それはまだ、六花が姉姫と呼ばれていた頃のお話。
今夜も、姉姫の部屋には狒々が来た。
何が気に入ったのか、いつの日かの邂逅以降、こうしてちょくちょく茶を飲みにやってくる友達になっている。
この関係に名前は、まだない。
「おぅ、姉姫。邪魔するぞ」
「いらっしゃいませ、狒々様」
姉姫の淹れた茶を、ずず、と飲む狒々。
大きな手に小さな湯飲みが何とも器用に収まっていた。
話題は、どちらも他愛のないものばかり。
「狒々様、聞いてくださいな」
このところ、姉姫の妹である珱姫のところへ、姉姫から見たら大層胡散臭い妖が出入りしていた。
それこそがぬらりひょん━━未来の珱の旦那である、と
今日という日も、「夕方にあのクソジジイとやりあってちょっと疲れた」ことを、大分言葉をまろやかにして零したのだった。
「狒々様からも、どうか言ってくださいませ」
「無理言うな」
俺の言葉を聞く玉かよ、と楽しげに笑う狒々に、分かっていたが溜息を抑えられない。
やれやれと息を吐いた姉姫へ、とんでも発言をしたのは狒々だった。
「なぁ……嬢は、大将に気があンのかい?」
「は?」
苦々しい顔の狒々が、姉姫の方を見ずに問う。
ずず、と茶を啜り、間をとった。
「大将の話だと口数が増えるし、何より口調が違う」
「そう、でしょうか?」
何がどう転んでもあれだけは絶対にない、と姉姫の心の内では最早「あれ」扱いなのだが、残念ながら狒々に読心術や悟りの能力はない。
面白くなさそうな狒々の横顔を眺めながら、姉姫は小さく唸って答えた。
「狒々様の気のせいでは?」
「それだっての。俺を狒々“様”と呼ぶだろう」
「狒々様にはこの命を救われた身。敬うのは当然でしょう?」
「大将のことは“あのジジイ”。それだけ気を許してんだ」
「可愛い妹を誑かす輩が嫌いなだけですよ」
「それにしたってなぁ」
なにがそんなに面白くないのか、狒々はむすっとした顔を崩さない。
少し考えて、姉姫は至って軽く呼びかけた。
「じゃあ、狒々ちゃん」
「ちゃ、ちゃん?!」
「いけない? 狒々ちゃん、とても綺麗な顔をしてるんだもの」
ひくりとこめかみをひきつらせる狒々だが、飄々とした姉姫の横顔に何を感じたのか、やがてクハッと吹き出した。
つられて姉姫も笑い出す。
「あー、面白ぇ。なぁ嬢、お前、やっぱり儂の女になれ」
「ええ? あ、そうだ、女といえば、この前あのジジイが」
「待て待て待て。人が口説いてる時に他の男の話をすんのか?」
儂だけを見てろよ、嬢。
先ほどまでとは打って変わって、真摯な表情で姉姫を見つめる狒々。
その視線を一身に受けながら、姉姫は小さく首を傾げた。絹糸を思わせる漆黒の髪が、サラリと肩を滑る。
見惚れる狒々の視線の先で、桃色の唇が小さく開いた。
「そうねぇ。狒々ちゃんを見てるのも、楽しいんだけど……でも」
「でも?」
「私、もっと他にも見たいものがあるから。狒々ちゃんだけを見てる訳にはいかないのよ」
ごめんなさいね、と告げる姉姫の表情は、微塵も悪びれていなかった。
「手強いのぅ……」
そういう狒々の顔もまた、微塵も落ち込んではいない。
「なら、儂は嬢の何じゃ?」
「何、と言われても……茶飲み友達?」
「茶飲み友達! 儂と嬢は茶飲み友達か!」
「嫌?」
「いいや、それでいいぜェ。今はな!」
きゃははっ、と独特の笑いを零し、狒々は腹を捩って面白がった。
月だけが見ている夜。
少し距離の近くなった二人は、顔を見合わせてまた、笑い合ったのだった。