廊下を歩いていたら上から聞こえてきた音色につられ、美術室、視聴覚室、と特別教室が並ぶ4階の特別棟に自然と足が動いて気づけば音楽室の前にいた。 防音がきいているはずの音楽室だけどかすかな音が聞こえるのは、誰かが窓をあけて弾いているからだろうか? 演奏中に入るのは気が引けたけれど、この優しい音色を奏でている人が誰なのか知りたいという気持ちが勝ってしまい、失礼にあたるかもしれないと思いながらもそっと数センチ、扉をあけて中をのぞいた。 (…え) 柔らかくてどこまでも優しい一音一音。 有名な曲で、自分も弾いたことのある作品。 ピアノ曲としてひたすら綺麗で優しく、どこか切なさも感じられる繊細な調べ。 音楽室の中央に置かれたグランドピアノの前には、よく見知った先輩がいた。 部活の先輩方の中で、跡部や忍足がクラシック音楽に造詣が深く、バイオリンをはじめ楽器を演奏することは知っていた。 けれども目の前で一寸のゆらぎもなく鍵盤を滑らかに、繊細で優しい音を紡いでいるのはそのどちらでもない、別の先輩だ。 いつか、跡部邸でピアノを弾かせてもらったときに、スタインウェイの傍で体を丸め、気持ちよさそうにクッション抱えて寝転がっていた先輩の姿を思い出す。 バイオリンの忍足と、さすが何でも出来るミスターパーフェクトな跡部はビオラだチェロだと気の向くままに楽器を変えては鳳のピアノにあわせ、セッションを楽しんだ。 その時に見学していた宍戸や向日らは『さすが坊ちゃんたちは高尚な趣味ですこと』『リコーダーで入ってやろうか』などど軽口叩きあい、間に挟まれた芥川はただただ楽しそうに頷きながら、跡部邸での生演奏に耳を傾け、気持ちよさそうにすやすや目を閉じていた。 そうえいば『どうせ俺らは楽器なんてなーんも出来ねぇよ』と言っていたのは宍戸や向日の二人だったか。 ついつい3年の先輩方を、こと『音楽』の面で分けると、跡部・忍足に他の先輩方と勝手にくくっていた気がする。 『楽器なんてなにも出来ない』 この台詞は、幼稚舎の記憶を呼び起こしてみても、芥川からは聞いたことが無い。かといってこの先輩が何か楽器を演奏しているところも見たことがない。 『何聞いても眠くなる』 何度かこのフレーズを彼が呟いて、すーっと眠りに落ちるところは目撃してはいるけれど、それでもクラシックが流れているときは幾分、表情が柔らかくて気持ちよさそうなので、意外にもクラシック音楽が好きなんだなと嬉しく思ったりもしたものだ。 何よりも、ピアノを前にすると『鳳、何か弾いて?』と必ずねだってくる。 跡部の別荘で合宿を行った夏。 テニス部の合宿で訪れたカナダ。 U17の選抜合宿を行った中学時代。 どこでも必ず、皆が休む憩いのスペースにはピアノが置かれてあって、鳳を含め造詣の深い者は気分転換の一種で演奏することもあった。 そういえばピアノを弾き終えると、いつのまに芥川が近くのソファで眠っていることが多かったか。 『鳳のピアノ、好き。まっすぐで、聞いてると気持ちよく眠れる。ねぇ、もっと弾いて?』 『慈郎先輩、結局寝ちゃうんですか〜?』 聞いているんだか寝ているんだかわからないけれど、『鳳のピアノが好き』なのは本当らしく、ピアノがある場所では必ず『なんか弾いて?』が出てくる彼のおねだりは、素直に嬉しくて、ついついリクエストをかなえるべく鍵盤に向かう機会が多かった。 100%寝てしまうので、弾き終えた後は何とも複雑な気分にもなったものだけど。 昼休みの音楽室に響く、キラキラ輝く、弾む音色。 『慈郎先輩』が奏でるのは、優しくて切ない、どこまでも綺麗なドビュッシー。 「…おおとり?」 「あ…」 柔らかな音色がピタっと止まった。 自分以外の気配に気づいたようで、顔をあげて入り口に立つ生徒へ視線を向け、それが馴染みの後輩と知ると相好を崩していつもの笑顔を浮かべた。 「すみません、邪魔したみたいて」 「なぁに言ってんだよ」 「慈郎先輩、ピアノ弾くんですね」 「ん?あぁ、うん。たまにね」 「凄く、その…何て言うか、意外で」 「あはは、学校じゃあんま弾かねぇしー。次の時間、うちのクラス学活で、テーマが『自習』だからさ、タローちゃんに頼んで音楽室貸してもらってんの」 「榊先生、ですか…?」 「そ。真面目に練習するなら良し、ってココの鍵借りた」 つまりは榊も芥川がピアノを弾き、しかもかなりの腕前であることを知っている、と? そんな疑問は芥川が続けた言葉でクリアになった。 「今日タローちゃんちでピアノの日だから」 「…榊先生のレッスン?」 「レッスンっていうか、好き勝手弾いてるだけだけどさー。思いっきり弾かせてくれるし、ゴハンもケーキつきで用意してくれっから、たのCよ」 氷帝学園の一音楽教師とはいえ、教師は道楽だとも囁かれている我がテニス部元顧問。 中等部時代の部活顧問なので、高等部の今となってはテニス部の関わりはさほどない。 氷帝の教師は中高にまたがって教鞭をふるうため、音楽の先生としての繋がりだけなのだが、こと本格的に音楽の道に進もうとする生徒は必ず榊先生へと進路相談に訪れる。 榊グループのバックアップを受けて大成した卒業生もおり、コンクールの審査員も行うこともあるほどクラシック音楽業界に顔がきき、指導者としての評判もかなり高い。 そんな榊太郎が、現在教えているのがこの先輩だというのか。 「鳳も来る?一緒にいこーよ、タローちゃん家」 「え…いや、慈郎先輩のレッスン、ですよね?」 幼稚舎の頃、将来の夢で『ピアノを弾く人』と書いたことを思い出した。 小さい頃から習い事のひとつとしてピアノは身近なもので、テニスに打ち込むようになって練習を疎かにしてしまったこともあるけれど、それでもピアノは好きだ。 クラシカルな音色に癒されるし、弾いているときは無心に、日々の雑務から開放されて気持ちがリフレッシュできる、そんなストレス解消にもなる『趣味』ではある。 ただ、ピアノとの将来を真剣に考えたこともあり、今も少し揺れている自分自身の将来。 『ピアニスト』と素直に言えるほど自身の目標がクリアなわけでもなく、師事しているピアノの先生からは『そろそろ真剣に将来を』と仄めかされているのも事実だ。 楽器演奏とは程遠い位置にいると思っていた先輩が、音楽指導者として著名な榊の個人レッスンを受けている事実に驚きと、どこか妬ましい気持ちがふっと沸いてきて、その感情に戸惑った。 自分はやはり、ピアノの道に進みたいのだろうか、と。 「だーかーらぁ、レッスンじゃねーし!ピアノ弾いて、ゴハンたべてケーキも食べる日!」 「はぁ」 「こないだ岳人も来たし、今日たぶん宍戸来るから、鳳もいこ?」 「宍戸さんもですか?!え、でも、ピアノのレッスンじゃ」 「一緒に『猫ふんじゃった』弾いた」 「宍戸さんがピアノ!?」 「最初すっげぇ嫌がってたけど、教えてもらいながらやりだしたら、意外と面白かったみたい。たのしそーだった」 「宍戸さんがピアノ…」 「こっそり練習してっから、跡部たちに言うなよ?」 「え…もしかして、向日先輩もですか?」 「そ。ほら、『どうせ俺らは楽器なんて出来ねーよ』が口癖だったじゃん」 どうやら中等部時代『さすが坊ちゃんたちは趣味もご高尚なことで』と言っていた『楽器弾けないほう』の先輩方は、密かに努力を始めクラシック音楽の世界に足を突っ込みだしたらしい。 特に目的があるわけでもなさそうだが、『打倒・侑士!』に燃える向日につきあっていたら、自然と宍戸も楽器に触れるようになっていったのだとか。 「色々やってっけど、岳人は今んとこビオラが多いかな〜」 「弦楽器ですか?向日先輩が?!」 「忍足がヴァイオリンじゃん?んで、岳人も同じヤツで勝負するんだって」 「でも、いまヴィオラって…」 「たまたま先生ん家にあったのがビオラで、岳人がそれやるってゆーから、センセーが教えてる。岳人、ヴァイオリンだと思ってやってっから」 「え、大きさが全然ー」 「面白いから俺もタローちゃんも黙ってっけど、宍戸はわかってねーよ、きっと」 「じゃあ、宍戸さんは…ピアノ、ですか?」 「うーん、ピアノも弾くけど、吹く系のほうが好きっぽい」 「管楽器ってことですか?」 「宍戸、リコーダー上手いんだよね」 「リコーダー…」 「うーんと、オーボエと、クラリネットっしょ?ホルンにトランペット、色々手だしてたけど、今はサックスで落ち着いてる、かな」 「宍戸さんが、サックス…」 「結構うまくなったよ。たぶん今日も、サックス練習すると思うC〜」 「…俺も、行っていいですか?」 「!うん、一緒にあそぼ」 自身が思い悩む『ピアノの道』に、予想外の位置から入り込んできた『才能ある先輩』に感じた少しの妬ましさや羨ましさ。 その全てを吹き飛ばすほど、先輩の語る『ピアノ弾いてゴハンとケーキを食べる回』は楽しそうで、特に普段からは想像がつかない、『ヴィオラを弾く向日』と『サックスを吹く宍戸』の演奏は是非とも聞いてみたい。 それに、残念ながら手を止めてしまったけれど、芥川のピアノをもっともっと聴いてみたいと純粋に思った。 それほど、先ほどの音色は美しく、耳に残るものだったので。 いつも先輩が言ってくる台詞を、今回は返してみようか? けれども鳳が『慈郎先輩、ピアノ弾いてください』と告げる前に、サっと椅子からおりてピアノの前からはなれてしまった。 立ち上がった先輩を名残惜しげに見つめると、振り返って柔らかい笑みを浮かべ、いつもの台詞をかけてきた。 「鳳、何か弾いて?」 ああ、やっぱり先に言われてしまったな。 続く『鳳のピアノ好き』に、先ほどまで先輩に感じていた嫉妬が何だったのか、すっと気持ちが軽くなり、純粋に嬉しくどこかくすぐったい気分になってくる。 鍵盤に向かい、大きく息を吸って深く深呼吸。 芥川はすでに壁にもたれて腰掛け、ピアノに向かう後輩をにこにこと楽しそうに眺めている。 先ほど先輩が奏でていたのはピアノ独奏曲の第3曲、どこまでも優しく切ない月の音。 彼のような煌いた音は出せないけれど、先輩が好きだと言ってくれる『まっすぐな音』で紡ぐのは、同じ独奏曲の『前奏曲』 チラっと横目で壁際の彼を見ると、目を閉じて気持ちよさそうに頭を揺らしている。 きっと演奏が終わる頃にはすーすーと寝息を零しながら眠っているのだろう、いつものように。 容易に想像できて何だか笑えてきた。 先生の家で、連弾を申し込んでみようか。 ベルガマスク組曲を奏でながら、今夜の榊宅で先輩に何を弾いてもらおうか、何の曲を一緒に弾いてもらおうか、思いを馳せては楽しみがぐっと大きくなった。 けれどもこの先輩のことだから、『猫ふんじゃった!』というかもしれない。 さらには『猫ふんじゃったなら俺も出来る!』と乱入してくるであろう他の先輩と、『それなら鳳と宍戸(岳人)でやんなよ』とにこにこ笑いながら席をゆずって、ソファで体丸めて寝転がるところまでも、軽く想像が出来てしまって、これまた笑ってしまった。 (終わり) >>目次 |