時系列:第四章以前
昼下がりの閲覧室。文字の書き取りに疲れた真琴は、卓子に頭を伏せて眠りこけていた。背後の窓から差し込む陽射しが、ぽかぽかと暖かそうだ。
扉の開く軋む音がした。コツコツと軽快な靴音を鳴らして、真琴のそばまでやってきたのはリヴァイだった。
リヴァイはしばし、真琴を見降ろしていた。顔を横向きしにして寝ている真琴の、頬に手を伸ばして触れる。
触れた瞬間リヴァイが大きく眼を見開かせた。
開け放たれた窓から、柔らかな風が吹き込む。卓子に置かれた本のページがぱらぱらと捲れていった。そのさまを、リヴァイは果たして見ることができたのだろうかは、分からない。
※ ※ ※
奮発して買ったアンティーク調のベッドに真琴は横になっている。手には読みかけの小説を持って。
ベストセラーの推理小説だ。いよいよ次のページで犯人が分かる。ドキドキしながら真琴がページを捲ろうとしたときだった。
「おい」
男の声がした。
だがここは自分の部屋だ。それにこの家には男はいない。真琴の家族構成は両親だけ。唯一の男である父親は、休日だというのに会社のつき合いでゴルフにいっている。
であるならば、きっと小説に夢中になりすぎて、作中の主人公の台詞が空耳として聞こえてしまったのだろう。ほら、ちょうど「おい」という台詞があるではないか。
「おい」
また聞こえた。けれど可怪しいと真琴は思った。だって次の台詞は「犯人はお前だろう」のはずでなければならない。
しかも、いかにもな肉声だった。怪訝が胸に広がり、真琴は小説に集中できなくなっていた。それにどこかで聴いたことのある声だ、そう思ったとき。
ばっ、と小説を「誰か」に奪われる。仰向けに寝転がる真琴の頭上に、眼つきの悪い男がいた。
「なんでリヴァイが!?」
驚いて真琴は飛び起きた。ベッドの傍らに仁王立ちのリヴァイがいる。
「それは俺が訊きたい。ここはどこだ」
言って不思議そうに真琴の部屋を見渡す。彼の視線が向ける先には、本棚やPCデスクやチェストがあった。
真琴は混乱していた。そもそもここはどこなのだろう。寛いでいたが、いつ自分の世界に帰ってきたというのだろう。リヴァイという存在に、一気に現実に引き戻された感じがした。
「えっと、ここはですね……」
「お前の都合のいい世界のようだな」
真琴は首をかしげた。
「女になりたい願望でもあったのか? それが表れてる」
あっ、と真琴は部屋着の胸許を押さえた。いつもはさらしを巻くのに、いまは膨らみがある。
リヴァイはPCデスク前に立ち、ノートPCを珍しげに見降ろす。おぼつかない手つきで開いてみせた。
「面妖だな、お前の夢は」
「夢?」
真琴は眼をぱちくりした。リヴァイは振り返り、腰に片手を当てる。
「そうでなければ可怪しいだろ」
どんより気分で真琴は項垂れた。
「そうですね……。夢、ですよね」
帰ってきたと思ったのに、これが夢だなんて酷すぎる。
真琴の部屋を物色していくリヴァイの足音が、いやに響く。なぜだろうと、彼の足許を見て真琴は非難の声を上げた。
「なんでブーツ!? 人の部屋でやめてください! フローリングが汚れる!」
「あ? ブーツ以外に何はけっていうんだ」
「そうじゃなくて土足厳禁ですから!」
「誰が決めた、そんなこと」
リヴァイは眉を顰めている。
駄目だ。日本の文化をどうこう言っても外国人のリヴァイには通じない。
構わない感じでリヴァイがチェストの前で膝を突く。引き出しを開けて摘み出したものに、真琴はぎょっと眼を剥いた。
光の早さで真琴はベッドから飛び降りる。スライディングしながら、リヴァイの持つ華奢な布を引っ手繰ろうとした。
ひょい、と真琴を欺いてリヴァイが布をひらひらと揺らす。
「ずいぶんと色っぽい代物だ。お前にこんな趣味があったとは」
変態だな、と含みの眼つきを寄越す。そのリヴァイの指が摘むものは、レースがふんだんにあしらわれた、ちょっと、いやかなりきわどい下着だった。
「変態はどっちですか!」
顔を真っ赤にして言い返し、今度こそリヴァイから下着を奪い返した。胸に抱いて隠すふうにする。
「お前だろ」
「いまは女だからいいんですっ」
「ほぅ」
そう言ってリヴァイは真琴に顔を突き出してくる。無表情な中にセクシーさが垣間見えて、真琴はさらに顔を赤くした。
「な、なに……」
「悪くない」
甘く囁いて、リヴァイが覆うように身を迫り出してきた。真琴は仰け反りながら片手をフローリングに突く。距離が近い。
「げ、現実は男ですよ」
「いまは女なんだろ。なら問題ねぇな」
何の問題だ。
真琴はリヴァイの胸を強く突いて、転がるようにして横に逃げた。
爆発しそうな心臓を押さえ込んで、話題を振る。
「せ、せっかくですから、外へ行ってみませんか!」
「ここでいいじゃねぇか。ベッドもある」
「なおさら外へ行きましょう!」
あぐらをかく男に真琴は強く提案した。
外ねぇ、と呟いてリヴァイはベッドに脚をかけた。窓へと半身を伸ばして外を覗き込んでいる。
「感性が豊だな」
リヴァイは完全に外の景色に気をとられていた。それもそうだろう。ここは住宅街といっても、リヴァイの住む世界と比べたら、何もかもが形状が違うのだから。
「外出したくなってみました?」
振り向きもせずリヴァイが頷いた。
彼の後ろ姿を見て真琴ははたと口を開けた。兵団の軍服で街へくり出したら、変な目で見られること間違いなし。
「ちょっとここで待っててくださいね」
言って、ぴしっと指を差す。
「――引き出し、開けないでくださいよ」
一言注意してから真琴は部屋を出た。
両親の寝室に入り、チェストから父親のシャツとズボンを持ち出して、再び自分の部屋へ戻る。そんなに時間はかからなかったが、リヴァイはまだ飽きずに外を眺めていた。
子供みたいだな、と真琴はこっそり笑ってから声をかける。
「その服じゃ目立つので、これに着替えてくれますか?」
振り向いたリヴァイに真琴は父親の服を手渡した。
めんどくせぇな、という様子だったがリヴァイは受け取り、その場で着替え始めた。
真琴はくるっと背中を向け、視線を彷徨わせる。割れた腹筋を見て恥ずかしくなってしまったから。
「おい」
寸刻して、真琴の背にかかった声。ドスが利いていた。
振り返ってリヴァイを確認した真琴は、思わず一歩下がる。大笑いしそうな口許を必死に両手で封じ込めて。
「ふざけてんのか、てめぇ。わざとじゃねぇだろうな」
父親の服はリヴァイにはダボダボだった。ズボンなんて、昔の時代の長袴状態。
まったく身長差を考慮してなかった。父親は長身で百八十センチあるのだ。対してリヴァイは百六十センチ。丈があまって当然だった。
震える口許を必死に押さえる。――笑いそうだから。
「わ、わざとじゃないんです」
「笑ってみろ。削ぐ」
青筋を立てるリヴァイは、かなりプライドを傷つけられたようだった。
真琴は吹き出しそうな口を必死でチャックする。そして自分のチェストを物色して、男に着せても違和感ないような服を探し出した。
真琴とリヴァイの身長差はそんなない。若干真琴が低いくらいだ。
ジーンズと、何の装飾もない黒のタートルネックを選んでリヴァイに渡した。着替え直したリヴァイにぴったりサイズだった。
「いいじゃないですか、なかなか」
「ごわごわして着心地が悪い」
文句を言うリヴァイはジーンズを摘んでみせたのだった。
外出する準備を終えた真琴とリヴァイは、電車に揺られていた。支度に手間取ったので空はすっかり黄昏だ。車窓から入り込む夕日が、車内を橙色に染めていた。
座席に座っているリヴァイは、脚を組んで片肘を背凭れに掛けている。手に頬杖を突いて、車窓を眺めていた。
「前々から不思議な奴だとは思っていたが、この世界を見れば別段不思議じゃねぇな」
「え? 誰が不思議?」
電車の音でよく聞こえなかった真琴は聞き返した。
「こっちの話だ」
数回首をかしげた真琴だが、それきりリヴァイは口を開かなかったので気にしないことにした。
「行きたいところありますか?」
「お前の夢の街を、俺が知るわけねぇだろ」
もっともだと思って真琴は舌をちょびっと出した。そこで思いついたのが、
「東京タワー行ってみます? 壁よりも高いですよ」
「お前にまかせる」
もっと食いついてくるかと思ったのに、と真琴は唇を尖らせた。
無表情なリヴァイを真琴は盗み見てみる。最初こそ物珍しそうにしていたが、何だかもう馴染んでしまっているように見えた。初めて外国を訪れたときみたいに、はしゃぐかと思ったのだけれど。
そこまで考えて、そうかこれは夢だからだ、と真琴は思った。このリヴァイは真琴が作り出した幻影なのだから、きっと真琴の深層心理ではリヴァイは決して動じない人、というようなイメージがあるのだろう。だからそれが再現されてしまっているのかもしれない。
――いまなら素直になれる気がする。
男のふりをしているから、生きる世界が違うから、と真琴は自分の気持ちに嘘をつき続けてきた。でもこの人が夢の人物であり現実じゃないのなら。
断られたらどうしよう、そんな思いを胸に真琴は声をかける。
「手、繋いでみませんか?」
頬杖をといてリヴァイが見てきた。些か意表を突かれたように、唇を半開きにしている。
もう一度、意思表示を込めて真琴は上目遣いをする。すると何も言わずリヴァイは膝にある真琴の手を握ってきた。
はにかむ口許を抑えられなくて真琴は下を向いた。重なり合うリヴァイの手は、男らしく大きかった。
東京タワーの最寄り駅へ辿り着いたころには、空は濁った藍色だった。
頭上を仰ぎ見たリヴァイがぽつりとこぼす。
「星が見えねぇな。雲がかかっているようには見えないんだが」
「空気が汚れているからですよ。大気汚染のせいです」
何気なく言った真琴の言葉に、リヴァイが微かに瞠目してみせた。
「前にもそんなことを――」
「え?」
「いや。ここは夢の世界なんだよな」
真琴は一瞬だけ黙ったあとで微笑した。
「そうですよ。こんな世界、あるはずないじゃないですか」
「そうだな……」
リヴァイが心残りな様相で眼を伏せた。何か思うことでもあるのだろうか。
下から見上げる東京タワーは圧倒的だった。何度も来たことはあるが、こうして見上げるたびに、ちょっと怖さを感じる。そして首が痛いほど反っても、てっぺんは見えない。
もう少し下がれば見えるかな、と仰ぎながら真琴は後ろ歩きする。ふと小石を踏んでバランスを崩しそうになった。
わっ! と反射的に前へ突き出した真琴の手をリヴァイが掴む。引っ張られると同時に、腰にも腕がかかった。
「ドジだな。気をつけろ」
「あ、ありがとうございます……」
がっしりと支えてくれている腕と手に、真琴は顔が熱くなっていく感覚を覚えていた。
「も、もういいです……離してくれても」
「……そうか」
小さな呟きと同時に、リヴァイの手がゆっくりと離れていった。
展望台に着くと、目前に夜景がひろがっていた。
全面ガラスの前にある手すりに、片手を突いたリヴァイ。琴線にふれたのか溜息をこぼした。
「星が散らばっているみたいだ」
「素敵ですよね」
青や緑や橙の、近未来的な輝きを放つ街。迷路のように入り組む道路が赤い一本の線に見えて、地の果てまでどこまでも続いているよう。まるで宇宙にいるかのような、そんな浮遊感さえ感じる。
リヴァイと一緒に、都会の街を一望できる日がこようとは思わなかった。できるならば夢で終わらないでほしい。無意識に、真琴は繋いだ手に力を込める。
ここが現実ならば何も悩むことなどないのに。闘うことだって、残酷なことだってない。ここにいれば幸せになれる、そんな気がする。
「平和でしょ。何の脅威もないんですよ」
「巨人などいないんだな。お前の世界には」
脅かす者がいないというのは、人間から緊張感を奪う。平和だからこそ、周囲にいる恋人たちは安心して抱擁しているのかもしれない。人目など気にせずに。
幸せあふれる彼らが羨ましい。けれどここなら、真琴とリヴァイも想いを通わせられるのでは。だって彼の信念は、この世界ではいらないものなのだから。
「ここなら、あなたも違う生き方ができるかもしれませんね」
緩慢に向き直ったリヴァイが、真琴の腰に腕を回してきた。
「闘う必要のない世界で、どう生きていけばいいのか、俺には分からない」
「あるがままに、生きたらいいんです」
「あるがままに……」
リヴァイはほとんど唇を動かさずに言って、真琴を見つめる。
「欲しいものを欲しいと、望んでもいいと?」
安らかな気持ちで真琴は頷いた。
「私も、ここでなら欲しいって言える」
夜景の輝きに包まれながら、真琴とリヴァイは互いに瞳を細めていく。吸い寄せられていく唇。瞳を閉じる瞬間に見た、優しい面差しのリヴァイが囁いた言葉は、何と言ったのだろうか。
きっと真琴の胸を、熱く焦がす言葉だったに違いない。
※ ※ ※
吹き込む風に髪の毛が舞い上がり、真琴の頬をくすぐった。数回まばたきをして気づいたのは、自分の頬に誰かの手の感触。そして見慣れた軍服の胸許があった。
卓子に両腕を重ねて頭を伏せていた真琴は、横目で見上げてみた。見慣れた軍服の正体は眼を見開いたリヴァイだった。
「どうしたんですか……?」
まだ寝ぼけ眼な真琴の声に、リヴァイは眼をしばたたいてみせた。そうして確認するように辺りを見回して、
「いつもの閲覧室か……」
「いつもの、って。それ以外に何かありますか」
背伸びしながら真琴は軽く笑った。
釈然としない感じのリヴァイが、真琴を見降ろす。薄い唇を小さく開いた。
「犯人は三毛猫だ」
「なんで言っちゃうんですか!」
言ってから二人して眼を見開いた。
あやふやで思い出せないのだが、猫が犯人の小説を読んでいた気がする。あれはどこでだったか。
リヴァイがゆったりとした足取りで出口へ歩いていく。
「気色悪い夢だったな」
扉から出る間際に、
「男と手をつないで口づけなど、ありえん」
そうぼやきが聞こえたあとで扉が閉まる。廊下を軽快に歩くブーツの音が遠ざかっていった。