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「おーい、平野…って、あぁ?」

 奥から出てきた男は、この店のホストらしい。平野というのは受付の名というどうでもいい情報を得た。ホストはどう見てもこの場所にそぐわない樋口を見て顔を歪めた。焦げ茶の髪をオールバックにし、胸元を大胆にはだけさせた大人の色気を放つホスト。どうやらこの男、No.1のようで、受付の上にある写真に男の名前も書かれていた。源氏名はトキというらしい。

「何だこのガキ」
「っな! 誰がガキだ!」

 不愉快そうに自分を見つめるホストからガキと言われ、樋口はむっとした。確かにトキから見れば自分はガキかもしれない。しかし、言われて腹が立つものは立つんだとトキを睨み上げる。

「うっせーよガキ。…ッチ、平野、こいつ何だ?」
「わ、わかりません…。突然来て」
「ふーん…」

 チラ、とトキは樋口を見る。樋口は面倒事になる前に退散しようと思い、踵を返した。否、訂正しよう。返そうとした――。

「ああ、そうだ、思い出したぜ。こいつは俺に用事があるんだ」

 は?
 樋口は目を真ん丸にしてトキを見る。何意味分からないことを言っているんだと口に出す前に、トキが視線で制した。脅すような顔一瞬怯んだ隙を狙ってトキが出鱈目をベラベラ喋り始める。

「一度も会ったことなかったんでな、思い出すまでに時間が掛かった」
「…はあ。えっと、何故店に?」
「悪いな、プライベートな内容なんで言えねえんだわ。こいつと話があるから奥の部屋借りるぞ」
「ちょ」

 口を挟めず話が進んでしまった。樋口はそこで漸く焦り出す。このホスト、トキとは本当に一度も面識がない。それはホストの言うとおりだが、樋口は罰ゲームでここに来たわけであり、トキに用事があったからでは断じてないのだ。部屋に連れ込まれて何をされるのか分からない。金の要求か、脅しの文句か、予想も付かない。分かっていれば対処できるのだから、尚更状況は悪かった。

「おい、行くぞ」

 無視して帰ろうとした樋口に営業スマイルを向けた。無言の圧力をかけながらトキが樋口の腕を掴むと、樋口は手に込められた力に顔を顰めた。そして舌打ちする。逃げることはできないようだ。樋口は体から力を抜いて降参の意を示した。












 部屋に入った瞬間、樋口はトキの手を振り払った。力が緩んでいた所為か、簡単に解放される。樋口はギロリと睨み付け足元に置いてある芥箱を蹴り上げた。その芥箱はトキの横擦れ擦れを通り、壁にぶつかって床を転がった。トキは無様に転がる少し変形した芥箱を一瞥して肩を竦めた。

「暴力的だな」
「煩ぇ。…何で嘘を吐いた。俺を連れてきた目的は何だよ」
「目的? んなの決まってんだろ」

 樋口の視線に全く怯えた様子のないトキは、口角を上げて嫌らしい笑みを浮かべた。流石No.1の男と言えようか、そのような顔も甚く似合っている。

「面白そうだったからだ」
「……はあ?」
「最近何も面白いことがなくて退屈してたんだよ。……なあお前さ、ここで働いてみねえか」
「は!?」

 半目でトキを見ていた樋口は衝撃の言葉に目を剥いて声を荒げた。

「なんで俺がっ! つか未成年だぞ」
「大丈夫だ、お前なら成人で通る。良かったな」
「どういう意味だ! 良くねえよ!」

 言外に老けていると言っているトキに掴みかかるが、ひょいと易々と避けたものだから、体制を崩し危うく倒れそうになった。その無様な様子を鼻でせせら笑うトキ。樋口の実力を知る者がこの場にいたならば、顔を真っ青している光景だ。

「てめっ…!」
「残念だったな、ガキにゃ負けねえよ。オーナーには話付けとくから、明日絶対来いよ?」
「……っ!」

 悔しがる樋口のワックスで固められた髪をぐしゃりと握って顔を近づけた。どちらかが少しでも動けば唇が当たってしまいそうな至近距離。呆然としている顔を見てトキが笑うと、その吐息が当たり、樋口はびくりと肩を跳ねさせ硬直した。

「もし来なかったらお前のこと、ホストに入り浸るホモ野郎と言い触らしてやるよ」

 低俗な脅し文句に、思わず樋口は噴き出しそうになった。誰が信じるというのだろうか、そんな嘘丸出しの言葉に。しかも、トキは樋口のことを何も知らない。馬鹿かと内心大笑いしていると、髪を掴んでいた手が後ろに突き飛ばされるのと共に放された。何とか体制を整えると、もう用はないとばかりにトキの横を通り過ぎた。罵詈雑言を浴びせたい気持ちもあったが、それ以上にこの場に一秒たりともいたくなかった。
 ドアノブに手を伸ばした時だった。

「樋口秀哉」

 トキから発せられたのは、紛れもなく自分の名だった。樋口は勢い良く振り向く。トキはゆっくり振り返り、そしてあるものを見せつけるように上げた。

「なっ……!」
「お前偉いな、生徒手帳持ち歩くなんてよ」

 樋口は慌ててポケットに手を突っ込む。そこに入っていた筈のものが無くなっていることに気づき顔を青くした。個人情報の書かれている生徒手帳が盗られていることで状況は一変する。

「まあお前の名前は結構有名だけどな、色んな意味で」
「か、返せ…!」
「おっと。これを返すわけにはいかねえよ。……どうだ、やる気になったか?」

 さっと生徒手帳を隠してニヤリと笑うトキに射殺さんばかりの視線を向けたが、矢張り怯える様子は露ほども見受けられない。殴りかかったところでトキは自分を簡単にいなしてしまうだろう。樋口は大きく舌打ちをして力一杯壁を蹴った。

「交渉成立だな」

 如何に誰もが惚れ惚れするような格好良い笑みでも、樋口の目には悪魔の微笑みにしか映らなかった。

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