04

 真琴の身体半分が冷たかった。それは傍らの男から放たれている気。嫉妬というよりはフュルストに対する殺気なのではなかろうか。
 振り向くのが億劫だったが、リヴァイに向き直る。彼はフュルストを睨みつけていた。そのそばでは、椅子を寄せたユーリエがリヴァイの腕に手を掛けている。相槌すらしてくれないのに、彼女は健気に喋りかけていた。
 いくらなんでもかわいそうに思う。例え相手がライバルであったとしても、だ。
 真琴は努めて朗らかに声をかけた。

「ユーリエ様。今日はお父さまとご一緒ではないの?」
 話しかけたというのに、つんと顎を逸らしてそっぽを向かれた。前言撤回。そういう態度を取るならもう何も言うまい。
 だが気にしないようにと努力しても、リヴァイの腕にかかる白い手が妬ましい。――と、ちらちら観察していたときだった。

 豊かな胸許に、すっと指を差し込む。ユーリエが取り出したものはリップケースより小さな小瓶。リヴァイの目を盗み、それを指先で叩くようにして彼の紅茶に何滴か垂らした。
 あっ! と声を出そうとした真琴の肘をフュルストが引く。彼は面白そうな顔で口許に指を当てた。

「僕も同じことをされた。貴族の娘って油断ならないね」
「ど、毒っ?」
 声を顰めて真琴は訊いた。
「違うよ。たぶん媚薬――かな? 睡眠薬だったら使いものにならなくなるしね」
「教えてあげないとっ」
「いいから、ちょっと様子を見てみようよ」

 楽しんでいるフュルストの言うことなど無視し、真琴はリヴァイに忠告しようとした。ふいに肩へ手が掛かかり、リヴァイに引き寄せられる。
「コソコソと、なに喋ってやがる」
「悪巧み」
 けろっとフュルストが返すと、リヴァイの眉間に皺が寄った。前髪を後ろに流しているから、いつもより目立つ。

 ユーリエがリヴァイの肩に手を添えた。
「お気を鎮めてくださいな、温かい紅茶でもお飲みになって……」
「いけ好かない野郎だ……」
 そう言い捨て、フュルストを見据えながらカップに手を伸ばす。飲んじゃダメ、と身じろぎした真琴の腕を、またぞろフュルストが引く。しかも脇腹にフォークを押し当ててくるから、声を封じられてしまっていた。

 カップの口まで唇があと少しというところで、額の深い皺が消えた。リヴァイは紅茶に目線を落とす。注意深く確かめるように鼻を近づけ、そして無表情な顔で地面にカップの中身を捨てた。
 あきらかに何か気づいた様子だった。匂いだけで薬を盛られたことが分かったのだろうか。

「悪巧みとはこのことか」
 抑揚のない口調でリヴァイが口を開いた。クスッとフュルストは笑う。
「教えてあげるまでもないよね。でも彼女を蔑ろにしなければ、もっと早く気づけたかも」
 言いながらフュルストは、顔を青ざめているユーリエに顎をしゃくった。

 ユーリエの手口は熟れているように見えた。フュルストも薬を盛られたと言っていたし、彼女にとってこのようなことは日常的なのかもしれない。みんながそうとは限らないが、貴族のイメージというものが真琴の中でだいぶ変わってしまった。

 だがしかし快楽を望んで、手当たり次第に男を誑かすのだろうかと考えると、それは短絡的かもしれない。彼女たちは寂しいのだ。風穴を埋めるためだけの交わりに愛などない。社交界の機会がなければ籠の中の鳥のような存在。自由のない彼女らは、婚姻も親の決めた好きでもない男が相手に違いないだろう。
 けれどリヴァイに向けられていたユーリエの瞳は、真琴と同じ色のものだった。特別な想いを寄せていることは歴然だ。だからこそ真琴は許せない。

「汚い手段を使って身体だけ手に入れても、心は掴めない。そんなの虚しいだけだわ」
「わたくしに説教する気? 養子上がりの名ばかりは礼儀も知らないのね」
 ユーリエは気色ばむ。
 やめろ、とリヴァイが真琴の腕を引くが、
「身分は関係ないわ。同じ女として言ってるのよ」
「アドバイスのつもり? はっきり言いなさいよ。嫉妬してるんじゃなくてっ?」
 立ち上がり、高圧的にユーリエは顎を上げてきた。
「嫉妬してるわっ。リヴァイの肩に掛かるあなたの手にっ、腕に掛かるあなたの手にっ。彼に抱かれたあなたの身体にっ」

 真琴が望んでも手に入らないリヴァイの身体。心はいらないからせめて抱いてほしいと、願ったこともあった。だけどそうなったらきっとあとでひどく傷つく、後悔する。
「だけど私はいらないっ。すべてを委ねてくれないのなら、求めてくれないのならっ。そんな虚ろなものいらないっ」
 言い切った真琴を見て、リヴァイが眼を丸くしていた。あけすけな発言によるものだろうか。

「カマトトぶらないでよっ。自由に暮らしているあなたに、わたくしの何が分かるっていうのっ? 自由に恋もできないわたくしのっ」
「恋ぐらい自由にできるわっ、あなたが始めから諦めているだけじゃないっ。姑息なことなどせず、正面からぶつかってみなさいよっ」
 フュルストが苦笑した。
「肩を持ってどうするの」

 もっともだった。アジったことで、本気のユーリエにリヴァイが靡いてしまったらどうしよう。いまさらながら真琴は痛恨している。おまけに興奮してしまったため、可怪しなことを口走った気がするが。

 フュルストがリヴァイをからかう。
「モテる男はつらいね」
「黙れ。余計なもん連れてきやがって」
 疲れを滲ませ、額に手をあてたリヴァイは項垂れる。
「そもそもは君が招いた結果じゃない。奔放な下半身がね」
 そうよ! と真琴はフュルストに強く同ずる。
「責任もなしに軽い気持ちでまぐわうからだわっ。女の敵よっ」

 責めたとき、出し抜けに丸卓子がぐらついてカップから液体が跳ね散った。リヴァイが怒りに任せ、拳で卓子を叩きつけたからだった。

「訊いたふうな口を利くな。俺がいつこの女を抱いたと言った」
 斜めに睨まれて真琴は尻込みする。返答に窮しながら、
「だって……あのとき、覚えてないって濁したじゃないの……」
 リヴァイは強い視線を、今度はユーリエに移す。
「お前とは何もなかった、そうだな」
 蛇に睨まれた蛙のごとく、ユーリエはこくりと躊躇しつつも頷いた。

 ここへ来てリヴァイの身の潔白が証明されてしまったようだ。彼とユーリエの間に、身体の関係などなかったらしい。勝手に勘違いしてリヴァイを責めた真琴は、一気にばつが悪くなる。されど素直に謝ることができない性分なので。

「それならそうと、言ってよ……」
「偏見で早とちりしやがって、こっちはいい迷惑だ。この女だとて、はっきり明言してねぇだろうが」
 フュルストがフォークを揺らす。
「誤りはマコにあるようだ。素直に詫びたら?」

 第三者から言われては、ますますばつが悪くなる。竜巻でも訪れて、いますぐ真琴を攫っていってくれないだろうか。そう懇求するほど逃げたい気持ちだ。
 黙りこくる真琴の代わりにリヴァイが応対する。

「そもそもは、てめぇが煽ったんだろうが」
 フュルストはただ肩を竦めただけに留めた。
 どうしてか咎め人が真琴になり、ユーリエは勝ち誇った口許を弛ませる。
「充分な根拠もなしに、人を悪く言うものではありませんことよ」
 自分のことは棚に上げて、と真琴は悔しさにぎりぎりと唇を噛む。どっちもどっちだろうが、それでもどちらかといえば薬を盛るほうが悪いと思う。
「今度わたくしの屋敷においでになって。珍しい紅茶をご用意してお待ちしてますわ」
 つぅ――とリヴァイの肩にそそり立てるような指先を滑らせ、ユーリエは去っていった。

 リヴァイは大きな溜息をつく。特大な疲労感が込められていそうだった。
「てめぇはいつまで居座ってる」
 無視してフュルストは陽気にティースタンドに手を伸ばす。
「ピクルスがあるよマコ。僕、目がないんだよね」
 と、お行儀悪く指で摘んだ。

 小指ほどの萌葱色をした塩漬けのキュウリ。ハンバーガーに混入していることがあり、真琴は長い間ずっと苦手だった。だが美味なピクルスと出会ってからは、むしろ好きになった好物のひとつである。しかしハンバーガーのピクルスはいまだに苦手なのだけれど。

 一口で放り込んだフュルストが、二つ目のピクルスを摘んで真琴に差し出してくる。「食べる?」
「うん」と頷き、真琴は手のひらを出した。が、フュルストは口許に近づけてくる。口を開けろとでも言いたいのだろうか。

 直接食そうとは思っていなかったが、突として目の前に腕が伸びてきた。害虫を払うような手つきで、リヴァイがフュルストの手を叩き落としたのだ。弾け飛んだピクルスはくるくると空中で回転し、思いもよらず真琴の胸の狭間に落ちてきた。
 とっさに胸を庇い、「やだっ」と真琴は恥じらい顔を赤くした。
 リヴァイは予期しなかったことに、眼を大きくして息を呑んでいる。フュルストは腹を抱えて笑った。

「ナイスキャッチっ。大胆に胸許が開いたドレスなんか着てくるから」
 と片目を瞑りながら可笑しそうに、
「大体そんなに胸なかったよね。見栄を張り過ぎだよ」
「私の意向じゃないし、ドレスだって私が選んだんじゃないものっ」

 フュルストに背を向ける。胸許の縁に指を引っ掛け、谷間に挟まったピクルスを取ろうとした。
 チリチリとそこに熱視線。真琴が瞳を上げると正面にはリヴァイの顔。切れ長な瞳に睫毛が目立つのは双眸を伏せているからだ。
 羞恥に歪んだ真琴の目顔。睨む視線に気づいたのだろう、リヴァイと眼が合う。

「サロンでも言ったが興味はない。そもそもハリボテじゃねぇか」
 平然と不躾なことをのたまった。次いでリヴァイの目線がそっと外れる。とらえどころのない、感情なしな表情をしていた。
 いかにも無関心な感じだったが、ただそう装っているだけではなかろうか。だってまだ胸には余韻の熱が残っているから。

「誰かのプレゼント?」とフュルストが訊いてきた。
 黙ってリヴァイを見る真琴の心を、またもフュルストは読んだようだ。へぇ、と怪しく口の端を上げる。
「それで赤のドレスか……。でも真琴には似合わないと思うな。僕なら濃い空の色を選ぶけど」

 ハンジと同じような含みのある言い方だった。どうして赤のドレスに関心を持つのだろうか。
 と首を捻り、真琴はピクルスを摘まみ取った。ほっとしたのも束の間、後ろからフュルストが半身を伸ばしてくる。摘んでいるピクルスをパクリと食べた。
「うん、美味しい。ちょっと生ぬるいけど」
 咀嚼しながらにこにこと笑う。

 驚愕に開いた口が塞がらなかった。そのピクルスだけは、自分以外の誰にも与えたくなかったというのに。

 怒ろうと真琴が腰を上げかけたとき、リヴァイが憤怒の表情で立ち上がる。拍子に椅子がひっくり返った。フュルストの襟ぐりを狙って突き出したリヴァイの手。されども素早く逃げられる。
 ひらりと身軽に避けたフュルストは挑発するふうに微笑む。
「どうして怒るの?」
 リヴァイの頬が微かに痙攣している。力んでいるように見えるので、奥歯を噛み締めているのかもしれない。

「まるで大事な玩具を取られた童みたいだ。ピクルスはまだたくさんあるのにね」
「くだらない。そろそろ憲兵に突き出してやろうと思ったまでだ」
「そうかなぁ? 僕にはピクルスに拘っているように見えるけど?」
 向かい合う二人の間に、真琴は両手を広げて割り入る。
「ピクルスの話は忘れてっ。なかったことにしたいぐらいなんだからっ」

「俺はピクルスなど気にしていないっ。もとより酸味のあるものは好かんっ」
 言いながら、リヴァイは邪魔だと言いたげに背を押してくる。
「ならいいじゃない、ピクルスのことなんか」
 フュルストは明らかに煽っている。真琴は地団駄したい気分だ。
「だから! 無益な言い争いしないで!」
 身を迫り出していたリヴァイが肩の力を抜いた。急に声のトーンを落とす。

「なるほど利益のない論弁だ」
 引き下がったのが慮外だったのか、フュルストはただきょとんとする。
「このあとの槍試合、もちろんエントリーしてんだろ。てめぇのブロックは」
「二ブロックのCだったかな」
 リヴァイが真琴の耳許で囁く。
「入り口でハンジが引いたカード、対戦表を覚えてるか」

 受付のとき、槍試合の組み合わせを決めるためにクジを引かされた。調査兵団として招待された中から一人だけ参加できるのだが。リヴァイは面倒くさいと言い、出場をハンジに押しつけた。

「えっと、二ブロックのAだったわ」
 リヴァイはにやりと冷笑する。
「どうも三戦目でてめぇとぶつかるらしい」
「そういうわけか」とフュルストは笑みを忍ばせた表情で眼を伏せ、「そこで決着をつけようってわけ」
「三戦目まで、勝ち抜いてこれたならの話だがな」
「見くびってもらっちゃ困る。そっちこそ、上がってきてもらわなきゃつまらないよ」
「上等だ。くだらねぇ寄り合いに飽き飽きしていたところだしな。鬱憤を晴らすいいおりだ」

 リヴァイは試合に出ることを決めたようだ。まったくやる気がなさそうだったのに、何がきっかけで彼は熱くなってしまったのだろうか。男は精神年齢がいつまでも子供だというが、この場にいればまさにそうだなと真琴は思ったのだった。
 ちらりとフュルストは真琴を見てくる。顎に手を添えている彼は何かを企んでいるようだ。

「賞典がないと張りがないな。褒美は勝利の女神からのキス――なんてどう?」
「いいだろう」
 リヴァイはあっさりと承諾した。

 勝利の女神とは誰のことだろう。人当たりのいい笑みで、真琴を見てくるフュルストから推測すれば。
 一拍遅れて真琴はリヴァイに詰め寄る。

「あなたの一存で決めないでよっ。キスなんてしないわよっ」
「俺が負けるとでも? 安心しろ、奴にマコをくれてやる気はない」
「あ、あなたにもくれてやらないからっ」
 顔を薔薇色に染めれば、リヴァイは凪いだ瞳で一瞥してきた。
「楽しみだね」と言い残し、フュルストはその場を去っていった。

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