01

『この電車は七時三十二分発、のぞみ二十号。新大阪行きです。次の停車駅は品川です』

 東京駅、東海道新幹線のホーム内。ここで三人の男女が、やや焦った様子で改札へと続く階段を見守っていた。
 三人のうち栗色の髪な女が、さっきから何度も電光掲示板の時計を気にしている。
「真琴ちゃん、遅いですね……」
「ったく、何してんだよ」
 顔を歪めて応答したのは、三人の中でも一番老けている男だった。天然パーマなのか、前髪がくるくるしている。
 最後のひとりは眉間に皺を寄せて、腕を組んでいた。神経質そうに革靴の爪先を鳴らしている。苛々しているのだろうか。

 この三人、それぞれが小型のトランクを持っていた。男ふたりは、そのトランクにビジネスバッグを固定している。女は肩掛けのショルダーバッグだ。
 平日早朝の新幹線ホームは、スーツを着込んだビジネスマンでごった返していた。特に博多方面は出張関係が多い。
 車内清掃が終わり、搭乗可能になった新幹線に、低血圧気味の顔色の悪さで、次々と黒スーツのビジネスマンが乗り込んでいった。

 そしてこの三人も例外ではない。
 男二人はスーツを着用している。けれどほかのビジネスマンと異なる箇所がひとつ。なぜか二人とも首許にアスコットタイを巻いていた。そこだけが妙に違和感を感じてしまう。
 女は私服だがセンスの良いデザインのものを着用している。くりっとした丸い眼が、しっかり者な印象を受けた。

『まもなく十八番線ホームから、のぞみ二十号が発車いたします。駆け込み乗車は、危険ですからおやめください』

 発車ベルがホームに轟く。
 三人は明らかに焦った様相で顔をきょろきょろし始めた。
 ずっとだんまりしていた眼つきの悪い男が、焦燥の口許を開く。

「どこまで行ったんだ、あいつ」

 ※ ※ ※

 時は少し遡る。
 十八番線ホームへ昇る長いエスカレーターで、真琴は幾度となくあくびを繰り返していた。そのたび目尻に涙が溜まる。せっかく付けてきたマスカラが滲んでしまうではないか。
 二段前にいる真琴の先輩、ペトラが穏和な笑みで振り返った。
「真琴ちゃん、朝弱いの? 髪の毛に寝癖ついてるし」
 口許に手を添えてペトラはクスッと笑った。

 この人は真琴と同じ進撃出版社の編集部員だ。真琴より二年前に就職しており、とても世話上手な人なので、可愛がってもらっている。誰もが突然異動してきた真琴に、邪魔っけな態度を取るというのに、これはありがたいことだった。

 真琴は拙いとばかりに唇を結んで、髪の毛を押さえつける。
「ど、どこら辺ですか!? 朝、寝坊しちゃってちゃんとセットできなかったから」
「横のとこだよ」
 そう言ってペトラは手を伸ばし、真琴の跳ねているであろう部分を撫でる。困ったように眉根を下げた。
「かなり頑固ね……。電車に乗ったら寝癖直し、貸してあげるわ」
「いいですか!? 私ワックスとか全部トランクに入れてきちゃったんで……」
「うん。バッグに入ってるから」
 優しい笑みを浮かべるペトラの後ろから、ひん曲がった口の男が見降ろしてきた。
「出張の日に寝坊してんな。みんなに迷惑かけるんだぞ」

 上から目線で真琴を注意したのは、やはり同じ会社の編集部員、天然パーマのオルオだ。ペトラとは同期で、実はこのふたり恋人である。彼は老け顔であるがペトラとは同年代というのだから、知ったときはたまげたものだ。
 真琴は苦笑する。

「取り溜めてた動画を、つい深夜まで観てたせいですね……。でも待ち合わせの時間に間に合って良かったです」
「そういうのは休日にしろよな」
「ですよね……」
 もっともな意見に真琴は身を小さくした。ふいに背後から、ブラウスを引っ張られる感覚に振り返る。
「何ですか? リヴァイ副編集長」
「何じゃない。お前、気づいてねぇのか」
「へ? 何でしょう?」

 はてなマークで眼をぱちくりしている真琴を見て、リヴァイは呆れたふうな溜息をついた。そのあとで、また真琴のブラウスを引っ張る。だらしなく端が出ていた。
 真琴はその部分を見降ろして、眼を見張ったと思いきや大声を上げた。

「ああ――っ!」
 うるさいというふうに眼を眇めて、リヴァイが耳を塞いだ。周囲のビジネスマンからも、やかましいというふうな視線を一斉に浴びてしまう。
 すみません……。と真琴は周りに頭を下げ、恐縮して口の中で呟いた。そのあとで、ズボンからはみ出していたブラウスをウエストに詰め込む。
「朝、慌ただしかったもので……」
「姿見くらい見てから外へ出ろ。そんなんで東京駅まで来たのか」

 呆れ顔のリヴァイと真琴は社内恋愛中だった。二人が恋人なのは秘密だけれど。
 真琴は別に秘密だからって構わない。社内人気ナンバーワンのリヴァイとつき合っているだなんて知れたら、全女子社員からいじめられそうだし。リヴァイもそういうのに巻き込まれるのが面倒なのかもしれないし。

 エスカレーターの頂上が近づき、真琴は脇に据えたトランクの取っ手を掴む。とてつもなく重いトランクを転がせてホームに足を踏み入れた。
 ペトラが特急券の席番号を確認しているようだ。まだ新幹線が到着していないホームの、五号車の方角を指差してみんなを誘導し始めた。

 不思議だ。新幹線ホームにくると感慨深くなる。故郷が懐かしくなるというか、とにかく胸の中が言い知れぬ哀愁でいっぱいになる。――真琴の故郷は東京なのだけれども。
 出張だというのに遠足のようなわくわく感もある。駄目だ、そんな気分でいることを悟られたらリヴァイにどやされること間違いなし、そう思っている間に五号車前に辿り着いた。

 電車を待っていると、オルオが白い眼を真琴に向けてきた。
「お前、ずいぶんとでかいトランクだな。海外にでも行くのか」
 真琴のトランクは高さがウエスト付近まである、海外二週間用の巨大トランクだった。
「最初はもう一回り小さいやつにしようと思ってたんですけど、入りきらなくて。これでもいろいろ妥協したんですよ」

 決まりが悪い思いを隠すために、真琴は笑って頭を掻いた。
 待ち合わせの場所に到着したとき、三人はどれもコンパクトタイプのトランクだった。あまりにも自分の用意してきたトランクが目立ち過ぎて、真琴は穴があったら入りたいほどだった。
 だけど奇怪に思う。

「みなさん、よくその小さなトランクで、三日分の洋服が入りましたね……」
「逆に俺は聞きたい」
 割り込んできた涼しい声はリヴァイだった。
「たったの三日なのに、なぜ海外用トランクなのか。それでさえ入りきらなかった物があったという、お前の支度を」
「えっとですね。ドライヤーとかバスタオルとか……」
 答えたら、困ったふうにペトラが笑い出す。
「真琴ちゃん、真琴ちゃん。ドライヤーもタオルも、全部旅館に常備されてるから」
 なぬ!? とちょっと驚愕して、真琴は続きを述べていく。
「あとはですね。念のためのスーツ三着に、ドレスコードが必要なレストラン用にワンピース三着と。観光用の動きやすい服と、外回り用のちょっと余所行き風のものと……」
「真琴ちゃん、真琴ちゃん……」
 さらに困ったふうにペトラが口を挟む。
「そんなにいるかなぁ……?」

「でも何があるか分からないですし、準備は万端じゃないと。薬箱も持ってきましたよ! お腹痛くなったりしたら言って下さいね!」
 空気が読めずに笑う真琴に、リヴァイは光のない瞳を突き刺してきた。
「お前、これは出張だ、仕事だぞ。旅行へ行くんじゃない」
 ぐっと真琴は唾を飲んだ。
「余所行きの服があればスーツはいらん。ドレスコードなんざあるような、面倒くさいレストランへも行かん。もちろん、観光もしない」
 ぐぐっと真琴はまた唾を飲む。顔が引き攣っていくのを感じていた。

 さらにリヴァイは酷なことを告げる。
「必要のない物は、いますぐここで、そこのゴミ箱に捨てていけ」
 物分かりの悪い部下に、言い聞かすような口調だった。加えてリヴァイは、自販機のそばに据えてあるゴミ箱をぴしゃりと指差す。
 真琴は必死に許しを請う。
「ごめんなさい! ほんと言うと、ちょっと浮かれてました! 少し観光できるかもって! でも捨てるのだけは許してください! スーツもワンピースもまだ支払いが残ってるんです!」
「副編集長、冗談……ですよね?」
 ペトラの控えめな問いに、リヴァイは風の早さで返す。
「俺は冗談は嫌いだ」
「……私からもお願いします。捨てろというのはちょっと可哀想ですし。私も新人のころに出張で浮かれたこと、ありましたし」
 こんな大きいトランクはさすがに選ばなかったけど、とペトラが引き攣って付け加えた。

 リヴァイはわざとらしく息を吐いたあとで、針のような鋭い視線で真琴を射抜いてきた。
「次同じようなことをしてみろ。トランクごと線路に投げ捨ててやるからな」
「は、はい……すみませんでした」

 でも残念だ、と真琴は思う。今回真琴たちが行く場所は、紅葉シーズン真っ盛りのビバ京都なのだ。しかしながらこうしてリヴァイに怒られたものの、観光する時間ぐらいは取れるのではないかと、実は思っていたりする。――真琴はまったく反省していないようだった。

 発車時刻十五分前になると、博多から帰ってきた折り返しの新幹線が、ホームに滑り込んできた。清掃業者の掃除が終わると搭乗できるのだが、始発なのに発車五分前にならないと乗車できない。
 すでに真琴たちの並んでいるホームには長蛇の列ができあがっている。果たしてたったの五分で、全員が速やかに乗り入れられるだろうかと、真琴は心配になった。
 けれど心配するなかれ。繊細な日本人ならではの気質なのだろうか、五分でも全員が乗り込めてしまうのだ。たまに数分発車が遅れることもあるが、それは新幹線。スピードを上げて次の品川に間に合わせるので、ダイヤが乱れることはない。

 突然思い出したように真琴が声を上げた。
「忘れてました! ちょっと行ってきます!」
「え? ど、どこに」
 唐突だったのでペトラは巧く反応できなかったようだ。眼がキョトンとしている。
 真琴は我が道を行く。腕時計を確認して、身を翻した。
「まだ十五分前ですし、五分前には戻るんで! トランクお願いします!」
 言い置いて階段に向かって駆ける真琴の後ろで、三人はしばし呆気に取られていた。瞬きしたリヴァイが、袖を少し引いて腕時計を確認する。
「――十分前なんだが……」
 五分前に戻ってきたときには、もう新幹線は発車したあとかもしれなかった。

 真琴はエスカレーターは使わずに階段を駆け降りていく。東京駅新幹線改札口内には、何軒かカフェがあって、持ち帰り用のコーヒーなどを売っているのだ。車内販売のコーヒーより専門店で煎ってあるほうが断然おいしい。
 一軒のカフェを選んで真琴は店内に入った。レジ前には同じような考えをする客で列がなっていた。

 真琴はそこまでおとぼけキャラではない。ちゃんと発車時刻を気にしながら、前方を何度も覗き込む。
 ――早くしてくれないかな。
 落ち着かない気持ちでいたら、やっと真琴の番がきた。店員が営業スマイルをみせる。
「お持ち帰りでしょうか」
「はい。えっと、コーヒーと紅茶をふたつずつ。両方ホットでお願いします」
 アイスかホットか聞かれる時間でさえ惜しいので先に答えた。なのにコーヒーの種類と紅茶の種類まであるようで、結局短縮にはなり得なかったのだけれど。
 紙のトレイに入れてもらった四つの飲み物を袋に入れてもらい、真琴は店を出た。腕時計を確認する。
「なんだ、まだ八分前だ。余裕余裕っ」

 そのとき、階上からぼんやりと発車アナウンスが聞こえた。
「のぞみ二十号? 私が乗るのも二十号だった気が……」
 気になって、たくさん並ぶ電光掲示板を見上げる。その横にある現在時刻を見て、真琴の眼が飛び出た。――のは嘘だけれど。
「うそ!? あと三分!?」
 真琴は急いで来た道を戻り、ホームへ続くエスカレーターに乗り込んだ。歩く人用に律儀に右側通行になっているのを、こんなに感謝したことはない。そう思いながら、久々の全速力で駆け上がる。
 半分まで駆け上がって、胸が苦しくなったとき発車ベルが響き渡った。

 泣きそうな気分で無我夢中に走った。ホームに着いたころ、遠目に真琴へと手を振るペトラの姿が目に入ってきた。
 ペトラは口パクしながら、しきりに新幹線のドアを指差している。とにかく何号車でもいいから、電車に乗れということだろう。
 階段の近くの車両に真琴が滑り込んだのと、音もなくドアが閉まったのは同時だった。瞬間耳に入ったのは、ホームで監視する駅員の、「滑り込み乗車はやめてください!」という、明らかに真琴へ向かっての怒鳴り声だった。

 前屈みで両膝に手を突き、乱れる呼吸を鎮める。こめかみから汗が垂れてきて、真琴は手で拭った。
「ぎりぎり、セーフ……」
「何がぎりぎりセーフだ、ばか」
 声をかけられて、そのままの姿勢で真琴が顔を上げるとリヴァイがいた。わざわざ九号車まで迎えにきてくれたらしい。
「たびたびご迷惑をおかけしてすみません……。私の時計、五分遅れていたみたいで」
「そのようだな。さすがの俺も焦った」
 リヴァイはほっとした面持ちで軽く息をついて、
「毎度のことだが、お前には驚かされる」
 とくに突き放した感じではなく、真琴の頭にぽんと手をおいた。

 何だか年上の男から可愛がられているようで、真琴はにんまりとしてくる口許を抑えられなかった。そんな気分を見破られたのか、リヴァイの眼つきが途端に冷たくなる。
「反省してるんだろうな……」
 言いながら頭を押してくる。真琴は後退って、乱れた髪に手櫛を入れた。
「は、反省してますっ。ごめんなさいっ」
「ったく……」
 吐き捨てて、リヴァイは五号車に向かって通路を歩いていく。ときたま揺れる車両にバランスを崩しながら、真琴もあとを追った。
 指定席に着くと、ペトラが安心したような顔をみせた。

「間に合ってよかったね。どうなっちゃうのかと思った」
「ご迷惑おかけしました」
 謝って、窓際に座るペトラの隣に腰を降ろした。真琴の目の前にいるオルオが、あからさまに見下す眼をする。
「とんだトラブルメーカーだ。大丈夫か、今回の出張」
「……だから、すみませんって、何度も謝ってるじゃないですか……」
 真琴はちょっと唇を尖らせてみせた。

 オルオはいつも真琴に厳しい。それはおそらく、ペトラが真琴の教育係として付きっきりだから、妬いているのに違いない。
「女相手にやきもち妬いたって、しょうがないじゃないですか……」
「てめぇ! 生意気だぞ! 俺に向かってそんな口のき――っ!!」
 突っかかってきたオルオは、長い舌をガリっと噛んだ。彼はいつもこうして、舌を噛んでしまうのが癖になっているらしい。
 始めのころはとても心配したものだ。だって舌は大事な部分なのだし。でもあまりにも頻繁に噛むので、正直いまさらどうも思わない。むしろ可笑しくて、真琴は密かに笑う。
 オルオがムキになる。
「このやろ! 笑ったな! 俺が舌噛んだのを見て笑っ――っ!!」
 また噛んだ。
 これには恋人であるペトラも笑った。斜め向かいのリヴァイも、何とか笑いを噛み殺している様子だった。
 笑いをこらえる口許に拳を当てて、リヴァイが真琴を見る。

「ところでお前、どこに行ってたんだ」
 次いでペトラが、花に誘われる蝶のように鼻をすんすんさせた。
「何だろう。真琴ちゃんからいい匂いがする」
「じゃ――ん!」
 満面の笑顔で膝許に置いていた、袋を開けた。ビニール袋から顔を覗かせたのは、さっきカフェで買った飲み物だ。
「これを買ってきたんですよぉ。ペトラ先輩はコーヒーに目がなかったですよね?」
 知っているけれど、上目遣いで念を押す。
「わぁ! ありがとう! 新幹線のコーヒーっていまいちなのよね」
 口許を綻ばせて、ペトラは差し出されたコーヒーを受け取った。カップの蓋の、小さい穴から微かに香る芳香にもっと綻ばせる。
「ん〜、いい香り」

「リヴァイ副編集長は、紅茶……ですよね?」
 これも良く知ってはいるのだが、何だか気恥ずかしい。真琴はそわそわと上目遣いした。
「ああ。――なるほどな。これのために遅くなったのか」
「新幹線の車内販売では、ホットの紅茶は売っていませんから」

 真琴は紅茶のカップを差し出した。リヴァイが受け取るときに指先が掠って、ドキンと胸が跳ねてしまった。
 本当は――「これのために」ではなく「俺のために」と言われても過言ではない。約三時間の新幹線の旅に、美味しい紅茶を飲んで、リヴァイにはリフレッシュしてもらいたかったのだ。
 ここ数ヶ月、進撃出版社は至上まれに見る業績の悪化で、倒産の危機だった。そのためにいつにもまして仕事内容はハードになり、副編集長であるリヴァイはいっそう多忙を極めていた。まさにブラック企業の域に入っている。――もともと出版業界はブラックと言われているけれど。

 舌を出して、噛んだ箇所を指でいじっているオルオに、真琴は声をかける。
「オルオ先輩は……好み知らないんで、コーヒーでいいですよね?」
「ぞんざいな扱いだな。恨みでもあんのか、俺に」
 眉を顰めたオルオを、真琴はまじまじと見つめた。含みを込めて。
 口の端を引き攣らせるオルオに、真琴は無言でコーヒーを手渡した。買ってきてあげただけでも、ありがたく思ってほしい。――な〜んて、
「冗談ですよっ。ほんとに知らなかっただけなんです」
 真琴はにっこりと笑う。納得いかなそうにオルオは通路のほうへ目を流した。

 それぞれが熱々の飲み物を口に運んでから少しして、ペトラが仕事モードの表情に色を変える。
「副編、我が社の業績が悪化してるって噂、本当なんですか?」
「どうもそうらしい。毎週多大な赤字を出す週刊誌が、足を引っ張っているようだ」
「やっぱり……。あれ、いつも発行部数のわりには全然売れないんですよね……」
 深刻な顔でペトラが頷いた。
 リヴァイは能面な色をその顔に、相槌を打つ。
「その通りだ。わりに合わん」
「廃刊にはできないんですか……?」
 リヴァイは腕を組む。
「編集長が首を縦に振らねぇだろうな。あいつがこの週刊誌にかける思いは強い」
「でも、そのせいで会社の存続が危うくなるのなら、何か手を打つのが――」
 リヴァイがペトラの語に跨がるように言い放つ。
「奴のことだ。俺たちよりも、多くのことを考えていることだろう」

 本当だろうか……。と、ここにはいない編集長に、真琴は白い眼を向けた。
 真琴が異動してから数ヶ月、一度も出社したことのない編集長が、社のために打開策を考えているだなんて、まず思えなかった。

「冬のボーナス、ちゃんと出るんでしょうか? 私、ボーナス払いで買い物しちゃったんですけど……」
 心配になって口に出すと、オルオが非難の眼をする。
「そんなことより、リストラか倒産の心配しろよ。ボーナスうんぬんより、地獄を見るかもしれないんだぞ」
「あら、私もボーナスの行方はちょっと気がかりだわ。電気屋さんで大型液晶テレビ買っちゃったし」
 真琴に賛同するように、ペトラが人差し指を顎に添えた。
 オルオは眼を逸らしながら、ぼそっと呟く。頬が赤い。
「そ、そんなのは、俺に言えば買ってやったのに……。なんなら払ってやっても」

『まもなく、品川に到着いたします』
 オルオの思いやりは、車内アナウンスによって完全に上書きされてしまった。

 でも副編。とペトラはリヴァイに眼を向ける。
「今回の出張って、その週刊誌の挽回なんですよね。――社の存続をかけた」
「ああ。今回の取材が巧くいけば、販売部数が大幅に伸びる可能性がある。一躍、某週刊誌を上回るほどに」

 おもに児童書に力を入れている進撃出版社には、ただ唯一の週刊誌――週刊進撃というものが存在している。内容は政治経済から芸能までの、いわゆるジャーナリズムを主体とするものだ。
 これがほんとにまったく売れない。発行部数が六十万部に対して販売部数が五万部という、まったくもって恥とする数字を、何十年も記録し続けている。これというのも編集長の無駄に高いプライドが、某有名週刊誌に敵対心を燃やしているからではないかと、もっぱらの噂であった。

 ペトラがリヴァイに問う。
「それは誰の発案なんですか?」
「――俺だ」
 やっぱり編集長じゃなかった。
 今回の取材目的は、京都特集をトップに飾るためだ。この日のために有名旅館を手配しておいた。二泊三日において、ふたつの旅館を予約してある。京都に着いたら二組に別れ、別行動でそれぞれが担当する取材を、同時進行していく計画だ。
 この時期の京都特集なんて珍しいものではない。どこの週刊誌もこぞって取り上げるネタだ。そんなありふれた特集でどう挽回するのか、それは――。

 リヴァイが真剣な眼差しで真琴たちを見回す。
「創業三百年の簪屋(かんざしや)。これに社の命運をかける」
 ごくり、とリヴァイを覗いためいめいが固唾を呑んだ。
「この簪屋は、いままで数万と訪れた取材を惜しげもなく断る、業界でも有名どころな店だ。どの出版社も、ここと独占取材を獲得するために躍起になっている」

 三百年か。真琴は遠い眼をした。
 三百年前といえば、約千七百年ごろで時代は徳川幕府――徳川綱吉や吉宗が世を統治していた時代だ。そのころの有名事件といえば、赤穂浪士の討ち入りや江島・生島事件だろうか。
 さすがにそんな昔から営業していたのだろうか、と真琴は疑いを拭いきれないでいる。

「本当なんですかねぇ。三百年なんて……。いくら歴史ある京都だからって……」
 思うままに口にした真琴に、リヴァイは真摯な瞳を寄越す。
「嘘か真かどうであれ、全業界が、喉から手が出るほど欲しがる取材をうちが取れば、すくなくとも倒産は免れるはずだ」
 リヴァイは実直だ。進撃出版社を守るために必死なのだ。ああ、この人の爪の垢を煎じて編集長に呑ませてやりたい。
 コーヒーを飲みながらオルオがリヴァイに訊く。

「その簪屋の担当は、副編でいいんですよね?」
「ああ。事前の打ち合わせ通り、俺と真琴、ペトラとオルオで二手に別れる」
「分かりました。巧くいくといいっすね!」
 オルオが気合いを入れるように、両手に拳を作ってガッツポーズをした。
 リヴァイに真似て、首許にアスコットタイをしているオルオは彼を尊敬している。舌を噛みやすい奴、と取りざたされるのと並行に、リヴァイを心酔しているという風説は社内でも名高い。
 だからリヴァイの為すことすべてをオルオは真似するのだ。服装や語り口を。――髪型は天然パーマのために断念したと、風の噂で耳にした。
 リヴァイは深く息をついた。
「話はここまでだ。京都まで、少しでも身体を休めてろ」
 各自が頷いた。

 乗車して三十分ほど経った。のぞみ二十号は新横浜を停車して、小田原を通過した。
 真琴はそわそわと、ペトラの向こう側に見える車窓を、ちらちらと見ている。このたび新幹線の切符を取ったのは真琴だった。ある目的もあって、二席列を向かい合わせになるように四席指定した。
 真琴は車窓と時計を交互に気にする。東京駅を出て四十分が経っていた。
 リヴァイが真琴を見て、薄め目で溜息をついた。

「代わってやる」
 そう言ってリヴァイは席を立つ。きょとんとしている真琴に、彼は「早く立て」と言わんばかりに顎をしゃくってきた。
「何も……言ってませんが」
「見てれば分かる。ほら、早くしろ。過ぎちまうぞ」

 真琴は少しばかり放心した状態で、おもむろに席を立った。向かい合わせの狭い通路でリヴァイが真琴の手を引き、入れ替わるようにして席を交換した。
 思いがけない行為に心を奪われながらも、真琴は車窓を覗き込む。時計を確認すると出発してから四五分。待ちに待っていた瞬間が訪れた。
 僅かな民家が散らばる、茶色く褪せた田畑の向こうに、雪化粧の富士山が大きく見えてきた。
 子供のように車窓に両手を張りつけて、真琴は食い入るように富士山を眺めた。

「生で初めて見たぁ!」
 輝きの笑顔で真琴は車窓に鼻をくっつけた。気づいたペトラが視線を窓へ流して笑む。
「そういえばこっち方面って、熱海を通過したあとに富士山が見えるんだったね」
「なに!? 富士山だと!?」
 驚嘆な声を上げたのはオルオだった。しかし彼が車窓に身を乗り出してきたころには、もう富士山は見えなくなってしまっていた。
「どこだ!? どれが富士山だ!? 見えねぇし!」

 真琴は苦笑した。
「富士山が見えるのは、時間にしてたったの三分間だけなんですよ」
「クソ〜。もっと早く言ってくれよ……」
 オルオは大袈裟ばりに項垂れた。そんなに見たかったのだろうか。
 ペトラは可笑しそうな顔をする。
「意外っ。オルオでも子供っぽいところあるんだ、富士山見たいとか」
「べ、別にそんなんじゃねぇよ」
 耳を赤くしたオルオは唇を尖らせてそっぽを向いた。

 ペトラとオルオに気づかれないように、真琴は斜め前にいるリヴァイへはにかみの笑みをみせた。腕を組んでいるリヴァイが、頷く代わりに緩く瞬きをしてくれた。
 俯いて真琴はさらにはにかんだ。言葉にしなくても、真琴の思いが伝わった気がして。
 さっきだってそうだ。きっとリヴァイは真琴の考えていることが分かったのだろう。だから席を交換してくれたのだった。

 これって以心伝心というのだろうか――と、真琴はもう一度リヴァイを上目遣いで見た。彼はまだ真琴を見ていて、その表情はめったに見せない柔らかいものだった。

つづく。

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