02

 夕飯の支度があるからと、真琴を含む女兵士たちは調理人によって厨房から追い出された。みんな心の籠ったチョコが作れたようで、手伝った真琴まで晴れやかな気分になった。
 そんな中、並んで歩くペトラが食堂出口付近で肩を落とした。

「チョコ……間に合わないかも」

 みんなの手伝いばかりしていたペトラは、結局自分のチョコを作ることができなかったようだ。困っている人間を放っておけない彼女の性格。ときに損をしてしまうけれど、とても素敵な長所だと真琴は思う。
 ペトラの肩にそっと手を添える。

「今日で一通りの子がチョコを作れたみたいだし、明日には落ち着いてるよ。何だったらボクがまたフォローするし」
「うん……」と頷いたペトラは半泣きだった。

「なんだろ、この行列」
 と真琴がぽつりと零したのは、来たときにはなかった行列が廊下にできているからだった。並んでいるのは全員女だ。
 前方を見定めるようにペトラが眼を細める。
「先頭っていうか、行列の原因はハンジ先輩のようね」

 行列の前まで行くと、商売人の叩き売りのような文句が聞こえてきた。
「さぁ、買った買った! 十四日まであと二日! 急がないと完売しちゃうよ!」
 丸めた雑誌を一人用の卓にバシバシ叩きつけているのは、声を張り上げるハンジだった。卓には見覚えのある小瓶がたくさん整列している。

「何あれ」
 と呟いたペトラは次いで眼を見張り、
「そういえば、さっき厨房でもあの瓶を持ってた子がいたわ」
「ナナバさんも持ってた」

 並んでいる女兵士たちは、自分の番がくると金と引き換えにハンジから小瓶を受け取る。いそいそとその場をあとにしていく。
 真琴は疑問を口にした。
「調査兵団って、副職あり?」
「さぁ……?」
 とペトラが首を捻った。

 真琴の勤める会社は副職禁止だ。隠れてビジネスをしている者もいるが、バレた日には首になる恐れがあるので覚悟が必要だ。堂々と商売をしているハンジは大丈夫なのだろうか。
 真琴とペトラに気づいたハンジが、明るい顔で手を振ってきた。

「ペトラ! 買わないかい? リヴァイのよしみだ、安くしとくよ!」
「何を売ってるんですか?」
 ペトラが卓脇で屈む。目線の先には値札があって、そこには一万リラとある。大層な値段だ。日本円で五万相当だろう。
 値札には商品名も書いてある。ペトラが口に出して読んでくれた。
「みるみるほれ〜ル」

 瞬間、頭がくらっする感覚を覚える。とうとう商品化してしまったようだ。碌に臨床実験もしていない薬を、法外な値段で売りつけるとは何とも恐ろしい。

 ペトラはことのほか不審そうにする。
「何なんですか……それ」
「これほど分かりやすい薬品名もないでしょ。惚れ薬だよ。媚薬とも言う」
 意気揚々とハンジは答え、
「いまあるので最後だから買ってかない? 半値でいいよ」
「身体に悪そう……」
 一歩引いたペトラは全身で拒否を露わにしていた。

 真琴は壁に片手を突いて項垂れていた。自分が広めたバレンタインデーが不埒なものになりつつある。
 ハンジに注意をする者などおらず、反対に女兵士たちは揃い踏みで購入していく。飛ぶように売れている小瓶は、さっきナナバがこっそりチョコレートに垂らしていたものに違いない。

 おどろおどろしい、と真琴は思っていた。甘いものが好きな真琴は、何個かチョコをもらえそうで楽しみにしていた――密やかに。が、この売れ行きを見てしまったら、とてもじゃないが食べる気になれない。
 壁に向かって誰に言うでもなく、懺悔をしていたときだった。

 憤然とした形相で肩をそびやかすエルヴィンが、廊下を歩いて来るのが見えた。ハンジのところまでまっすぐ来ると、強圧的な勢いで彼女の後ろ襟を掴む。
「一昨日、注意したばかりだろう。兵団内で妙な物を売りつけるなと」

 首根っこを掴まれた猫のようなハンジ。媚びるような不自然な笑みを浮かべる。
「完売させないと腐らせちゃうからさ」
 言い訳など聞かず、エルヴィンは行列に向かって片腕をびしっと水平に切る。
「散りなさいっ」
 絶対的な語気に逆らえるはずもなく、行列は蜘蛛の子を散らすようになくなった。

 エルヴィンはハンジを椅子から引きずりだす。
「お前は私の部屋でたっぷり絞ってやる」
 と言って次いで真琴とペトラに向かい、
「それをすべて処分しておいてくれ」
 と指示をしてから歩きだす。去り際にぼやきが聞こえた。
「本当にお前は問題児だ。私の身にもなってくれ。他人事じゃないんだぞ」

 助けて――――っと叫ぶハンジを、見守るペトラがぽつりと言う。
「団長の最後の言葉、どういう意味なんだろう」
 真琴はただ苦く笑ってみせた。
 大人の魅力があるエルヴィンは、リヴァイに劣るともなく女子から人気だ。彼のもとにも相当な数のチョコレートが届くだろう。ともすれば危なくて貰ったチョコレートは食せないだろうな、と真琴は思ったのだった。

 指示された通りにペトラと小瓶を片付ける。うっかり肘が当たってしまい、ドミノ倒しのように倒れた小瓶は転がって床に全部落ちていった。
「何してるの真琴〜」
 苦情めいた面持ちのペトラは、転がっていく小瓶を追う。ガラス製の小瓶だが、しっかりしているようで割れることはなかった。
「ごめん〜」
 余計な仕事を増やした真琴は謝った。ばらばらに床を転がっていく小瓶を、腰を曲げて拾っていったのだった。

 ※ ※ ※

 凍える月が、眠りに入ろうとしている薄明時。頼りないランプの明かりが、厨房の輪郭を朧げに象っていた。
 カチャカチャと金属質な音を響かせているのは真琴。泡立て器で一心不乱にボールの中身を掻き混ぜる。弱い灯火のせいで灰白に見える泡は卵白だ。

 右腕に乳酸が溜まる疲労感。ときおり左手に交代するが、上手くコントロールできないので結局は右手の役目になる。頑張って混ぜていると、だんだんとふわふわな感じになってきた。
 こんなもんかな、と泡立て器を数回振るってメレンゲを落とした。次いで薄力粉を入れた真琴は、ケーキの生地を作っているのだった。

 女兵士たちがチョコレートばかりなのをいいことに、自分は少し違ったものをリヴァイに贈るつもりで真琴はいる。甘いものが苦手な彼のために、マーケットでカカオ九十パーセントのチョコレートを仕入れてきた。ラム酒を多目に入れて、大人な味の小さなチョコレートケーキを作るのだ。

 バニラエッセンスを加えるために、小瓶を取り出そうとポケットに手を突っ込んだ。指先に触れた物に真琴は、「あれ?」と首を捻る。
「何で二つ……」
 手のひらには藍白の小瓶が二個。思いついた心当たりに、真琴はくさくさした。
「ハンジさんの『みるみるほれ〜ル』だわ」

 小瓶の始末をエルヴィンから命ぜられたとき、肘が当たってぶちまけた。そのときにポケットに紛れ込んだのだ。
 どちらかが惚れ薬で、どちらかがバニラエッセンスだ。だがしかし項垂れることはない。だって匂いを嗅げば、どっちかなんて明白だろう。
 それぞれの蓋を開けて匂いを確認した真琴は、結局項垂れることになった。

「どうして両方からバニラの香りがするの……」
 おそらくハンジは『みるみるほれ〜ル』にバニラの匂いをつけたのだろう。何てことだ。再度注意深く真琴は匂いを嗅ぐ。が、やはり判別不可能だった。
「え〜……」
 思わず踞る。別段バニラエッセンスがなくとも構わない。構わないのだが、予定を変更せざるを得ないことが、ひどくやる気を萎えさせたのだ。

 膝に額をくっつけて、
「ハンジさんのバカ〜……」
 と力なく毒突いたとき、誰もいないはずの厨房で返答があった。
「いじめられでもしたか、ハンジの奴に」
 なぜ音もなく現れる。僅かな動揺を胸に、真琴は声のするほうへ振り向いた。
「喉でも渇きましたか、リヴァイ兵士長」

 厨房扉口で背を預けているリヴァイ。ゆったりしているさまは、ずいぶん前からそこにいたことが窺えた。
 観察するなんて趣味が悪い。そう思うも難詰する気分にはなれなかった。とにかくバニラエッセンスが心残りなのだ。

 リヴァイは手粘く扉口から背を離して、そばまでやってきた。踞ったままの真琴の頭に手を置く。
「どうした。なぜ落ち込んでる」
「バニラエッセンスが『みるみるほれ〜ル』で、『みるみるほれ〜ル』がバニラエッセンスなんです……」
 人差し指を台所に向けた。

 意味不明な事柄はリヴァイの首をかしげさせた。真琴が指差すほうにある小瓶を見て、「なるほど」と下劣なものであるかのように眼を眇めた。
 リヴァイは二つの小瓶を手に取る。

「どちらかが、お前の言うバニラエッセンスなのか」
「はい。でも両方からバニラの匂いがするから分からないんです」

 顔を上げると、見降ろしてくるリヴァイと眼が合った。彼はおもむろに蓋を開けた。匂いを嗅いでいる。両方確かめたあと、
「こっちが無害なほうだ」
 と小瓶を差し出してきた。真琴は眼を丸くする。

「すごいっ。どうして分かるんですか?」
「お前とは鍛え方が違う」
「――鼻って鍛えられるものでしょうか」
「そうやって否定的な奴は先入観で決めつける。努力もしねぇし、だから身につかない」
 怒ってはいなさそうだが発言がからい。異を唱える前に感謝の気持ちを伝えるべきであった。
 身を起こしてそろりと窺う。
「ごめんなさい。……ありがとうございます」

 横風に鼻を鳴らしたリヴァイは、「みるみるほれ〜ル」を指で摘んで揺らす。
「こんなもんを隠しもってやがるとは、やらしい奴だ」
「ボクのじゃありませんっ」
 真琴は全力で打ち消した。
「ふとどき者なうえにホラ吹きときたもんだ」
「だから違いますってば! ポケットに紛れ込んじゃっただけです!」
「どうだかな」
 そう言うリヴァイはどこか楽しげで、斜めに口端を吊り上げていた。からかわれていたのだと気づく。

 動転している気を鎮めて、真琴はやり返す。
「欲しいのならリヴァイ兵士長に差し上げます。ボクには必要ないので」
 少しの沈黙のあとで、リヴァイが真琴の意に沿うてきた。
「ならば貰っておくか。のちほど楽しませてもらおう」
 と言ってズボンのポケットに納めようとした。慌てた真琴はリヴァイの手首を掴んで妨げる。

「だ、だめ!」
「なぜ?」
 リヴァイが首を傾けてみせた。真琴は口籠る。

 楽しむだなんて言われたら、薬を渡すわけにいかないではないか。使う相手はおそらく真琴の知らない女なのだろう。したくもない想像をしてしまい、胸中が妬心に制圧されていく。

「ひ、人に使うのは危険ですっ」
「ただの媚薬だろう? たいして危なくもないと思うが」

 涼しげな口調とは裏腹に、リヴァイは面白がっているようにみえた。さらにからかられたのだと真琴は気づく。完膚なきまでに手中に落ちていた。
 口をもごもごさせ、物申したそうな真琴に満足したのか。リヴァイは薬の中身を流しに捨てはじめた。跳ね返る枯茶色の雫が王冠のように見えた。

「ハンジの作った代物なんぞ、使うわけねぇだろ。冗談が通じない奴だ」
「ボクは、相手の女性を心配しただけですから」

 我ながら性質がねじれている。女性の身体なんて真琴はちっとも心配しちゃいない。怪しげな薬で情事が盛り上がってしまうことを、気に入らなく思っただけなのだ。素直にそう言ったところで、いまは男なのだから気色悪いだけだろうが。
 最後の一滴を振り落としながら、リヴァイが横目で観察してくる。考えていることを読み取られそうだから、眼を逸らす。

「謳っているだけの効能があるかも疑わしい。腹を壊すのは目にみえてる」
「モブリットさんからも、決して口にしないようにって忠告を受けました」
「それが賢い」
 小瓶をそばにあるゴミ箱へ投げ入れたリヴァイ。口許だけで小さく笑う。
「俺もエルヴィンから忠告された。チョコを貰っても食わないほうがいい、とな」
「全部が全部、そうとは限らないと思いますけど……」
 瞳を作りかけのチョコレートケーキに巡らせ、真琴は口を窄めながら言った。

 ハンジの商売が、思わぬ弊害を招いているようだ。このままでは気持ちを込めて作ったケーキも、食べてもらえそうにない。
 真琴が見つめているボールに、リヴァイも視線を落とした。

「手間の掛かるもんを、他人のためにわざわざ作ろうとする。俺には理解できん」

 理解できないとは、どの部分を言っているのか。男を装う真琴が、女紛いのことをしているからか。それとも、労力を惜しまずに手作りしていることを指しているのか。どうもリヴァイの表情からは、店で買ったほうが無駄が省けるだろう、というふうに見て取れた。となると後者であろう。

「チョコ作りをしている女の子たちは、みんな楽しそうでしたよ。お菓子作りそのものが好きだからというのじゃなくて、手作りをあげたいんです」
 バニラエッセンスを生地に数滴垂らす――落ちていく雫に、思慕の情も加えて。真琴は混ぜながら、
「普段伝えられない感謝の気持ちや、密かな恋心だったり。そういう暖かい想いが小さなチョコに込められてるんですよ」

 黙然としているリヴァイ。ただ真琴の手許を見ている顔からは、真琴の言葉を噛んで自分に馴染ませているように感じ取れた。
 ぼそりと低い掠れ声。
「それにも込められているのか」

 泡立て器を持つ真琴の手が思わずとまる。バニラエッセンスを入れたことで、ふうわりと甘い香りが立っている生地。香りだけじゃなく、甘い想いも溶け込んでいる生地。
 鼓動が落ち着かなくなってきてしまい、真琴の視線は下を向いたまま定まらない。

「代わりに作ってと、女の子から頼まれたものなんですけど」
 深く突っ込まれぬよう一応予防線を張っておき、
「その子になった気で、想いを込めているつもりです」
「違いはあるのか。丹精込めたものと、取り分け何となくで作ったものとは」

 聞くまでもないじゃないか。愛情を知らないための発言だろうか。ならばなおのこと、真心籠ったチョコレートケーキを食べてほしいと思う。
 ふんわりと真琴は微笑み、リヴァイに顔を向けた。

「段違いですよ。愛が込められたものは、一味も二味も違います。甘い恋の風味がするはずです」
 そうか、とリヴァイは眼を伏せて唇を綻ばせる。再び瞳を上げて手を伸ばし、
「甘いものは苦手なんだが」
 と、真琴の頬に親指を滑らせてきた。彼の指が掬い取ったものは、いつの間にやら飛び散ってしまった生地の粒。

 リヴァイが指を舐めとろうとしていたから、真琴は急いでストップをかける。
「それ生だからっ」
 が、遅かった。ごっくん、と喉を上下させたリヴァイが顔を歪ませる。
「早く言わねぇか」
 大丈夫だろうな、と少し心配そうに腹をさすっている。巨人に対して強靭な精神の持ち主でも、腹の具合は気にかけるのだ。真琴は可笑しくなってきた。

「そのぐらいでお腹を壊すほど、柔じゃないですよねっ」
「他人事かよ」
 ぼやく男をそのままに、脇に置いてある紙袋から、瑠璃色の包装紙と金色のリボンを取り出した。教えちゃってもいいだろう、リヴァイへのケーキだということを。みなまで言わなくても、勘づかれている気がしてならないが。
 包装紙にラメ塗装された、銀色の小さな星。ランプの明かりを浴びると、濃い紫みの青は日の出前の空のようで、明けの明星が輝く。
「ボクの作ったケーキなら安全ですよ。この紙とリボンが目印です」

 腕を組んで顎を上げたリヴァイは、どこか見高。
「依頼した女が、できあがったケーキに薬を盛ったとしたら?」
 反応を試しているような物言いだった。わざとっぽい気がする。
「ケーキの表面に、オイルっぽいものがあったら疑ってください。でもそんなことはないと思いますけど……」
「型が崩れないよう配慮しつつ、気づかれねぇように中身に巧く忍ばせるかもしれん」
 めちゃくちゃな言い草だ。
「絶対ないです。そもそも崩れないなんて神業です」

 リヴァイは上目で考える仕草をしている。なぜそんなに食べたくない理由を探す必要があるのか。意地悪以外にないと思う。
「クリームに薬を混ぜて、飾りつけを増やされたら見抜けねぇだろ」

 ポンポン出てくる底意地の悪い発言に、真琴は唸らずにはいられなかった。どうにかして黙らせられないものだろうか。ケーキを食べてもらいたいから、こちとら必死なのだ。

「ここで包んじゃいますから、紙に皺があったり、もしくは違っていたりしない限り、安心してもらっていいです」
 ここいらが妥協点だったようだ。リヴァイがふっと笑んだ。
「甘くするなよ」
「好物のお酒をたっぷりブレンドしておきます」
 破顔した真琴はラム酒を手に取り、振ってみせたのだった。

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