに、返してはやらない。なるものか。たとえ格好がつかなくたっていいから、何だってするから。だから、僕のあるじちゃん。
「あるじちゃんは、心の底から、お願いするだけでいいんだ。帰りたくない、ずっとこの世界にいたいって、そうお願いするだけで、叶うんだよ」
眼帯で隠れた右目の瞳の奥が、ボッと燃え上がるのを感じる。これで、もう、後戻りは出来ない。あるじちゃんの覚悟と願いが本物ならば、あるじちゃんはもう僕だけの物になるし、何があっても、あるじちゃんと一緒にいることを誓おう。だから、僕を選んで欲しい。この世界の歴史なんてどうでもいいと、自分がやってきたことを否定して、どうか僕だけのものになって欲しい。
そんな思いを込めて、初めてあるじちゃんの頬に触れる。暖かい、人間の体温だ。もうじき、それすら感じられなくなるけれど。あるじちゃんは一瞬驚いたように僕の目を見て、眼帯の奥で燃え盛る右目の堕ちた炎に気付いたのだろう、覚悟を決めたように、僕の大好きな泣きそうな瞳をしながら、薄い唇を開いた。