時系列:第二章、後日談
フェンデル邸にはメイド同士で共有されている秘密日記があります。そこには私たちがこそこそ嗅ぎ回って集めた珍事が赤裸々に綴られています。それをダシに休憩時に花を咲かせるのが退屈に暮らす私たちの唯一の楽しみなのです。
今夜、秘密日記に新たな一ページが追加されることになります。社交界へ向かうための馬車の手前で、私は代表として同士に激励されました。
「しっかりね。真琴様の一挙一動、見逃してはダメよ」
「はい。まばたきの瞬間に起きるスクープを想定して、瞼が下がらないように針と糸で吊っておきましたわ」
「いい心構えだわ。けれど目だけでは捉えられないものも、この世には存在します」
メイド長は私の両肩に両手を置きました。フェンデル様をも鬼の顔で黙らせてしまう、この屋敷で一番の権力を振るっている方です。
「それは匂いですわ。男の匂い。真琴様がどんなに隠そうとなさっても、匂いだけは誤魔化しきれません。ですから鼻も利かせておくのですよ」
「はい。鼻を詰まらせないよう、よくかんでおきます」
「では頑張ってくるのですよ」
メイド長が深刻な顔つきで言うと、「素敵な土産を待っていますわ」。「小さなことでもメモを取るのよ」。と同士のメイドたちに次々と肩を叩かれました。
新米の私は時に思います。こんなにミーハーでよいのかと。
私がフェンデル邸で仕えることが決まったとき、お母様はとても喜んでいました。煙突掃除で生計を立てている我が家で一番の出世頭だと私を誇りに思ってくれたようでもありました。
それがどうでしょう。どこぞの噂を嗅ぎつけてきては、きゃあきゃあと盛り上がるのがメイドの実態なのです。お母様が知ったら泣くでしょうか。
メイド長が全身をびしっとされます。
「心臓を捧げよ!」
ごくごく小さな良心の呵責は、夕日の色が沈むゆくとともに消えました。兵士でもないのに私は心臓を捧げます。
「秘密日記に心臓を捧げます! では行って参りますわ!」
このようにして私は送り出されたのでした。
社交界の会場であるお城に到着し、フェンデル一行には二部屋続きの部屋が与えられました。想定外のことにくずおれた私はソファを叩かずにはいられませんでした。
「なんてこと! 会場にお付きの者が入れないなんて! なんてこと!」
私と同様に会場手前でストップをされた護衛の者たちはいたく心配されていました。主人に危険が迫ったらどうしてくれる、お嬢様が手にした飲食の毒味は誰がするのか。ですが、警備は万全だからということで私どもは入場を許されなかったのです。
「ああ!」
弾力のいいソファを私はぐうで殴ります。
「真琴様から目を離してはいけないのに! 秘密日記に心臓を捧げたのに! 任務をまっとうできないなんて! メイドの風上にもおけませんわ!」
お土産のネタになりそうなのものは、まだメモ一枚だけ。お城に到着したときに居合わせた調査兵団の殿方二人を見て、真琴様がひどく動揺なさった一連です。お相手がトップ二の方だから、もしかして何か面白いことになるかもしれないと咄嗟にメモを取ったのですけれど。
「会場内で三角関係のロマンスが起こりそうな予感がいたしましたのに。これでは実際に何か起こっても布石に使えないじゃない。ただのゴミ……こんなものはただのゴミですわ!」
メモ用紙を散り散りに破って頭上で散らします。紙片の雪は打ちひしがれた私のミーハーさをあざ笑ったのでした。
泣き濡れていつの間にか眠ってしまった私を起こしたのは、ドアノックの音でした。
「はっ」
またまたなんてことでしょう。白枠の窓の外がうっすら明るいのです。清々しい鳥さんの鳴き声まで聞こえます。
涙が糊になってしまったのでしょうか。突っ張り感のある目許をこすり、私は部屋を見回しました。
「あらあら!? 真琴様!?」
朝ですのに真琴様が部屋にいないことに気づきました。一人掛けソファの背凭れにテイルコートが掛かっているのでフェンデル様は戻られているようですけれど。
寝起きだというのに私の胸は高揚していきます。朝帰りです、メイド長。ロマンスです、みんな。
メモを取ろうとしたらドアノックが乱暴になっていきました。忘れないうちに記述しておきたいのを我慢して鍵を開けます。
「はいはい、マコ様。そんなにお焦りにならなくてもちゃんと開けますわ」
扉を開けて、私はぶっ飛びそうになりました。回廊にいたのは真琴様ではなかったのです。
「マコ・フェンデルの部屋で間違いないか」
「え、あの」
惑っていると、ジャケットを肩に掛けている彼はもう一度、間違いないかと不機嫌そうに尋ねます。
「は、はい。間違いありませんが。失礼ですが、あなた様は?」
「マコは俺の部屋にいる。ひどい姿で廊下を歩けない。着替えを持って迎えにいけ」
と彼は名乗りもしないで鍵を差し出してきました。
「は、はあ……」
私が呆然と鍵を受け取ると彼は颯爽と回廊を歩いて去っていきました。私ははっとし、回廊に顔を突き出して遠くなっていく彼の背中をまじまじと見ました。
「なんてこと、なんてことなの」
あの方は調査兵団の兵士長であるリヴァイ様でした。なんと真琴様は、その方の部屋にいるというではありませんか。しかも、ひどい姿とおっしゃっていたけれど、おそらくあられもない姿で。
「ら、ラブロマンス!」
私は天上に感謝しつつ叫び、ソファ付近に這いつくばります。不必要と散り散りにしてしまったメモを急いで掻き集めたのでした。
リヴァイ様の部屋へ入ると、真琴様一人でした。シーツを全身に巻きつけている姿に、私の期待は大きくなります。
「ごめんね。ありがとう。来てくれて」
そう気まずそうに真琴様は謝ってきます。
「いいえ。それが私のお仕事ですから」
嬉しくて私は微笑んで打ち消しました。用意してきたアフタヌーンドレスをソファの背凭れに丁寧に掛けます。「あら?」そこにはコルセットがほっぽってありました。手に取ってびっくりです。背中の紐がすべて引きちぎられていたのですから。
「うわぁお……」
思わず溜息を誘われて、なんだか所在げな様子の真琴様を穴があくまで見つめてしまいました。
リヴァイ様は強く求められたようです、真琴様のことを。それはそれはコルセットの紐を一つ一つ解いていくのももどかしいくらいに。早くお体に触れてみたくて、きっと野獣のようになってしまったのでしょう。
真琴様が首をかしげています。
「どうかした?」
「生々しくて……あ、い、いえ」
真琴様の目線がコルセットに落ちて眉が曇ります。「それ、ごめんね。ダメにしちゃったかしら。あの人ったらホントがさつなんだから」
「大丈夫ですわ。紐など替えがいくらでもございますから」
このことをメモしたい衝動を抑えて、私は真琴様のシーツを背後からそっと取りました。
「お着替えしましょう。朝食の時間がもうすぐ――」
真琴様のお体を隠していたシーツを取って、私はまたぶっ飛びそうになりました。首許の赤い印が目に飛び込んできたのです。
「こっ、こっ、こっ(これは!)」
「こ?」
真琴様が見返ったので私は誤魔化し笑いをいれます。
「あ、朝なのでコケコッコー――なんてっ」
「ああ。ニワトリの真似ね」
真琴様は気づいていません。首筋や胸の谷間近くまでいくつもの小さな赤い痣があることを。
経験はないけれど私はこの痣がなんであるかを知っています。これがかの有名な、キスマークなのですね。メイド長が言っていました。唇で肌を吸うと内出血の痣ができるらしいのですが、跡を残すのは独り占めしたいという強い独占欲の表れなのだと。悪人顔のリヴァイ様が女性をどのようにして抱くのか、私には想像すらできませんが、きっと激しい夜だったに違いありません。
イブニングドレスほどの露出はないにしても、ところどころキスマークが見えてしまっているので、私は化粧箱を開けました。
「少し都合が悪いので、お粉を厚く塗っておきましょう」
「え? 私の顔、そんなにひどい? 飲み過ぎたからかしら」
「違いますわ。首と胸にちょこっと都合の悪いものが……。おほほ」
「そんなところの何が都合が悪いっていうのよ」
笑い飛ばし、
「あ〜、でもコルセットがないから昨夜より全然楽ね」
お支度が終わった真琴様は姿見の前に立ちました。顎を外して悲鳴を上げます。
「な!? え!?」
「それをお粉で隠しておきましょう」
真琴様の前に回って胸許に粉をはたいていきます。真琴様はひどく取り乱します。
「あのね! これね! 昨日、ベッドがもう痒くて痒くて!」
「さようでございますか」
「む、虫かな!? そ、そう虫よ! まだ痒くて。あ〜痒い痒い!」
「あらあら。でしたらあとで城の者に苦情を言っておきますわね」
殿方に抱かれたと白状するのが恥ずかしいみたいですから、私は朗らかに言い訳を流します。
真琴様は真っ赤なお顔で鏡を睨み、両の拳を震わせていました。
「何もなかったって言ったくせに〜。なんて人なのっ」
準備が整い、フェンデル様と真琴様を連れて朝食会場に向かいました。すると会場の入り口近くでリヴァイ様が立っているではありませんか。真琴様に気づいて組んでいた腕を解きます。
あきらかに真琴様に話しかけようとして一歩踏み出したリヴァイ様に、
「最っっっ底」
と目も合わせずに低く言い捨て、真琴様はつんつんと通り過ぎてしまいました。真琴様を追いながら私はリヴァイ様を振り返ります。置いてけぼりの彼は唖然としています。ひょっとすると朝食をご一緒するお約束でもしていたのでしょうか。
「よろしいのですか? マコ様をお待ちしていたようですけれど」
「いいのよ、あんな人」
怒っています。同意の上での行為ではなかったのでしょうか。無理矢理抱かれてしまったのでしょうか。ダメよ! イヤ! あ〜れ〜! という具合に衣服を剥ぎ取られてしまわれたのですね。
それはそれで滾ってしまいます。そんな私はフェンデル邸で誇れるメイドになりつつあるということでしょう。
けれど真琴様のつれない態度は困ります。私たちの楽しみがなくなってしまうではありませんか。体から始まる恋もあるのです。ここは一つ、満更でもなさそうなお相手の方に発破をかけておかなくては。
私はリヴァイ様のところへ駆け寄りました。なめられてはいけませんから威厳を保って顎を上げます。
「これ、そち」
「ああ? なんだてめぇ」
尋常ではない眼つきで睨まれました。リヴァイ様は真琴様に邪険にされて機嫌を崩してしまわれたのでしょう。
「よくもお嬢様を傷物にしてくれましたね」
「傷物? なに言ってやがる」
「とぼける気ですか。男らしくありませんわ。証拠は揃っているのです」
「証拠だあ?」
私はリヴァイ様に耳打ちしました。
「ベッドシーツに僅かな血の跡が」
リヴァイ様は絶句します。
「動かぬ証拠でございます」
「なんのつもりで、あのクソ女」
私の背後へ遠く視線をやり、そしてリヴァイ様は訴えてきました。
「ふざけろ。そりゃ捏造だ。俺への嫌がらせかなんかだ」
「では血の跡はなんと説明する気でしょうか」
「赤ワインを零したんだろう。そもそもあいつとは何もない」
血の跡があったと言えば潔く認めると思ったのだけれど。二人して往生際が悪いです。
「血の跡は誤魔化せても」私は自分の首を指で押します。「ここの跡は誤魔化せませんわよ」
リヴァイ様は肩をびくっとさせ、あからさまに動揺されました。
「そ、そりゃ……あれだろう、そうあれだ、虫だ、虫。虫刺されだ」
「虫、ですか」
「ああ、そうだ。俺も何箇所かやられた。とんでもねぇ客室だ」
痒い痒いとリヴァイ様はわざとらしく胸許を掻きます。言い訳も同じ。お二人の相性は良さそうです。
さあ、とどめですわ。私は人差し指を振ります。
「フェンデルファミリーをあなどってはいけません。リヴァイ様よりも人相の悪いマフィアがバックについていますの」
「初対面の人間に向かって人相が悪いとかほざくな。どういう教育を受けてる」
「あら、やだ。脅してるんじゃありませんのよ。この先、誠実な対応を、と言いたいだけですの」
「まず、てめぇが誠実な対応を取れ」
「もしやと思いますが逃げようなどとはお考えにならないことです。責任はしかと取っていただきますから」
「……話が通じねぇ」
「では、ごめんあさーせ」
妖艶に一芝居を打った私は、ウキウキ気分で真琴様のもとへ戻りました。テラス席を照らす温かい陽光は穏やかすぎて、いまの私には物足りないくらいでした。
そして少し後ろに下がり、メモ帳を開いて細かく記入していきます。あとで秘密日記に清書しなくてはなりませんから。
スクランブルエッグをフォークに取り、真琴様が優しい笑顔で話しかけてくれました。
「楽しそうね。いいことでもあった?」
「はい、おかげさまで!」
私たちメイド一同、当分は真琴様とリヴァイ様の物語で充実した毎日を過ごせそうです。