僕の呼吸はきっと君を傷つける
「………ねむい。」
宵闇に包まれた午前零時、花も草木も眠るなんとやら。すやすや眠っているだろう刀剣達に思いを馳せ、とっぷりと日の暮れた部屋の片隅で蹲るようにして膝を抱えた。
疲れた目をぎゅっと閉じて、ゆっくりと開く。ぼやける視界と揺らめく蝋燭の暖かさに気の抜けた欠伸をひとつこぼして、抱えた書物をもう一度広げてみる。みんなが頑張って収集してくれた情報を継ぎ剥いで、頭の中に一字一句間違えないように叩き込んでいく。
疲れたなんて弱音を奥歯でぐしゃりと噛み砕いて、すっかりお休みモードに入ろうとしている脳を掻き回すように必死に明日の出陣予定の計画を練っていた。
抜け目なく効率よく、あの子達に少しでも無理をさせないように、傷つかなくてもいいように。
ぺらり、次の項へ進もうとした矢先、きしりと床が軋む音をひろい思わず身をかたくした。
「…………主?」
閉めた襖の奥から、控え目にかけられた声にびくりと肩を揺らしてじっと目を凝らす。聞き覚えのあるそれに返事をする前に、ぼんやりと障子に浮かぶ影がゆっくりと手をのばした。
「主、起きてるの?」
すぅ、と滑らかに開かれた襖の先に立っていたのはずっと前に眠りについたはずの───、
「乱、くん。」
月光に照らされて長い睫毛が白い頬にうっすらと影を落とす。透けるような長い飴色の髪を耳にかけて、少女と見紛うような彼は優しくふふ、とわらった。
「うん、ボクだよ。なぁに、そんなにびっくりして。」
「まさか起きてるなんて思ってなかったからねぇ。」
「あぁ、ちょっと目が覚めちゃって、お水飲みに行こうと思ったら主のお部屋がまだ明るくて………ボク、主に何かあったのかと思って見に来ちゃった。」
驚かせちゃってごめんね、と眉を少し下げた乱くんにううん、と笑いかける。
「ふむふむ…心配してくれたんだね、ありがとう。」
「あたり前だよ、主に何かあったらいけないからね。で、主はこんな時間まで何してるの?」
「ん……、あしたの出陣予定の計画を、ね。」
ちらりと手元を覗き込む様子を見せた彼に、ほら、と少し皺が寄った書物を差し出せば「あぁ、それ。」と納得した表情を浮かべた。
「良かったぁ、ちゃんと役に立ってるんだね。」
「もちろん。これなしじゃ計画が練れないし指揮もまともにとれないから、ありがたいよ。」
「でも明日出陣するところ、そんなに構えなくちゃいけない要素あったかな?」
「例え相手よりこちらの戦力が上回っていたとしても、不測の事態はいつだって起こるからね。もしそんな状況に陥ったときに少しでも対応できれば、って思うんだ。」
他には戦地から離れた安全な場所で君達の無事を祈ることしかできないのだから。なんて、当人に言えば気を遣わせることをうっかりもらしてしまった。これも眠気のせいだろうかとしょぼしょぼと鈍痛を訴える目を乱暴に擦れば、乱くんが慌てたように「ちょ、ちょっとストップ!」と私の手を掴んだ。
「どうし、」
「もぉ、擦ると赤くなっちゃうよ。」
「っん、…あり、がとう……?」
「目のまわりの皮膚って、他のところよりも薄いんだよ。だから気をつけてね。」
「はーい…。」
容姿のせいか、彼は加州並、もしくは加州以上の女子力を備えており、目を擦るという行為もそんな彼から見るとどうやら好ましくないらしい。いたわる様に目もとにひんやりした指先があてられて、ほんの少し身体が跳ねる。
(つめたい指だ、)
刀剣達の体温はうすら寒い梅雨の日に似ていて、どこか物悲しい温かみだった。
「頑張るのも良いけど、そんなに気をはらなくても大丈夫だから、ね?」
「んー…でも、やっぱり心配しちゃうんだ。みんなのこと、信じてはいるんだけどね。だから……これで少しでもみんなの負担が減るなら、頑張りたいんだよ。」
「………ふふ、それならもうちょっと自分の身を気にして……警戒しなくちゃだめだよ?」
「え…?乱く、」
とん。と、軽い音が聞こえ、それはまさに刹那だった。いきなり両肩を掴まれ、そのまま後ろへふわりと自分の身体が重力に従って布団に押し倒される。握っていた書物が足元に散らばっていく。まるでスローモーションのような曖昧な光景の中、それでも彼だけは鮮明なままだった。やはりいつもように白く浮き出るような頬を緩め、ひどくやさしい表情でわらっていたのだ。
「主ったら、隙だらけだよぉ?」
触れられた手と蕩けるような声に引き攣った喉がひゅっと掠れた音を出す。
ぎゅう、と押し付けられた冷たい身体の感触に底冷えするようだった。
つつつ、とはだけた着物の隙間を縫って鎖骨のラインを確かめるようになぞられる。唖然としたままの私はその感触に反応が遅れ、数秒遅れで薄い胸板をぐいっと押し返した。
「やーん!もぉ、おさわり禁止!…なんちゃって。」
「やめ、てっ…!」
「えぇ?こんなに楽しいのに?」
「遊んでる暇ない、から…っ。」
「…ボクは真剣だよ。」
「なにい、ってるの……。」
「騒ぐとみんな起きちゃうから静かにしててよ。ほら、頑張りどきじゃないの?」
「っ、どいて……!」
「やぁだ。」
支配者気取りの彼はあくまでいつものように可愛らしくわらってみせる。が、その笑みと共にそんなに重くはないであろう体重を焦らすようにかけられて息が詰まった。ぴりりと第六感が微かに危険を感じ取る。この子がこんなことするはずない、のに。そう、思っていたのに。
どうしてだか彼の熱をおびた双眸の中にやりきれない哀しさが透けて見えたような気がして、その内側を探るように瞬きを繰り返した。
「なぁに?そんなにボクと乱れたいの?」
お決まりのセリフと共につぅ、と頬に細い指が滑り出す。見つめあったままやさしく撫でる指先と裏腹にいつものあざと可愛い笑顔は妖艶な微笑をたたえていた。さらりと彼の艶の良い髪が顔にかかって、くすぐったいのに払いのける手が動かない。第六感の頼りない感覚はそのとき確かなものになり、私の心臓が今更のようにざわりと騒ぎ出す。と、それを捉えたのか、乱くんは頬にあてた手とは反対の手を私の左胸にそっと這わせ、にたりと諦めきったように口角を歪にあげた。
「…ねぇ、主は、やっぱり人間なんだね。」
(なにが、そんなに、)
「乱くん、」
「……すっごくばくばくいってるよ、主のここ。」
「ひ、ぁっ、」
「ふふ、可愛い。」
乱くんの綺麗な目の奥に燻るような獣の熱が見えて、痺れるような感覚が脳の回転を鈍らせる。
ただ煮えるような熱が背筋からゆっくりせり上がる感覚が恐怖とともにこもっていくばかりで。
「っ、乱くんだめだって、ば……………っ!」
私のか細い抗議の声に、ぺろりと舌なめずりをしてみせる余裕綽々な態度。短刀の比較的幼い容姿からは思いもつかない獰猛さに乾いた呼吸が彼の名前の通りに乱されていく。
射止めるようにぎらつく彼の捕食者じみた目が弓なりに細められて、
「…油断大敵、だよ?」
トーンを落とした乱くんの声が脳髄を揺らす。まるで、止めを刺されたかのようなその言葉と少年には似つかわしくない色気にくらりと眩暈がした。
ほの暗い感情を秘めた彼の瞳が瞬く。空を映したような色が澱んでいく気がして、どうしようもなく私は無力で。
(ねぇ、なにがそんなに、かなしいの──?)
そんな言葉もかけられず、さ迷うようにのばした指先に満足したような表情をこぼして、乱くんは私の自由を握り潰すかのように両手首を縫い止めたのだった。