団長室には看板〇

時系列:第二章
 
 昨夜開催された社交界の会場。城の客室で寝ていたエルヴィンは、早朝の涼しい風が頬を撫でる感触で瞼を開けた。
「ん……」
 気怠く瞬きを繰り返して零れた籠もり声は、まだ寝ていたいという気持ちからだ。顔周りに纏わりついている酒気が、せっかくの寝起きを台無しにしている。調査兵団に出資してくれそうな有力者の娘たちを相手して、いつもより酒を飲み過ぎてしまったからだ。

 十六平米ほどの室内はバルコニー付きだ。月夜を眺めながら晩酌をしたのだが、窓を開け放ったまま寝てしまい、上品なカーテンが風に揺れていた。
「おや?」
 寝ぼけた脳がクリアになってきたと同時に、エルヴィンの蒼い両目が点になった。ふかふかなマットの傍らが温かいのである。

 そーっとシーツを捲ってみた。可愛らしいお嬢さんがすやすや寝ており、己の胸に寄り添って丸くなっていたのだ。
「なるほどな」
 真顔で呟き、お嬢さんをシーツで隠した。窓から覗ける水色の空を見つめ、顎をさする。生え始めの髭がチクチクと痛い。
「部屋に彼女を連れ込んだ覚えはないのだが」

 とすると、夜のうちに外から舞い降りてきた天使なのかもしれない。寝息も立てず上下する、温かくとても柔らかい身体は、エルヴィンを和やかにする。
 お嬢さんが起きないようにベッドからするりと抜けた。洗面所で鏡と向かい合い、カミソリで髭を剃る。豊かな泡に混じった金色の髭が、洗面ボールにぼたぼたと落ちていった。
 顔の角度を変えながら櫛で髪を整えるエルヴィンは、じとり眼で鏡を疑う。
「生え際が昨日より薄くないか? 鏡が歪んでいるせいかもしれないな」

 洗面所を出て、ほんのり体臭がするワイシャツを脱ぎ捨てた。皺にならないように、あらかじめクローゼット内に掛けておいた新しいワイシャツを取って羽織る。
 小さな丘になっている掛け布団がもぞもぞと動き出した。ひょこっと顔を出したお嬢さんの眼は、ガラス玉のように大きい。ぱっちりとした愛らしい瞳は、びっくりしているようにも見えるけれど。

 微笑みを湛えてエルヴィンはベッドに腰掛けた。彼女の首許に手のひらを添える。
「君はどこから紛れこんだのかな。それとも、私が自分でも気づかないうちに誘惑してしまったかい?」
 答えないで彼女はきょとんと首を傾けてみせた。エルヴィンはくっと喉で笑う。
「お腹は減ってないかな? 昨日の会場で朝食が用意されているはずだが、私につき合ってくれると嬉しい」

 無理強いして同行させた部下のリヴァイは、貴族への挨拶を一通り済ませたあとから顔を合わせていない。貴族の女をまともに相手する彼ではないから、おそらくさっさと客室に引き籠ったのかもしれないとエルヴィンは思っていた。
 彼の客室に行けば確実にいるだろうとは思うが、男を朝食に誘うのもつまらないというものである。仏頂面のリヴァイよりも、可愛いお嬢さんと食事をしたほうが百倍美味しいに決まっている。

 眼を糸のようにして、彼女は手のひらに頬擦りしてきた。おそらく美しいだろう声は聴かせてくれないが、どうやら朝食をともにしてくれるということらしい。
「目に入れても痛くないな」
 すっかり虜のエルヴィンは、彼女を連れて客室を出た。

 ロビーを通り過ぎ、色んな食材の匂いが混在している会場へと足を踏み入れる。誰も腰掛けていない丸テーブルを選んだ。
 彼女を置いて料理台へ向かい、好きな食べ物を皿に乗せていく。
「朝はやはり牛乳だな。彼女も水より牛乳のほうが喜ぶだろう」
 コップに牛乳を注ぎ、次いで浅めの皿にも牛乳を注いだ。丸テーブルに戻ると、彼女はお行儀よく椅子にちょこんと座って待っていた。
「さあご飯にしよう」

 優雅に朝食を進めていたら、不機嫌そうなリヴァイがやってきた。テーブル越しに立つ彼の表情は、誤って毛虫を胃に収めてしまったというふうである。
(まったく……)
 朝から清浄な空気を見事に蹴散らしてくれる。まさか朝食に誘わなかったから三白眼を吊り上げているわけではあるまい。そうだとしたらおおいに気持ち悪いものがある。

 そんな顔の奴とは相席したくないという思いを微笑の裏に隠す。
「やあ、おはようリヴァイ」
 へそを曲げているような唇をして、彼が乱雑に椅子を引いた。
(座るのか……。残念だ)
 リヴァイの負のオーラで美味そうな朝食が腐ってしまう気がしたので、皿をぎりぎりまで引き寄せる。
「お前の頭上に雷雲が発生しているな」

「そう見えるか」
「そう見える」
 できればほかの席へ行ってくれとは言えず、朗らかを保って頷いた。

 頬杖を突いたリヴァイが、大窓のほうへそっぽを向く。奥歯をすり合わせているのか、下顎を左右に揺らしながら吐き捨てた。
「あのクソ女がっ。平気ですっぽかしやがって」
「クソ女?」
 意外で眼を丸くしたエルヴィン。昨晩のうちに貴族の女と打ち解けたとでもいうのか。下手に手を出して万が一孕ませでもしたら、婚姻を迫られて面倒なことになるかもしれないリスクがあるので、絶対に相手をしないと思っていた。

「ロビーで待ちぼうけ食らわされちまった。貧乳の分際で恥を掻かせてくれるっ」
 エルヴィンは眉を顰める。
「おいおい、まさか抱いたんじゃないだろうな。どこの令嬢だ、有力議員か」
 抱いたあとで朝食に誘ったのだとしたら、ずいぶんと熱を上げていると取れないか。多大に出資してくれそうな貴族のもとへ、人身御供としてリヴァイを差し出すつもりが計画丸つぶれだ。
 疑り深い眼つきで言われる。
「俺の性交遊を、なぜお前に問い詰められなきゃなんねぇんだ」

「いや」言い淀んではぐらかす。「お前に先を越されたと思って、不覚にも対抗意識を燃やしてしまったんだ。どうしたものか店晒しだったものでね」
 店晒しなどとよく言えたものである、こちらから尻尾を振らなくても女たちはこぞって寄ってきた。が、嘘も方便というもの。密かな計画が露見してはいけないのだ。発覚した途端、沈む船舶から脱出するネズミのごとくリヴァイは調査兵団から一目散に逃げ出すに違いないからだ。

「腹に一物ありそうな、詐欺師みてぇな笑みをしやがって」
 斜め顔でエルヴィンの横を顎で示し、
「ところで何だそりゃあ」

「ああ、これね」
 自ずと優しい眼差しに切り替わったエルヴィン。隣の椅子で、牛乳に満たされた皿をぴちゃぴちゃと舐める彼女を、両手で持ち上げてみせた。柔軟な身体がびよーんと伸びて、肌色の腹をリヴァイに曝け出される。
「可愛いだろう。ベッドで一夜をともにしてしまったんだ。責任を取らなければならないだろうな」
「はぁ?」
 なで肩にし、気抜けた面容でリヴァイがそう言った。

 少し太り気味の茶トラのメス猫。ぴんと立つ三角形の、耳のあいだをエルヴィンは指先でこしょぐる。ふわふわな毛並みが心地好い。
「あれが欲しい、これが欲しいと面倒な人間の女より、気ままな彼女のほうが私は癒されるみたいでね」

 ――本部三階の団長室には看板猫がいる。エルヴィン目当ての女兵士たちが、猫の世話をするのを口実に毎日押し寄せてくるのが悩みの種であり、今日も生え際が数ミリ後退したのだった。

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