夢うつつ

時系列:第五章09から10に入るまでの幕間

 狭い空の下はビル群で埋め尽くされた都会が広がっている。都内にある狭小住宅の小さな庭で笹の葉が風に揺れていた。ピンクの短冊を笹の枝に下げているのは、ラフな部屋着の彼女であった。
 父親と母親、そして彼女の分を入れて三つの短冊が涼しげになびいている。右下がりの細い字の青い短冊は父親のもので、「家族が健康でありますように」と書いてある。黄色い短冊は太く凛々しい文字で、「お父さんが出世しますように」と書いてあったので消去法で母親のものだと分かった。
 さて、彼女の願い事は何だろう。――風に煽られて裏返しになっており、読むことができなかった。

 休日だというのに真琴宅は静かである。父親は朝早くからゴルフに出掛けており、母親は一階のリビングで再放送のドラマでも観ているのだろう。
 真琴はというと、六畳の自室にて椅子に座ってノートパソコンと格闘していた。
「あーん! もう全然分かんない!」
 お手上げというふうに背凭れに寄りかかった。買ったばかりのノートパソコンと昼過ぎからずっと睨めっこしていたので、パンク状態の頭に加えて首筋から背筋にかけて筋肉の凝りを感じていた。

 シルバーの薄型は背面にリンゴマークが浮き上がっている。新型のMacBookである。昨日までWindowsだったのだが、人気に負けてとうとうMacOSデビューをしたのであった。
「直感的に操作できるって謳ってるけど、何が直感的なんだか。も〜、これをこうするにはどうしたらいいのよ〜」
 かなりの猫背で真琴は液晶画面に食い入る。やはり解決できなくて、溜息をつくようにしてMacを終了させた。腹も減ってきたので切りが良かったともいえた。出窓の向こうは夕方の色だが、日が延びたので夕飯時に近いはずである。真琴の腹を刺激する夕餉の匂いが、三十分ほど前より階下から立ち登ってきているからだ。

「疲れた〜」
 アンティーク調の白いベッドに身を投じた。ぐぐぐ、と背伸びをすると凝り固まった全身に気持ちいい。
 真琴は出窓の外を眺め入る。空は梅雨空だが今日は雨が降らなかった。昨夜まで雨続きだったので心配していたのだ。
「よかった。今年は逢えるわね」
 去年も一昨年も、確か七月七日は雨だった。今夜は七夕だから織り姫と彦星は逢うことができる、と真琴は微笑む。
「私の願い事は叶うかしら?」
 風習だから短冊に願い事を書くだけで、実はあまり期待していないのだけれど。

 真琴はペコペコの腹をさすった。十五時のおやつの時間に母親が焼いてくれたパウンドケーキは、とっくにカロリーを消費してしまった。
「ご飯まだかな」
 と母親が、「夕飯よ〜」と呼んでくれるのを待っていたとき、玄関のチャイムが鳴る。
 脚を振り上げるようにして反動をつけ、真琴は起き上がった。
「お父さんが帰ってきたのかな」

 横になったことで少し乱れてしまった髪の毛を結び直し、部屋着のまま自室を出た。玄関が何だか騒がしく、母親の陽気な声が階上に響いてきている。
「ブービー賞を取ったのかしら?」
 それで母親は喜んでいるのだろうか。階段を降りていき、真琴は狭い踊り場を曲がった。

 玄関の所に、ゴルフウェアの小太りな父親と、知らない男性がいた。その男性もゴルフウェアを着用していたので、貴重な休日を父親につき合わされた部下なのだろう。三十代くらいに見える部下らしき彼は、薄い隈が滲む三白眼の瞳を上げた。涼しげな表情と視線が交差して、真琴の足が止まる。
「あっ」
 手すりに手を掛けて小さく零した声に、母親と父親も気づく。

「ただいま、真琴」
 いつも尻に敷かれている父親がにっこり言って、母親は眉を寄せる。
「なあに、その格好は。お客様がいらしてるのよ」
「……気づかなかったから」
 何の気なしにポニーテールの尻尾を触れる。ノースリーブとショートパンツの部屋着で男性の前に出たのは拙かったろう。父親だけだったなら、真琴から見れば男性ではなかったのだけれど。

 真琴の健康的な白い腿が眩しかったか、部下らしき男が露骨に眼を逸らした。
「わたしにはお構いなく。次長のお言葉に甘えて、図々しく夕飯時にお邪魔してしまったんです。申し訳ありません」
 少しばかり強面な外見とは裏腹に、礼節をわきまえているようだ。答える母親の声がいっそう余所行きになる。
「うちは全然構わないんですよ! いつも主人がお世話になってるんですもの、ゆっくりしていってくださいな」
 語尾に音符をつけた母親は、次いで靴をまだ脱いでいない父親の耳を引っ張った。しゅっ、と二本の角が生えてきたように真琴には見えた。

 眼を吊り上げて母親は父親にこそこそと内緒話をしている。数秒で終わり、父親はぽりぽりと腕を掻いて、母親は「何でもないんです」というふうに、頬に手を添えて男に愛想笑いをみせた。
 以前にもこんなことがあった。事前の連絡もなしに数人の部下を連れてきた父親を母親が怒ったことが。おそらく――
(一言、電話をくれたっていいでしょう! 急に来られたんじゃ、たいしたおもてなしができないじゃないの!)
 こう言われたのかもしれなかった。

「まあ、上がって」
 たぶん怒られた父親は靴を脱ぎ、苦い笑みで彼にも上がるよう促した。父親からジャケットを渡された母親が、先にリビングへ入ろうとして真琴を振り返る。
「リヴァイさんをお通してあげて」
 男の名前はリヴァイというらしい。「は〜い」と返事をして、まだ靴を脱いでいない彼に手を伸ばす。
「どうぞ、遠慮しないで上がってください。皺になるといけないので、ジャケットをお預かりしておきます」

「お邪魔します」
 きちんと靴を揃えて玄関を上がり、リヴァイは腕に掛けているジャケットを手渡してきた。真琴は受け取りながらこっそり笑う。
「間違ってたらごめんなさい。それって、もしかして父から?」
 と、リヴァイが着用しているピンクの横縞模様のポロシャツを指差す。
「そうだが。サイズが小さいからと俺に譲ってくれた」
「やっぱり! それ、父の日に私がプレゼントしたものなんです」
「それは……何と言えばいい? 他人の手に渡って不快に思ったか」

 短い廊下を先導しながら真琴は首を振った。
「いいえ。きっとビールっ腹のせいで入らなかったのね」肩越しに振り返る。「良く似合ってます。男の人がピンクって素敵ですね。父が着たんじゃピエロになってたかもしれないもの」
「ここだけの話だが」リヴァイが真琴の腕を引き寄せて耳許に顔を寄せた。「更衣室で次長は試着したんだ。腹が納まりきらずに、ヘソが丸出しになっていた」
 熱い息を吹き込まれており、真琴は話に集中できていない。初対面でこんなことを普通するだろうか。

 リヴァイは続ける。
「そこに俺が居合わせていたから丁度よかったんだろう。それでポロシャツをもらった」
「そ、そうだったんですか」
 リヴァイはいい男である。そんな人の息づかいを間近で感じて冷静でいられるわけがなかった。顔が赤くなってきて、真琴は彼と距離を取ろうとしたがしかし、さらに腕を強く握られる。

「初めて会った気がしないと思わないか」
「あ、あなたとは初めてお会いします」
「本当に?」
 真琴の瞬きが増える。どう返答しようか困っていたら、リビングのほうから母親の呼ぶ声がした。

「何してるの、真琴〜! おつまみを作るの手伝ってちょうだい〜!」
「は、はーい!」
 声のほうへ顔を巡らせて返すと、リヴァイは手を離した。動揺が取れない。真琴はリビングのドアノブに駆け寄る。
「ど、どうぞっ」
「失礼する」
 と言って何もなかったようにリヴァイは入っていった。

「……実は遊び人なのかしら」
 誠実そうに見えたけれど。呟いてから真琴はオープンキッチンへ足を向けた。
 キッチンは油っこい匂いが漂っていた。シンクで手を洗っている真琴に母親は零す。
「お父さんったら、いっつも突然なんだから。でもよかったわ、今日は天ぷらなの。何とか格好はつくわね」
「実は部下の人を連れてくるかもしれないって、何となく予想してた?」
 溜息をつくように母親が笑う。
「まあね。毎回じゃないけど、ゴルフのあとは部下の方を連れてくることが何度かあったから」

 シソの葉を天ぷら粉に浸している真琴に言う。
「でもリヴァイさんをお呼びしたのは初めてね」
「そうなんだ」
「あの人ね、係長さんなんですって。順調に出世コースを歩いてるみたいよ」
「ふーん」と興味なく言って、次は海老に衣を着せようと尻尾を摘んだ真琴の背中を、母親が濡れた手で叩いてきた。
「ふーん、ってあなたね。お父さんの会社で係長なんてすごいのよ。それにリヴァイさんって誠実そうじゃないの」

「そう? 人って見た目だけじゃ分からないわよ」
 と濁すしかない。まさか母親に廊下でのことなど言えなかった。
「お母さん、なかなか好みだわ」衣がついたシソの葉と海老を天ぷら鍋に投入する。「あの人なら、あなたのお相手に文句ないわね」
 とんでもないことを言い出し始めた母親に動揺し、真琴はナスを切っていた包丁で危うく指を切断しそうになる。
「どうしてすぐそうなるのよっ」

 いつかもそんなことを言っていた。父親が部下を連れてくると、すぐこうやって焚きつけてくるのだ。お花畑の母親は菜箸で海老を転がしながら続けた。
「この前の山田さんもいいけど、あの人はちょっと髪の毛が怪しかったものね」
 本人がいないのをいいことに大変失礼なことを言う。
「でもリヴァイさんは大丈夫そうじゃない。ちょ〜っと背が低いのが難点だけどね。背丈は遺伝するでしょう。産まれてくる子供が男の子だったら可哀想だわ」
 こうなると母親は止まらない。結婚すらしていないのに孫の話になっている。

「背の低い男性はモテないから」
 だけど、と母親はダイニングテーブルで父親とビールを飲み交わしているリヴァイを盗み見る。
「顔は男前だから、そこを遺伝すれば大丈夫かしらね」
「お母さん、天ぷらが焦げてる」
 呆れた気分で言うと、「きゃっ!」と母親は小さく悲鳴を上げた。焦げた海老とシソを捨てて、揚げ終わった天ぷらの油を落としている網を顎でしゃくる。

「キスなんだけど、ちゃんと火が通ってるか毒味してくれる?」
「ひどいわ。私がお腹を壊してもいいのね」
「たぶん大丈夫だと思うんだけど、お客様がいらしてるから」
「はいはい」
 ハート型に見えなくもないキスの天ぷらを摘まんでかじる。美味しそうでもなく不味そうでもなく、無表情で真琴は言う。
「たぶん大丈夫だと思うわ」
「そ。ありがとね」

 口の中に残るキスの天ぷらは、この季節こそのものであり、ゆえに美味なはずだ。
(何でかしら。疲れ?)
 何の味もしなかったのである。天ぷらに限ったことではなく、母親が焼いてくれたパウンドケーキも、まるでスポンジを食べているような感覚だった。味覚がなくなってしまっているのだ。
「どうしたの? 深刻な顔しちゃって。キスが当たった?」
 母親が首を傾けている。何日か続くようなら病院で診てもらおう、と真琴は何でもなく笑ってみせた。
「キスが半生だったとしても、そんなにすぐ体に影響しないわよ。ちょっとパソコンのことを考えてただけ」

「そうよね」
 母親は笑い、
「ここはもういいわ。揚がった天ぷらと付け合わせを持っていってくれる? リヴァイさんにお酌をしてあげて」
「は〜い」
 天ぷらの大皿と小鉢を持って、真琴はダイニングテーブルに移動した。
「お待たせしました。ほかにもまだありますけど、先に食べててください」
「ありがとうございます。すごいご馳走だ。一人暮らしが長いものですから」
 さきほどまで友達口調だった人が、父親の前では敬語になるらしい。

 父親はさっそく箸でかき揚げを挟む。
「遠慮しないでどんどん食べて。料亭の天ぷらってわけにゃいかないが、家内のもなかなかのものだよ」
「家庭の味など久しぶりです」
 と言ってリヴァイはキスに箸を伸ばす。ちゃんと火が通っているだろうか、と内心真琴は気がかりであった。舌触りだけで判断したから。

 父親は箸を揺らして真琴を気づかせる。
「リヴァイ君にビールをついでやって」
「いや、自分で」
 とリヴァイはビール瓶に手を伸ばそうとした。それを真琴は軽く手で制し、
「母に言われてますから私が」
 ビール瓶を持って少し傾けると、リヴァイは軽く頭を下げて、ビールが少し残っているコップに手を添えた。

 台所仕事が一息つき、母親も交えて夕飯を食べながらの雑談を楽しんでいた。リヴァイの隣に腰掛けている真琴は冷や冷やものである。母親のノンストップな口を見張っていないと、いつ余計なお世話を言うか見逃してしまうからだ。

「リヴァイさん。家庭の味はどうかしら?」
「美味しいです」
「レストランなんかもいいけど、こういう素朴な食事もいいものでしょう?」
「そうですね」
「うちの娘もね、そこそこ料理ができ」

「お母さん! 醤油取って!」
 醤油は足りているが真琴はストップをかけた。
「何よ、自分で手を伸ばしなさいよ」
 唇を尖らせつつ母親は醤油瓶を差し出す。そうそう! と、さらっと顔色を明るくさせてリヴァイに言う。
「リヴァイさんて、おつき合いしてる女性はいらっしゃる?」
「いえ、いまはおりません」
「あら、奇遇ね! うちの娘も男性の影すら」

「お母さん! 塩!」
 塩などいらないが真琴はまたぞろストップをかけた。
「何よ、塩なんか何に使うっていうの」
「天ぷらにかけるのよ」
「……珍しいわね」
 そう言って母親は食卓塩を滑らせてきた。ちなみに真琴は天つゆ派である。

「そうだ! 大事なことを聞き忘れてたわ!」
 今度はなんだ、と真琴は苦い思いで母親を見張る。
「リヴァイさんは、ご兄弟いらっしゃるの?」
「いえ、一人っ子です」
「あら、真琴と同じなのね」
 母親は少し表情を曇らせた。なんの策略があってリヴァイに聞くのだろう。
「長男だと大変でしょう。リヴァイさんはいいお年だから、ご両親から結婚を勧められるんじゃない?」

「家族はわたしが幼少のころに亡くなりました」
「あら……ごめんなさい」眉を寄せて母親は口許に手を添えた。
「いえ、あまり記憶もないですし、始めから一人で生きてきたようなものに近いので」
 言いにくそうながらも母親は我が道を進む。
「とういうことはあれね、婿養子にうちへ」

「お母さん!」
 止めたのは呆れ口調の父親であった。
「何よ、醤油? それとも塩?」
 空気が読めない母親に父親が溜息をついてみせた。少々わざとらしい笑顔で真琴に言う。
「昨日買ったと言っていたノートパソコンはどんな調子だ」
「それが全然分からなくて。もう返品しちゃおうかな」
「MacBookだったよな? リヴァイ君な、Mac歴が長いんだそうだ」

「そうなんですか!?」
 リヴァイに問うと彼は浅く頷いてみせた。「はい」
「せっかくだ。彼に教えてもらったらどうだ」
 思わぬ救世主到来である。身を乗り出す勢いで真琴は請う。
「半日がかりでも分からないところがあるんです! 教えてもらえませんか!?」
 眉を寄せてリヴァイは小さく笑った。「半日か、それは大変だったな。俺に分かる範囲でなら手伝わせてもらう」
 宝くじが当たった気分だ。真琴はリヴァイの腕を引く。
「二階なんです。さっそくお願いします」

 フローリングの自室に二人して入ってから、下に両親がいるとはいえ、男性と二人きりになるのはどうか、と真琴は自問していた。
(大丈夫かしら。何かあったら大声を出せばいいわよね)
 反対にリヴァイは別段何も思うところはないようだ。
「MacBookは?」

 物思いしていた真琴ははっと顔を上げ、そして机に誘導した。リヴァイに腰掛けてもらおうと思ったら、肩を押されて座らされる。
「俺は立ったままでいい」
「すみません」
 MacBookを開いて、分からない箇所を説明していく。
「ここがどうしても思い通りにいかなくて」

「ここは――」と教え始めたリヴァイに後ろから包まれるような状況ができあがってしまっていた。ゴルフで汗を掻いてきたと思うのに、彼の清々しい石鹸の匂いに纏われている。
「分かるか?」
「あんまり……」

 ときおりリヴァイの腕が真琴の二の腕に触れるので、なるだけ身を小さくした。すごく意識してしまっており、親切な説明が頭に馴染んでいかない。黒いキーボードを淀みなく走る彼の手は筋張っていて、とても男らしい。
(この手)
 見たことがある気がして、真琴の手は無意識にリヴァイの手を触れた。指先から伝い、五本の骨が剥き出しの甲に沿ってなぞっていく。裏返し、剣だこが触れる彼の手のひらと手のひらを重ねて、指と指を絡ませる。

 指先から伝うのは心情という温もりだった。恋しいと胸の内が悲鳴を上げており、知らず涙が込み上げてきた。ぽたぽたと、真琴の涙がトラックパッドを濡らしていく。
「真琴」
 いまになってリヴァイの優しい声が胸に響いてきた。
(知ってる。でも誰? もうちょっと……もうちょっとで分かるの)

「俺が分かるか」
 切な声音を振り返る。泣きそうな歪んだ面差しのリヴァイが真琴の瞳に映る。
「帰ってこい」
「どこへ」
「ここだ!」リヴァイは心臓の位置を拳で叩く。「ここへ帰ってくるんだ!」

「だって、ここは私の家で、あなたとは初めて――」
 違う、初めてじゃない! そう真琴の身内が騒ぎ出していた。
「まだそんなことを言うか!」
 愛情を持って叱られた気がした。リヴァイの手が真琴のうなじに回り、そうして引き寄せられて、ひたむきな様できゅっと双眸を瞑る彼の唇が触れた。

(熱い)
 眼を見開いたままで、真琴は熱い吐息と一緒に流れてくる想いを感じていた。近づくと想いに触れられる、そして思い出すと涙がさらに溢れてきた。
(あなたを感じる)
 真琴はリヴァイの首に腕を絡めた。瞳を閉じて、必死な口づけに応える。互いに吐息を奪い合うキスのあいまに、止めどなく零れ出てくる想いを名前に込めた。

「リヴァイ。ああ、リヴァイ」
「頼む……、帰ってきてくれ」
「でも帰り方が分からないの。あなたに逢いたい、逢いたいのに近づくほど遠く感じる」
 触れているのに遠いのは、真琴を取り囲むものがすべて紛い物であるからだ。穏やかな日常という、まやかしのぬるま湯に浸かっていたのだ。それなのに、唇から伝う体温だけが鮮明で本物だった。

 重ね合う唇は涙の味が絶えなかった。
「遠い……。あなたが遠い……」
「大丈夫だ。想いはまだ触れる。こんなに近いじゃないか」

 唇から離れて、濡れた顔で真琴は袖に縋る。
「どうしたら、どうしたらあなたのところへ行けるの」
「ただ強く望めばいいんだ、生きると。あとは俺が導いてやる」
 そう言ってリヴァイは強く抱きしめる。誰もが探し求めている安心できる場所が、真琴にとっては彼の胸の中なのだと、この瞬間知った。
「離さないで、絶対に離さないで。きっと今日しか……今日しか帰れないから」
 リヴァイを信じて、真琴は身を委ねたのだった。

 出窓から庭が見降ろせた。風に揺さぶられる笹の葉。裏返しになっていた彼女の短冊がひらりとなびく。一瞬だけ見えた願い事には、こう書かれていた。
 ――運命の人に出逢いたい、と。

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