雨上がりの坂道を駆け上がるとき、いつもその先の景色を想像して胸を膨らませていた。友人からは冷たいだとかなんだとか言われているけれど、人並みに美しいものを愛でる心は持っている。坂の天辺まで来た時眼下に広がる、水を含んで輝いた街並みを綺麗だと思ったのはこの道を通るようになってから。好きな人に会うようになってからだった。
「先生、おはようございます」
寂れたアパートの錆びれた扉を控えめに叩くと、暫くしてから家主がのっそり現れる。ギギ、と言わせながら開いたドアの向こうで何度か眠そうに瞬きをした天然パーマの男は「おー」と、体を横にずらした。入れということらしい。
「お邪魔します」
最初の頃靴を揃えていると、よくできた子だねえと関心されたのを今でも覚えている。しゃがんで同じように並べていると、男はさっさと部屋の奥へ引き上げていった。こういうのにいちいち反応しなくなったのは、きっと「慣れ」なんだろう。来るのが当たり前になったから、見慣れた光景にわざわざ感想を述べるまでもない。ふ、と少しだけ息を吐いた。
狭いワンルームに敷いた万年床に男は伸びていた。
「また飲んだんですか」
「おー」
「ほどほどにしてください」
おー、と気のない返事だ。こいつ、おーしか言ってねえ。なんなんだ。
隣にどかっと座ると、横になったまま手を伸ばしてきた。ジーンズ越しに撫でられ、くすぐったい。
「起きないと太りますよ」
んー、と今度は腰に抱きついてきて腹にぐりぐりと頭を擦りつけてくる。だからくすぐったいって!
「先生、やめ…、ッ」
めくれ上がったTシャツの隙間から敏感な脇腹に髪の毛が当たると、びく、と反応すると、顔を上げた男がにやにやといやらしい笑みを浮かべている。
「あ、感じた」
どうしてこの男はこういう時だけ聡いんだろう。不埒な手が、いつの間にか全身を這っていて、唇から熱い息が漏れ出ていく。
気持ちいい?と聞く男の掠れた低い声が耳に心地いい。あ、と意味のない声を上げて、ひたすら目の前の快楽を追っていく。汗に濡れた肌がべとべとしているけれど、それでも構わなかった。俺の好きな人も汗だくで俺に触ってくれているから。
必死になっている姿が見られるのって、こういう時だけだなと思う。だっていつもやる気ないし、何が起きても傍観に徹してるし、みんなと一線引いて、遠くから「あー頑張れよ」なんて面倒くさそうに言うだけなのだ。
そんな男が快感に歪めた顔で、俺を追い上げようと必死になっているのを見ると、少しだけ、いい気持ちになれる。こういうのってやっぱり性格悪いって思われるのかな。
余り人に相談しないたちで、結構自分で消化してしまうから、割と淡白に思われがちだけど、俺は思い込んだらとことんそれに嵌るタイプだった。だからこうやって好きな人が自分のために一所懸命になってくれるのを嬉しいと思う気持ちを、心が狭いからとか、そういう悪い方向にしか考えられないのだった。そしてそれは好きな相手だったら当然持つべき感情なんだということを指摘してくれる人も、当然いないのだった。
「もういきそう?」
腰を揺らして聞いてくる。ぐい、と奥までいれると、ゆっくりひいていく。その動作を繰り返され、たまらない。
首を振っていやだと言うと、そんなにいきたくないのと返される。
「いれっぱなしもありか」
それはいやだ。ふやけた視界のなか、精一杯睨みつけると、男から熱い吐息が漏れた。
「ほんっとやらしい体だからよォ、俺としても離れたくないんだよな」
熱に浮かされた頭で考える。いやらしいから、離れたくない?それって、俺の体が気持ちいいってことか。俺とはちょっと違うなと思った。俺は好きだからこういうことをしたいと思う。気持ちがいいからしたいんじゃない。
収縮を繰り返す中で男が果てる。スキン越しにどろりとした粘液を感じ取った。
微妙なことを言われたのだとはっきり自覚したのは、その後もう一回とねだった男がずるりと俺の中から抜いた時だった。
ひくひくと熱を追いかけるように収縮する俺の体に、いやらしい笑みを浮かべた男が言った。
「こんなかわいい体じゃ、女に見せらんねえよな」
どういう意味だ。女?女って誰だ。俺が女を作った時のことを言ってるのか。男の俺と、どっかの女とじゃ、俺の方がこういうことが上手にできるって、自慢したいってこと?
「土方?」
あんた、俺の体のことしか考えてないんだな。こんな陳腐なセリフ、ドラマの中だけだと思っていたのに。体現する日が来るとは夢にも思わなかった。
「な、なんで泣いてんだ」
目の前の男がおろおろしだした。そこはお得意の話術でどうにかしろよ。
拳を握って、濡れた頬を力任せに擦った。くそ、止まんねえ。
声も無く泣いている俺に、男はため息をついた。それにまた、心臓がえぐられるような心地がして、あ、もう終わりだななんて思っていた。こんな面倒臭いやつ、困るだろう。でも最後くらい困らせてやってもいいかななんて思ったりもした。
「…落ち着いた?」
いれていたものを抜き取られ、体も濡れタオルできれいに拭われたあとに、優しい声がかけられる。
昂った感情の波も穏やかなそれに戻りつつあって、俺はこくりと頷いた。
「泣いてすみません」
「いや、それはいいけど…びっくりした」
心臓に悪い、と苦笑いしながら銀色の髪の毛をかき回した。ぐしゃぐしゃな頭が余計にすごいことになっている。
「どうしたの急に」
「どうしたって…別に何もないです」
「何もないわけねーだろ。ほら、言ってみ」
「…」
「十四郎」
そんな声で呼ぶなよ。今さっき自分の立場を理解したっていうのに。優しくすんな。
「俺は、先生が好きです」
困らせてやろう。その一心だった。一種の意趣返しだ。俺が本当は重たいやつだって、性格の悪いやつだって、明かしてやる。体目当てだったのに、相手が本気になったら、きっと男も弱るだろうから。
「先生のだらしないところとかいい加減なところとか、そういう悪いところも全部ひっくるめて好きです。だから先生も…銀八も俺のこと、好きになってください」
「えーっと…」
「無理ならいいです。今まで、ありがとうございました」
男のーー銀八の困惑した表情が思いの外ダメージが大きくて、とりあえず逃げ出したい気持ちから布団の外に投げ出されてた衣類を手早く身につける。
「おい、待て」
立ち上がったところで、ぐい、と手をひかれ、銀八の裸の胸に倒れこんだ。それから思い切り抱きしめられ、耳元で「行くな」と静かな声がした。
たったそれだけで、俺の決意はぐらりと揺れた。だって、好きな人だ。一緒にいたい。視界が歪む。
「好きだよ。もうとっくの昔から、お前だけだ」
少しだけ体を離すと、涙を拭われて軽く額にキスされる。
「お前が真面目すぎるくらい真面目なこと、忘れてた。悪かった。不安にさせちまったな」
それからまた、今度は唇が重ねられる。軽いリップ音と共に離れ、愛しいという気持ちを前面に出した銀八に、俺の顔が真っ赤に染まった。
「さっきのあれは…その、そう言えば盛り上がるかと思って言ったんだよ。傷つけるつもりはなかった」
ごめんな。
銀八の低い声は、俺の脳に直接響いてくるようだった。人を好きになることが、こんなにも苦しくて、切なくて、甘いものだなんて、誰も教えてはくれなかった。
恥ずかしくなって、窓の方を見ると、小さい粒が見えた気がした。
「あ、雨降ってる。先生、洗濯物」
わっと、慌てて俺が立ち上がると、途端に甘く優しい空気が霧散していく。がらりと僅かに立て付けの悪い窓を開け、ベランダの半乾きの衣類を引っ掴む。ぼうっと、こちらを眩しいものでも見るような目をした銀八に「はいこれ!」と渡した。
「…十四郎、いつでも嫁に来ていいからな」
何を思ったのかしみじみそう言われた。意味わかんねえ。
「雨、やむかな」
俺は照れているのを誤魔化すように話題をそらした。それに、銀八はしょうがないなって顔をして、でもそれ以上は追求しなかった。
「小雨だろ。きっと夕方には上がってる」
「うん」
もう一度、窓の外を見た。
小さな雨粒が、涙のように降っている。でもきっとそれもいつかはやむのだろう。
夕日に照らされて、水に濡れた街が輝くのを想像しただけで、単純な俺は幸せな気分になるのだった。