女生徒の熱いリクエストにより、家庭科の時間は2月14日当日も相まって『お菓子作り』という半ば娯楽目的な授業になった。 男子生徒らは調理室を埋め尽くす甘い甘い匂いとはしゃぐ女子に、辟易する生徒、呆れる生徒、勘弁してくれと適当にチョコレートを湯銭する生徒ら多数。 男にとっては『もらえるか、もらえないか』が冷酷に突きつけられる、楽しみなような、そうでもないような、微妙なイベントともいえよう。 ただ、当日に『お菓子の調理実習』を行った複数のクラスでは、女子に直接もらえていないにしろ、『一緒に作った』お菓子であるからして、『女の子に貰った』と言えなくも無い、と己を納得させて帰路につく生徒も数人。 逆に、確実にバレンタインプレゼントを貰える男子生徒からすれば… 特により多くのチョコでカバンをパンパンにさせ、持ち帰るのも多少困難ないわゆる人気の高い男子高校生らには、『調理実習までもお菓子かよ』とノリ気でないことは確か。 なんせ他クラスの子からならまだしも、クラスメートの女子からも『これ、バレンタイン』と調理実習のお菓子を渡されたりもするので。 自分の取り分に加え、他班の女子が作ったとはいえ調理実習のチョコ菓子が倍になっても。 それすら貰えない男子学生にしてみれば羨ましい限りだけれど、物凄い数のチョコレートをもらうごく一部の男子から言わせると、『悪いけど本当にいらない』ときっぱり言いたくなるのを抑えて、ひとまず貰うだけ貰ってカバンに突っ込んでやり過ごす。 学活を終えて、逃げるようにテニス部の部室に走ってきた日吉若も、その『ごく一部』の男子に属する生徒だ。 >>> 日吉の2月14日 <<< 「先輩…?」 これ以上呼び止められるのは御免とばかりに終礼後、教室を飛び出て一目散に部室にやってきた。 普段は『廊下は走らない』と注意していても、今日はやけに女子の視線が熱く、若干身の危険も感じたためか部外者立ち入り禁止な『テニスコート』か『部室』という安全な場所へ逃げるべく一直線。 そのまま家に帰りたい気もするが、部長としてそんな理由で部を休むなんて許されない。 (何でいるんだ。…今日、出るのか?) ほんの数ヶ月前までは、部室のソファで寝こける上級生の姿は見慣れたもので、まるで置物かのように違和感なく、氷帝テニス部のゴージャスな部室に馴染み、日吉本人も気にせず着替えていた。 秋前に引退した後は基本的に自由参加となっているため、先輩方の参加はまばらで、宍戸は度々自身の練習と指導に訪れ、向日と付き添いの忍足も度々顔を出してはいる。 ただ、前部長は元々部に顔を出していても自身の鍛錬よりチームメートへの指導がメインだったためか、引退してからテニスコートへ姿を見せることはあまりない。 そして彼に次ぐ実力のナンバー2も、普段誰かしらに引きずられて練習に出ていたためか、引退した今となってはコートにやってくることは元部長並みに稀だったりする。 ごくたまに、旧レギュラー部員の先輩方が全員揃って部活に参加し、新レギュラーの2年生相手に打ち合ってくれることはあるけれど。 それでもこの先輩はベンチで寝ていたり、『後輩を鍛えるため』の先輩方の練習参加のはずが、元部長相手にコートでシングルスマッチを行い、楽しそうにゲームしている姿は何度か見ている。 特に今日のようなイベント日では、日吉以上に凄いことになっているであろう3年生の先輩方なので、こんな日に全員で練習参加しようものなら、観客席は女生徒たちで溢れ凄まじいことになりそうだ。 なんせ、先輩方の『全員参加日』は事前通告なくやってくることが多く、日吉ですら知らない時もある。 それなのに観客席の女生徒が通常の倍以上溢れていたりするので、女子の情報網の早さは恐ろしいと感じる反面、その数で『今日、先輩たち来るのか』とわかる目安にもなるため、一概に邪魔だとも言えなかったりする。 ソファで寝転がりながら、幸せそうにふにゃふにゃの笑みを浮かべ横たわる先輩を眺め、つい数ヶ月前までの『日常』をふと思い出した。 どうせ起きないし言っても無駄だと半ば切り捨て、寝ている先輩をよそにさっさと着替えてコートへ向かっていた数ヶ月前までの自分。 対して、この先輩を連れてきていたのは基本的には樺地であり、向日や忍足、宍戸、時に跡部だった。 そういえば鳳が背負ってきたときもあったか。 日吉だけが蚊帳の外…というワケではないが、あえて自分から関わろうとしていなかったのだろうかと、ふと過去を思い浮かべてどこか仲間はずれ……なんてことは口が裂けても言いたくは無いが、他の先輩方や同級生とは異なる立ち位置にいたのかもしれないと僅かな寂しさを覚える。 …寂しい? いいや、そんなワケがあるか。 (…俺だって、U17合宿でこの人おぶって運んだ) そう。 あれは先輩方が部を引退してしばらくし、急遽召集された高校生の選抜合宿の時。 氷帝学園として呼ばれ当事レギュラー勢ぞろいで参加した際に、バスで寝てしまったこの人を運んだのは何を隠そう、樺地でも鳳でも、先輩方でもなく日吉だ。 なにゆえ日吉になったのかは割愛するが、そんな部員は鉄拳制裁な立海とは違い、特にこの先輩にはことさら甘い先輩方には『無理やり起こす』選択肢は無い。 よって、当然のように背負って合宿所まで移動する運びになっていた。 一度も起きなかった先輩にいっそ清清しい思いさえも湧いたものだが、不思議と面倒くさいなどという嫌な気分にはならなくて。 どちらかといえば手間のかかる小動物の面倒を見ている時のような、どこか庇護欲がそそられ和む気分になり、この先輩の世話をやく先輩方やチームメートの気持ちが少しわかった気がした。 …庇護欲?和む? いいや、何言ってるんだ。相手はいくら小柄で可愛らしい人とはいえ、年上の男の先輩だ。 (…可愛らしいって) 「う…ん、ん…っ…」 (…起きた?) 睡眠中の先輩が身じろぎし、かけてあったジャージの上着がずれて床に落ちた。 何気なく拾ってみると、内側には『芥川』の刺繍の文字。 制服のまま寝ているとはいえ、ジャージを持ってきているということは、やはり本日は『全員参加』なのだろうか。 「ちょこ…たべ……る」 (……) いったい何の夢を見ているのか。 ちょうど窓からの日差しが降り注ぎ、金色の髪がいつも以上にきらきら光っている。 冬空が広がる外は寒いけれど、室温が快適に保たれた部室と、さらに太陽の光を浴びている先輩はポカポカ温かいのか、体を丸めてはいるものの気持ち良さそうな顔で、平和な寝言まで出てくる始末。 たくさん貰ったであろうチョコレートの夢でもみているのか。 それとも、単にお腹が空いているだけなのか? ふと、家庭科の実習で作ったチョコレート菓子が脳裏をよぎり、そういえば突っ込んだままだったとカバンをあけて、同じ班の女生徒が包装してくれた包みを取り出す。 『チョコレートのお菓子』というざっくりした課題で、班ごとに作るものはまちまちだったけれど、男子は基本的に同じ班の女子に言われるがまま、彼女たちの作りたいものをサポートする役目をひたすら務めた。 計4名の日吉の班では、女子2人の希望で『マフィン』となり、日吉ともう一人の男子生徒はひたすらチョコレートを湯銭にかけたり、粉を混ぜたり、器具を洗ったりと彼女らの召使のように、せっせと手伝いに励んだ。 普段ならばともかく、今日というイベントがいけないのだろう。 いつも以上に力強いオーラをかもし出す女子たちには、逆らわない方が得策だ。 もちろん『チョコレートマフィン』なのだが、彼女たちの少しの温情で、チョコレートのみではなく別のマフィンも焼いてくれたことが、他の班よりはマシかもしれない。 (なんせ他の班はチョコづくしだったので) 取り出したチョコレートマフィンとピーナツバターマフィンを、先ほど『ちょこ…たべ……る』と呟いた先輩の口元へ持っていき、袋のまま置いてみた。 お店のお菓子ではなく手作りかつ簡素なラッピングなので、袋越しに匂いが伝わったのだろう、甘い匂いを感じたらしい先輩の両目がうっすら開く。 (あ、起きた) 「…う?」 「おはようございます」 「…ひよ?」 「はい。今日、練習出るんですか?」 「れんしゅう…」 テニス、練習、部活、学校…一つずつ単語をならべて呟いている先輩を眺め、この人はこうやって声にすることで覚醒前の頭を整理させているのだろうと理解し、そのままロッカーを開けてカバンを突っ込み、ジャージを引っ張り出した。 素早く着替えてテニスバッグを肩にかけ、ロッカールームを出て先輩のいるソファへ戻ると、そこにはすっかり目覚めたらしい芥川がもそもそと口を動かしている。 (早っ…) 特に何も言っていないので、先輩が手にしているマフィン2つがいったいいつどこで、誰が置いたものなのか芥川にはわからないはずだが。 いくらお腹がすいていたとしても、躊躇なく口に運べるものなのだろうか? 不思議と呆れでついつい先輩の口元を凝視したら、『ひよ、ありがとう』とお礼を言われた。 …なぜ、誰が置いたのかわかったのだろう? そんな疑問が顔に出ていたのか、芥川は笑ってニオイしたからと、よくわからないことを返してきた。 「匂い?」 「うん。これ」 「…チョコレートの匂い、ですか?」 「それもあるけど〜、ひよのにおい」 「…は?」 いったいどんな野生児…もとい、嗅覚をしているのか。 家から持ってきたものなら、誰それの家の匂い的にわかるものもあるかもしれないが、数時間前の調理実習で作った菓子で、ラッピングは女子からの提供物。 袋に入れたのも、日吉本人ではなく同じ班の女生徒だ。 それを、『日吉の匂い』とは。 「これ、食べていーんでしょ?」 「もう食べてるじゃないですか」 「えへへ。おいCよ」 チョコレートマフィンを食べ終え、2つめのピーナツバターマフィンに着手しようとしている。 よほどお腹が空いていたのか。それにしては飲み物も何も無い状態で粉モノのお菓子は、少しきつくないだろうか? 食べ終えてからか、または今すぐにでも『ノド乾いたー』が出そうだなと思えど、あいにく冷蔵庫の中に日吉のドリンクは冷やしていない。他の部員のペットボトルがいくつか入ってはいるが、いくらチームメートとはいえ勝手に出すわけにもいかないだろう。 仕方ない。 肩にかけていたテニスバッグをさげて水筒を取り出し、中身の液体を注いでマフィンを頬張る先輩に差し出した。 「う?」 「どうぞ。喉に詰まらせても困りますから」 「ありがとー!」 ホカホカ湯気を立てている液体は、日吉が自宅から持参している温かいお茶で、冬場は毎日昼食のお供として欠かせないものだ。 受け取った水筒のカップに嬉しそうに口をつけ、温かいお茶を含んでは喉を潤し、次の一口とマフィンを食べ進める。 そんな先輩をしげしげと眺めていたら、部室のドアが開いて先輩方が次々と入ってきた。 「クソクソ、ジロー。先に来てたのかよ」 「ったく、いつの間にいねぇし。探しただろーが」 「えへへ、先に来ちゃった〜」 「お前、ショートホームルームいなかったけど、どこ行ってたんだ?」 「ここにいたよ〜」 「どらぁ、ジロー!!学活サボってんじゃねぇ!」 「宍戸、うるさいC」 ヤレヤレと一瞥した忍足と滝は、さっさとロッカールームに着替えに行き、向日と宍戸はソファの芥川へ連続で説教を食らわせる。 そんな先輩方のお馴染みの光景に安堵しきった表情の鳳は、嬉しそうににこにこと3人の先輩を見つめており、樺地はそれが習性だとでもいうのか、芥川が散らかしたマフィンの包みと食べかすを器用にティッシュで包んでいる。 無言でそんな皆を眺める新部長の日吉にとっては、一瞬で数ヶ月前のテニス部に戻ったかのような、そんな不思議な感覚に陥った。 同時に、隣の鳳のようにどこか安堵している自分もいて、先輩たちという圧倒的な存在をこんなにも頼りにしていたのだろうかと思う反面、それではいけないだろう。 部長として先頭で引っ張らねばと、気持ち新たに自身を戒めた。 「なんだよずっりぃ、自分だけ何食ってんだ」 「マフィンだよ〜おいしー」 「バレンタインチョコ?」 「チョコじゃねぇもん」 「くっ…、わかってらぁ。バレンタインに貰ったのか?って意味だろーが」 「そうだよ〜。岳人、あげないからね」 「んにゃろう……ってか、零しながら食ってんじゃねーよ!樺地が大変だろ」 「えぇ〜?」 『バレンタインに貰ったのか?』『そうだよ〜』のやり取りに、ちょっと待ったと手がでかかった日吉だけど、ここで突っ込んだらマフィンの出所がバレる上、面白がる性質の向日に散々言われ、さらに合流するであろう忍足がニヤニヤした笑顔でからかってくるに違いない。 ここは黙っておく方がいいだろう。 幸い、芥川は例年たくさんのバレンタインギフトを貰っているためか、向日も『誰にもらったのか』にさほど興味は無いようで、芥川も特段そのことを言う気配は無い。 (芥川先輩……頼むから、何も言うなよ) このまま部活をスタートし、マフィンには触れないまま一日が終えることを願って、部室を出ようとテニスバッグをかつぎなおす。 ……が、隣の鳳からまさかの一言が出てきて、進もうとした足が止まった。 「ねぇ、日吉。あのマフィンってさぁ、調理実習で今日作ったヤツじゃない?」 「…!!」 ―なぜ、それを。 思わずぎょっと鳳を振り返ると、やっぱりと確信した表情で自分ももらったのだとサラっと告げられる。 「さっき、日吉のクラスの子から貰ったんだよね。チョコのマフィンと、ピーナツバターのヤツ。あの子、日吉と同じ班って言ってたし、F組でマフィン作ったのその班だけだって」 「………確かに実習でマフィンを作ったけど、4人の班だ。お前が貰ったのは、班の女子1人からだろ」 もう一人女子がいたのだから、その子が芥川へプレゼントしたのかもしれないじゃないか。 暗にそう思ってくれと可能性として鳳へ告げるも、そう都合よく解釈してくれるわけもなく。 「その子、2人で来たんだけどさ」 「…え」 「日吉と同じ班だった2人。俺が貰ったときに、隣の席のヤツが欲しいってお願いしたら、もう一人の子がマフィンそいつにくれたんだよね」 「………班員は4人だ」 さすがに苦しい切り替えしか。 班の男子と芥川の接点は皆無かつ、普通に考えて顔見知りでもない2年男子が3年男子に実習のマフィンをあげるなんて無い話だ。 となれば、芥川がぱくついているピーナツバターマフィンは、残る班員の物に違いないワケで。 「日吉のでしょ?あれ」 「……別に、俺は」 「バレンタインいっぱい貰ったから、さすがに実習までお菓子で胸焼けしちゃった?」 食べないから部室で会った先輩にあげたんでしょ、と何でもないように言われ、ただ単に自分が気にしすぎていただけかと大きなため息(安堵含む)が出た。 ほんの少しあがった体温をすぐさま冷ましたい。 顔を洗うか、寒空の下ランニングにでも出るか。 甘い匂いが立ち込めるこの空間を一刻も早く立ち去ろうとドアをあけ、出て行いった。 ―隣の鳳の腕を引っ張りながら。 (終わり) >>目次 |