本マグロの中トロ。 脂が多いものより赤身を好むので、大トロはあぶって柑橘系と薬味でさっぱりと。 基本の赤身はもちろん、カマ、脳天、ほほ肉に珍しい尾まで。 「どうだい?」 「うまいッス」 カウンターでお馴染みの紫の炭酸ジュースを飲みながら、次々に出される握りを食べ進める20代の若者。この店に来るときは基本的にお任せで握ってもらうけれど、とある経緯で巨大マグロ一本まるごとが店に届いていたため、本日は特別にマグロのフルコースになっている。 「けどウチで解体ショーやる日がくるとはね。びっくりしたなぁ」 「親父さん、凄いッスね」 「はは、親父だけだと無理だったよ。築地のおやっさんが手伝いに来てくれたから、助かった」 中学時代の先輩後輩でもあるカウンターの若者とすし屋の若大将。 仕込みからたまご焼き、ツメ、と下ごしらえはだいたい任せてもらえるようになったけれど、まだまだ握りは父親たる大将が現役。一応の及第点は貰っている二代目も、大将と一緒にカウンターに立つことを条件に握らせてもらっており、基本的にはサポート役をこなしつつ日々修行に励んでいる。 ただ、中学時代のチームメートが客として来店する時のみ、大将の許可が出るので一人でカウンターに立ち、握りを披露しては友人らにふるまっている。ただし、決まってお店が定休日かつ、多少の割引を条件に未熟な二代目の握りで了承してもらっているのだが。 (なんせ無謀にも中学生の頃、定休日を利用し友人らに振舞うというおままごとのようなことも許してくれた父なので) 「しっかしいいマグロだなぁ。さすが」 「やっぱ日本で食う寿司が一番」 「アメリカでも日本食レストランによく行くんだろ?」 「まぁ。そこそこ食えるけど、やっぱり握り寿司はここッスよ。」 「そういってもらえると嬉しいなぁ」 11月のツアーファイナル決勝であっさり優勝を決めたカウンターの若者、もとい中学時代の後輩は翌週帰国し、マスメディアの対応に追われテレビで見ない日は無いほと取り上げられていた。人気者も大変だとニュースを見ながら父と話していたものだが、急にかかってきた電話がくだんの本人で、食べに行きたいが行ってもいいか?とのことだったため快諾した。 いつものように定休日で貸切状態(二代目の握り)か? けれど後輩のスケジュールもあるだろうから定休日の曜日と合うかどうか。 それに、大将も『せっかく越前くんが来るなら、俺も握るか』とやる気を出していて、世間を賑わすヒーローが急に現れたらお店がパニックになるかも……と思えばやはり定休日のほうがいいのかもしれない。 曜日の調整をどうしようか父親と相談していたら、次にかかってきた電話がこれまた馴染み深い御仁だった。 中学時代、夏の関東大会と全国大会。二度もぶつかった関東の強豪校を当時率いていた有名すぎる部長は、今は後輩の筆頭スポンサーの企業グループ、御曹司という立場。 何度か店に来たこともあり、社会人となった今も来日すると友人や同僚を連れてきてくれる『たまに来る常連』といえよう。 こちらも予約かと思いきや内容は後輩に関することで、越前が希望するものを届けていいかとのお伺いだった。その『内容』に正直驚いたけどめったにない機会ではあるし、一介の下町のすし屋では中々手に入れることなど出来ないので、念のため大将に相談したら目を輝かせてはしゃいだため、電話相手には快諾した。受話器を置いたあと、よくよく考えてみればさばけるのか?という疑問にぶちあたったけれど、大将は昔、修行中に何度か解体ショーを行ったことがあるらしく何とかなると楽天的だった。少し不安を抱いたまま当日を迎えたら、配送してくれたのが普段世話になってる築地のおやっさんで、手伝うべく道具を全て揃えて来てくれたので事なきを得て、解体ショーは盛大に盛り上がり終了。 貸切のほうがいいだろうと後輩に言ってみたけれど、せっかくの解体ショーなら他に客がいたほうがお店的にもいいだろし、一人でマグロ一本なんて食べれないから是非お店のために使ってくれ、と通常営業をすすめてくれた。それならばとお店は貸切にしたけれど長年贔屓にしてくれている常連に声をかけ、ご近所の人たちが来てくれて、皆でマグロフルコースに舌鼓を打った。 連日の報道で顔が知れわたっている後輩も、店の常連たちには『ツアーファイナルで優勝したプロ選手』ではなく『二代目の中学時代の後輩』として扱われるため、居心地はいいようだ。 「手塚は予選、残念だったね」 「ファイナルのどの試合より、前の大会の手塚さんとの試合のほうが疲れたッス」 「ファイナル前までは調子良かったのに」 「そんなもん。ま、年間何十試合のうち、たまたま調子落とした試合だったんじゃない?」 「で、越前は絶好調だった、てことかい?」 「アレが俺の100%じゃないけどね」 「はいはい。来年は年間1位目指して、年明けのオーストラリア、応援してるよ」 「ちぇ。あと少しだったのに」 「今年の年間2位なんだ。凄いよ。1位と2位が青学の卒業生だなんて」 「来年は俺、負けないから」 「全勝が目標か」 「ま、そうッス」 「といっても今年、落とした試合なんてそう無いだろ?ジャパンオープンの手塚と、夏のクレーでの芥川―」 「あー、負けた試合は覚えてないッス」 年間のポイント上位で争うツアーファイナルの大会。 見事2位で出場を決めた越前リョーマは、予選で快勝しそのまま決勝トーナメントも危なげなくストレート勝ちをおさめ優勝に輝いた。最大のライバルはランキング1位の手塚国光なのだが、調子が今ひとつだったのか精彩を欠くプレーの連続で、何とか予選は2位であがってきたが本戦で敗れてしまい、決勝で越前と対戦することは無かった。 いくら強くても、年間何十試合もするので勝ったり負けたりの繰り返しで、勝ち続けられる選手などいない。素晴らしいプレーで勝利した次の試合で、驚くほど動けずに敗退してしまうこともある。体の一部に違和感を覚えたり、怪我や調子の悪さを自覚している場合ならともかく、身体的に問題はなくてもふとしたことで調子を落とすし、試合中に急にタイミングがあってきてそのまま流れでセットを奪えることもあり、一概に『調子』とも『体の疲れ具合』とも『精神的なもの』ともいえないのがテニスだ。 「芥川はどうなんだい?」 「ジローさん?」 「前に店にきたときは怪我はもう大丈夫って言ってたけど」 「年明けから本格復帰。結構もう動けてるし、調子あげてるから年明けが楽しみではあるね」 「来年のフレンチオープンは絶対勝つって宣言してたなぁ」 「あの人、クレーがめちゃくちゃ強いから」 「そういや芥川の今年の優勝、どれもクレーだね。そのうち一つが、越前から―」 「あー、負けた試合は覚えてないッス」 越前的には夏のクレーコートでの敗戦は悔しいものではあったが、そんな感情を吹き飛ばすほど優勝した彼が素晴らしいプレーをして、会場の観客と同じく越前自身も彼の繰り出す一球一球に魅了されたことは否定しない。フルセットまでいったけれど、清清しい敗戦といえよう。彼との試合はとても楽しかったし、表彰式でも素直に『完敗だった。優勝おめでとう』と本人に伝えることができた。 「まぁ、越前も手塚も芥川も。来年、皆が怪我なく、満足いく結果で無事にシーズンを終えてくれることを願うよ」 「まだ始まってないんスけど……ま、ありがとうございます」 その三人は何れも『全勝、怪我せず各試合を乗り切る、ランキング1位、四大大会優勝』と同じような目標を掲げているので全員が『満足いく結果』を得られるかは微妙なところではあるが。 (特にランキング首位と次点がいるので) 年に数回、来日するたびに寄らせてもらっている『かわむらすし』 さほど味にうるさいわけではないが、中学の頃から先輩の握りを賞味している身としては徐々にあがっていく二代目の腕を実感していて、何気に来日の楽しみの一つにしている。特に今回はスポンサー様の計らいで、何気なくリクエストした『食べたいもの』がとんでもない形で実行されたため、アメリカに戻ったら一応礼を言いにマンションを訪ねるか、と思わないこともない。 メールに写真でも添えてthanks letterを送っておくか、それともアメリカへ戻ってからでいいか。いや、無連絡だとホテル戻ってから電話が来そうなので、先にメッセージだけでも? (ま、いっか) とりあえずは先輩の優しさ癒されながら、今この瞬間を楽しむべく。 新たに出されたマグロ節の味噌汁と中トロ中落ち巻きをいただくことにした後輩だった。 (終わり) >>目次 |