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時系列:第五章29

 太陽が沈みゆく。本日も滞りなく――といっても真琴にとっては散々だった訓練が終わった。
 訓練場から、宿舎のほうへと帰っていくほかの班の姿もある。女兵士たちが二班をちらちらと見てくる。しばしば見られる光景で、彼女たちの視線は桃色だった。
 オルオがニヒルに笑う。格好つけているのは明らかだ。

「俺への視線が熱いぜ。恥ずかしがってないで、話かけてくりゃあいいものを」
「ねぇ、本気で言ってる? 思いっきり見当違いだと思うよ」
 醒めた口調のペトラ。
 真琴はオルオをこっそり見る。顔つきからして、どうも本当に思い違いをしているようだ。

「兵長は一人、前を歩いてるんだ。視線の矢印がこっちに向いてるときたら、俺以外ないだろ」
 前方を行くリヴァイとは五メートルほどの距離。桃色の視線は確かに、固まって歩く真琴たちに向けられていた。
 微小な哀れみの面でペトラは、
「自分以外の誰かだとは思わないわけ?」
「ほかに誰が――」

 せせら笑いしながらオルオが二班の面々に首を回す。真琴と眼が合った途端、彼の表情が口角を上げたまま凍った。はっとしたように女兵士たちを振り返る。彼女らと真琴とを交互に見やり、視線の行方を何度も再確認しているようだ。
 オルオは心理的なショックを受けたらしい。喚く。
「なんで俺じゃなくて真琴なんだ! こんなひ弱な奴が!」

 真琴は苦笑した。女兵士たちの視線が自分に向けられていることは、前々から認識していたことだ。オルオがずっと勘違いしていたことも知っていた。だからってわざわざ訂正しない。勘違いだろうが何だろうが、その視線が彼の元気に繋がるのなら、余計なお世話というものだ。

 ペトラが得意げに眼を伏せる。
「中性的でちょっと病弱な感じの男子が、いまきてるのよね。歌劇のトップスターもそんな感じだし」

 どの時代も人気者には流行がある。去年肉食系男子が注目を浴びていたと思うと、今年は草食系男子だったり。だから悲観することはない、と真琴は思う。
「流行り廃りがあるから。オルオにもいつか光が当たるよ」
 慰めは返ってオルオの逆鱗に触れたらしい。ぴしゃりと指を差される。
「納得いかねぇ! こいつより俺が格下だなんて絶対に認めないからな!」

 真琴の悠揚たる態度が、より敵対心を掻き立ててしまっているようだ。せっかくモテているのに、はしゃいだりもしないからだろう。とはいえ同性から異性としての好意を持たれても、興味がなければこうなると思う。
 だけどこうも対抗心を燃やさせれると歯向かいたくなる。真琴は鼻の付け根付近に差されたオルオの指を見る。じんじんする感覚が気持ち悪い。

 そういえば、と上目をすれば淡く伸びる雲。小鳥が群れをなして巣に帰っていく景色があった。
 いまは二月。まだまだ寒いが、真琴の世界ではバレンタインシーズンだ。百貨店などでは高級チョコレートや、プレゼントなどでおおいに賑わっている時期だろう。
 愛情をチョコレートに詰めて告白できる日。こちらの世界でも、そういうイベントはないものかとリサーチしたのだが、残念ながらなかったのだ。

 真琴は考える。そもそも日本のバレンタインデーは、いつからチョコレートを贈るという習慣になったのか。販売促進という菓子業界の隠謀にほかならない。であるならば、いっそ兵団内で流行らせてしまおうか、と企てる。真琴がリヴァイに想いを伝える手段としての隠謀だった。

 喧嘩なんか、売る気はないが真琴はオルオに喧嘩を売る。
「そこまで自信があるなら勝負しようよ」
「立体起動なら負けねぇ!」
 拙い。それだと真琴は負けるし、意図から大きく外れる。
「どっちがモテるか勝負しようって言ってるんだ」
「人気投票でも何でも受けて立つ!」
 卓球でピンポン球を返すようにオルオは乗ってくる。傍らにいるペトラが半目で、「負けるの眼に見えてる……」と呟いた。

 真琴は腰に両手を当てて、挑戦状を叩きつける気分で言う。
「勝負はチョコレート!」
 言い放つと、二班のみんなは突としてシーンとなってしまった。もっと熱い闘いを想像していたのか、呆気となってしまう。オルオでさえ、ぽかんと間抜けな顔だ。

 周囲から浮いた真琴は動揺する。しどろもどろながらも、
「ど、どっちが女の子から多くチョコレートを貰えるかで競う! 勝敗は二月十四日だ!」
 言い切ってやった。
 一拍おいて、
「面白そうっ」
 と手を叩く音がした。喜々として表情を輝かせたのはペトラで、
「調査兵団で大々的にやろうよ、全男子対象で。女子には私から広めておくわ」

 思わぬ協力者。真琴が触れ回る必要もなく、兵団内にバレンタインデーが行き渡りそうだ。
 けれど――と、豆のように小さくなってみえるリヴァイの後ろ姿を見やり、
 ――一本勝ちされそうな予感。
 と真琴は思ったのだった。

 ※ ※ ※

 ペトラの顔は広い。ごく短期間のうちで兵団内にイベントは浸透していった。
 勝負の日、もとい十四日までもう日がない。が、食堂へ行くたび厨房から連日甘い匂いが漂ってくるのだ。チョコレートの香りに相違なく、女兵士たちが厨房を占領しているからだった。

 昼食を食べ終わった真琴に、厨房のカウンターから声がかかった。ペトラのもので、彼女は「こっちに来て」というふうに手を振っている。
「なに?」と、近づいて訊いてみた。ペトラは頬にカカオらしき粉をつけていた。

「チョコ作り手伝ってほしいの。真琴、料理全般得意でしょ」
「ペトラだって得意じゃない。手伝いなんていらないでしょ?」
 不思議で首をかしげれば、ペトラは困った笑いを浮かべた。
「私一人じゃ手に余るの。こういう組織でしょ? どの子もお菓子作りとは縁がほど遠くって」
 と言い、首を背後に巡らす。

 カウンターから奥を覗けば、台所付近は女兵士たちで溢れていた。床には茶色い粉や、クリームやらが散っている。てんやわんやなようだ。
「なるほど、ペトラだけじゃ大変そうだね。助っ人するよ」
「助かる〜」
 心底ほっとしたように表情を崩す。ペトラはすぐさま台所へと走っていった。

 真琴はカウンター横にある厨房の扉を開いて台所へ向かう。途中、仕込み台で夕飯の準備をしている調理人らが、迷惑そうな顔つきを寄越してきた。毎日台所で騒がしくされ、彼らはほとほと嫌気がさしているようだった。
 厨房は調理人たちの聖域だ。何者にも不可侵されたくないという思いがあるのだろう。

 そういえば、と真琴は思う。そういえば母親も、父親が台所に立つのを良く思わない節があった。たまに良かれと思って父親が料理を作れば、流しに散乱した調理器具を見降ろす母親のこめかみには、怒りの筋が見られたものだ。
 厨房を陣取られるという原因を作ったのは、そもそも真琴なので肩身が狭い。
「お騒がせしてます……」
 と一言詫びてから台所までいった。

 腕まくりをし、手を洗って清潔にした。菓子作りの手際が悪い、女兵士らのフォローをさりげなくしていく。
 彼女たちは不慣れな動かし方で、チョコレートの塊を包丁で刻んでいる。危なっかしい手つき。はらはらした様子でペトラがアドバイスを飛ばす。

「指を切らないようにねっ」

 喋りながら調理をしている女兵士たちは聞いちゃいない。誰が好きだの、誰にあげるだの――人気投票のつもりで広げた催しは、まさしく恋のイベントに変わりつつあった。
 あちこちを気にかけ、目を回しているペトラに真琴は苦笑してみせる。

「自分の作る分は大丈夫?」
「教えるばかりで全然よ」
 眉を下げたペトラが首を横に振った。
「ここはボクが引き受けるから、いまのうちに作っちゃいなよ」

 リヴァイにあげるんでしょ。とは聞けなかった。好きな男が同じ人だから、胸に重い鉛が落ちてきてしまって口を開けなかったのだ。もっとも、みんながいるところで恋に関する話をするのも野暮だろうけれど。

「じゃあ甘えちゃおうかな」
 笑顔で言ったうちからペトラは顔を歪ませ、
「ちょっとちょっと! 湯煎に直接チョコを入れたらダメだってば!」
 間違った手順で、チョコレートを溶かそうとしている女兵士がペトラをそんな顔にさせた。銀色のボールを慌てて奪い取っていた。

 湯煎の中で直接溶けていくチョコレートを見降ろし、溜息をつくペトラ。真琴は探りを入れてみたくなった。
 バレンタインが目的だったとはいえ、オルオとの勝敗が気になっていたからだ。本命はリヴァイにあげるとしても、同じ班員の仲間なのだ。どっちかにはくれるのではないかと思っている。

 不安ながらも真琴はにこやかに笑い、
「ペトラはボクにくれるよね?」
 えっ、と言った感じでペトラの眼が丸くなった。
「真琴にあげなきゃダメ?」
 地味にショック。
「いや、強制じゃないから別に……いいんだけどさ」
 歯切れ悪く言うと、ペトラは眉を寄せて笑う。

「やだ、勘違いしてない? あげたくないとかじゃないのよ」
 流しに駄目になったチョコレートを捨て、
「だって真琴なら絶対にチョコレートを貰えるでしょ。私は可哀想な奴に、義理としてあげるつもりだから」
「それってオルオのこと?」
 ペトラはボールを振って水を切る。
「ほかにいないでしょ。誰からも貰えなかったら可哀想じゃない」
「理由は分かったけど、義理でもボクにはくれないんだ」

 ただ何となくで訊くと、ペトラは流しに目線を落としたまま再度眼を丸くした。真琴を窺うように見てくる。小さな声で、
「勝負なんだし、同じ班の私が二人にあげるのってフェアじゃないでしょ」
「ああ、そういうこと」
 納得して頷くが、ペトラはまだ意味深に上目遣いしていた。真琴が無言で問えば、
「そんなにチョコがほしいの?」
 と眼を泳がしながら聞いてきた。声は細く、頬が微妙に紅潮しているようにみえた。

 思いがけず、真琴は眼をまたたかせた。チョコレートに執着したために、どうやら勘違いされたようだ。
 ちがうよ! と全力で否定するのは憚られた。逆の立場であったなら、例え相手に好意がないとしても、針で突く程度に傷つくのではないかと思ったからだ。恥ずかしい自惚れのために、真琴ならば冬の海であったとしても平気で飛び込める。

 真琴とペトラの間に微妙な空気が沈殿していた。ペトラはチョコレート作りに集中できていない。とっくに粉々になったチョコレートを、まだ包丁で叩いている。
 やはりちゃんと否定しておくべきだったか。と、真琴がほろ苦い思いをしているときだった。

「ペトラちゃん。そこ、代わってくれるかな?」

 背後から聞こえたのは、低めなハスキー声でゆっくりな棒読みだった。
 感情なしな口調に、よからぬ気配を感じ取ったのだろう。ペトラがそろりと振り返った。

「――ナナバ先輩」

 真琴も振り返ってみる。真琴とペトラの丁度真ん中辺りにいるナナバ。糸のように眼が細く見える。口角も上がっていて微笑しているのは明確。――明確なのだが、
「代わって、くれるかな?」
 駄目押ししてきたナナバの語調は、やはり棒読みだが高飛車な感じがした。

「どうぞ……使ってください」
 消えそうな蝋燭。そう真琴が思ってしまうような声だった。ペトラがすごすごと流し台へ手を差して譲った。
 ナナバはペトラに顔を向け、「ありがとう」と面を崩さずに言った。

「真琴」
「はいっ」
 隣から呼びかけられ、思わず真琴はしゃちほこばる。威圧されていたのはペトラだけではなかったのだ。だって笑顔が怖い、と思って上目遣いすると高圧感が消えていた。

「恥ずかしい話、私お菓子作りってしたことないんだ。料理もだけど」
 とナナバは肩を竦め、
「教えてくれないかな」
 柔らかい微笑みに、真琴はガス抜きされた。さっきのは幻影だったのだろうか、と首をかしげたくなる。
「ボクでよかったら」
 申し出を受けると、ナナバは嬉しそうに唇をしならせた。彼女は袋を持っていて、まな板の上に中身を落とした。たくさんのチョコレートだった。
 本命以外に義理チョコも作るのだろうか。

「何個作るんですか?」
 素朴に訊けば、
「一個だよ。全部使う」
 一瞬答えに戸惑った。作り笑いで真琴は返答する。
「顔くらい大きなチョコができそうですね」
「気持ちを込めるにはそれだけ必要だよね」
 大きさじゃない、と思いながらも真琴は、「はぁ……」と答えてみせた。

 ナナバは指示通りに、裸にしたチョコレートを包丁で刻み始めた。「難しいね」と柳眉を下げて彼女は微笑む。
 短めなショートカットのナナバは背が高く、どこかボーイッシュ。だが男勝りなわけでなく、女性らしいと聞く。班が違うのと、いまの真琴が男装で同性じゃないということもあり、ほとんど関わり合いがないので人伝なのだけれど。
 美しい容姿は男女ともに密かな人気だとも聞いた。ナナバに本気になってしまった女の子が、彼女に一晩の夢を見させてくれ、と懇願したらしいとも。断ったかまでは知らないが。

「楽しいね」と破顔しながら、ナナバは湯煎の張ったボールでチョコレートを溶かしている。真琴も同じような笑みを返しつつも、胸の内で引き攣っていた。
 まさかと思うが――と、ヘラでチョコレートを混ぜるナナバをちら見する。ふんわりした笑顔は乙女らしさ溢れる。ペトラを追い払ったのはまさか、真琴目当てだからなのだろうか。そう勘違いさせる雰囲気は充分にあった。
 確信を突くひそひそ声が、耳に入ってきたのはそんなおりだった。

「ナナバさんが密かに真琴に熱をあげてるって噂、本当だったんだ」
「クールに見えて可愛いもの好きだからね」
「相手がナナバさんじゃ、真琴を返して――なんて言えないじゃん」
 悔しそうな感じだった。
 真琴は苦笑しつつ頭を掻いた。複雑だ。期待に添えなくて申し訳なくも思った。

 一般的なサイズのハートの型は、ナナバが作りたいチョコレートには足りなかった。ホイルで代用し、即席で作った歪なハートの型に彼女はチョコレートを流す。満足げな面持ちだ。
 ほかのみんなの様子はどうかな。真琴が見渡すと、思った通りペトラは忙しそうにフォローしていた。自分のチョコを作る暇などなさそうだ。

 よそ見していた真琴は、ナナバのチョコレートに視線を戻す。彼女は手に持つ小瓶を振っていた。数滴、チョコレートに落ちていく。
「バニラエッセンスですか?」
 問うと、なぜかナナバは大仰に両肩をびくつかせた。

 真琴がそう聞いたのは見覚えがあったからだ。中身の液体が透けて見える藍白の小瓶。同じ物を、昨日マーケットで購入してきたばかりなのだ。

「バニラ、エッセンス……ってなに?」
 ひどく狼狽えているナナバが聞き返してきた。知らないで買ってきたのだろうか。
「香りづけのオイルですよ。バニラの匂いがする」
「そ、そう! それそれ! 美味しくなるように、ってね!」
 裏返る声に無理な笑み。隠すように、さっと小瓶を内ポケットに入れたナナバの態度は、とても怪しく真琴には感じたのだった。

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