01

時系列:第五章16以降

 早天の空。遥か上方はまだ夜の気配がはびこっている。フェンデル邸の正門前で、真琴は肩にかけたストールをより身体に巻きつけた。朝の刺すような寒気は、眠気の残る脳をすっきりもさせるが、少々刺激も強いと感じる。
 青銅の門扉には尖った霜が降りていた。つるりと冷たい霜を指で軽く撫でると、はらはらと氷が崩れていった。意味もなく真琴がこんなことをしたのは、暇をもてあましていたからだ。

「明日、早朝に迎えにいく」と、リヴァイからフェンデル邸に連絡が入ったのは突然だった。早馬で真琴の元に使用人がやってきたことで知ったのだ。だから急いで休暇届けを、自分の上司であるリヴァイに提出した。急なことだったので小言のひとつでも言われると思ったのだが、意外にもあっさりと容認されたのだった。

 約束の時間、三十分前からここでずっと待っている。リヴァイのことだから、とっくに来ていてもいいころなのにまだ現れない。足先が冷えてきたから屋敷で待っていよう。と真琴が引き返そうとしたときだった。
 近づいてくる蹄の音を振り返る。黒塗りの馬車が正門前で停車した。扉が開き、中から「入れ」というふうにリヴァイが手招きをしてきた。
 駆け寄り、真琴は屈んで窺う。
「どうしたの。その格好」

 眼を丸くして尋ねたのは、リヴァイが正装していたからだった。そして問いに答えたのは彼ではなく、その奥に座っているハンジだった。顔を突き出した彼女は普段着だ。
「おはよう、お嬢様。今日はつき合わせちゃうけど、よろしく頼むよ」
 とても馴れ馴れしかった。真琴にならその態度はいいが、マコに対してはどうなのだろうと思ってしまう。だからって気分が悪くなるものでもないのだけれど。
 しかしここは、よく知らないという振る舞いをしなければならないだろう。――ハンジのことを。

「審議所で一度お会いしましたわね」
「覚えててくれた? あのときリヴァイに、一発食らわそうとしてたお嬢様」
 と悪戯に笑う。
 思い出した真琴は、ばつが悪くてリヴァイをちらりと見た。彼は平然としており、早く乗れというふうに顔を振った。

「開けっ放しで寒いんだが」
「何で呼び出されたのか、理由を知らないんだけど……」
「中で話す。いいから乗れ」
「強引なんだからっ」
 反発心を見せつけるために、真琴は勢いよく座席に腰掛けた。馬車が大仰に横揺れする。
「すげぇな、地震かと思ったが。太ったんじゃねぇのか」
「わざとそうしたのよっ。普通に乗ったら揺れないんだからっ」
 なんて失礼なことを言う男だろう。真琴はリヴァイに膝を向けて反抗した。

 ハンジが加勢する。
「女性に太ったは禁句でしょう」
 と言ってから歯を見せ、
「それとも仲良いのを、これ見よがしに?」
「何が言いたい」
 低い声でリヴァイに訊かれたハンジは、にやけ顔で小指を立てる。間を置かずにリヴァイがその小指を握った。
「い、痛い! もげるって、リヴァイ!」
 捻られているだろうハンジは、痛みから逃げるように身体ごと捩る。
「悪ふざけばかりする小指は、なくても困らないと思うが」
「困るよっ。五本揃って手と呼ぶんだからっ」

 ハンジの目尻に光るものが見えた。真琴はリヴァイを指で突く。「ああ?」と眼つき悪く顔を向けてきた。人に当たらないでほしい、と思いながらも、
「やめてあげて。小指を失ったら不格好になっちゃうわ」
 助け舟を出してやり、
「それよりも、どういうことか説明してくれる?」

 どうしてリヴァイが正装をしていて、ハンジもいて、マコを誘ったのか。気になって落ち着かないではないか。

「馬上槍試合を兼ねた社交界に招待された。かったるいが」
「調査兵団に、資金援助をしてくれている有力者主催のものでね。出向かないわけにはいかないんだ」
 とハンジが補足した。

 窮屈そうにリヴァイは指で襟を引っ掛ける。本来ならそこにホワイトタイがあるはずだが付けていない。胸ポケットにリボンの端が垂れて見えるから、それがタイだろうと思った。

「まったく、嫌になる。エルヴィンが行けばいいものを」
「仕方ないよ。急用ができちゃったんだからさ」
「面倒を押しつけたんじゃねぇだろうな……」
 斜めに口端を歪ませたリヴァイにハンジは、「疑り深いな、あなたは……」と苦笑してみせた。
 両膝に手をおき、真琴は控えめに窺う。

「私は何で……?」
「女がいないと話にならん。正式な社交界だからな」
「いるじゃない」と真琴は目線でハンジを示す。
 私? とハンジは自分を指差し、
「だめだめっ。ドレスなんて着る気ないからっ」
 と笑う。では何しに来たのか尋ねれば彼女は、
「付き添い。だけど私もテイルコートを着る予定だ」
 と言った。

 ハンジは男装をするらしい。彼女は背が高いし顔立ちもくっきりしているので、おそらく似合うだろうなと真琴は思った。
 どうやら社交界に出席しなければならないらしい。真琴は自分を見降ろす。今日の服装は普通のワンピースだ。こんな姿では恥を掻いてしまう。

「何でもっと早く言ってくれないのよっ。これじゃ入り口で止められちゃうわっ」
「これからサロンに寄る。ハンジの服をどうにかしないといけないしな。マコもそこでドレスを新調すればいい」
「新調って簡単に言うけど……」

 言い淀み、真琴はハンドバッグを開ける。「何してる」とリヴァイが訊いてきたから、「お金持ってきたかなって……」と財布を覗き込んだ。
 期待していた小切手は入っていなかった。紙幣が数枚とコインのみ。ドレスなど買えるわけがない。
 どうしよう、一旦屋敷へ引き返してもらおうか。と真琴は財布の中身と睨めっこしていた。いらない、というふうにリヴァイが財布を伏せてくる。

「心配しなくていい」
「太っ腹だね、リヴァイっ。私の分も」
 ちゃっかり便乗しようとしたハンジの言葉を押しかぶせるように、
「てめぇで払え」
 とリヴァイは冷たく言い放った。ハンジが財布を確認する。
「レンタルあるよね……そのサロン」
 と肩を落とした。

 心配するなとリヴァイが言ったとき、真琴は断ろうと思った。高価なドレスを買ってもらうわけにはいかないと。
 だけれどハンジの言葉を聞いて、ここは甘えてしまおうとも思った。レンタルならばそれほど高くはないだろう、と。

 ウォールシーナにある小路の前で馬車はとまった。ここから先は道が狭いので馬車は入れない。通りはレンガ作りの高級店が軒を連ね、二階から上はアーチ型のバルコニーが見える。上階はアパートメントになっているのだろう。
 ヨーロピアン調の木製な扉は上半分にガラスが入っており、カーテンが引かれている。まだ早朝なのでどの店も閉まっているようだ。

 リヴァイは一軒の店の前で足をとめた。ここが目的のサロンのようだ。ショーウィンドウには純白のドレスが飾られている。だがほかの店と同様に、扉の内部にカーテンが引かれているからまだ開店前のようだ。
 真鍮のドアノックをリヴァイが二回打った。ややして扉が開き、瞼に濃いシャドウを入れた女が顔を出した。若く見えるが目許に少し皺が目立つ。真琴より二十以上歳が離れていそうに見えた。

「お待ちしておりました」
 女が言い、迎え入れる。
「遅れてすまない。こいつがなかなか起きてきやがらねぇから」
 リヴァイがハンジに睨みを利かせると、彼女は困り顔で肩を竦めた。
「何回も謝ったでしょう、悪いねって。しつこいよ、あなたも……」
 だからか、と真琴は思った。だからリヴァイは待ち合わせの時間に珍しく遅れたのだ。
 まぁまぁ、と女は宥める。
「充分間に合いますから大丈夫ですよ」

 こじんまりとしている店だった。外装や奥に見えるインテリアからして、高級感がひしひしと漂う。だというのに動じず、二人は入っていってしまった。女の言い方からして前もって予約をしていたのだろうが、よくぞこんな店を知っていたのものだ。
 扉口で真琴が躊躇していたら、女が眼で笑った。「どうぞ」と手で店内を指す。小さく頭を下げて真琴も二人に続いた。
 アンティーク調のドレッサーやカウチソファ。ほかにも、乙女心をくすぐる調度品や小物が目につくサロンルームだ。

「テイルコートをご希望なのは、お客様かしら?」
 女はきょろきょろしているハンジに首を傾けてみせた。真っ先に声をかけたのが真琴ではなくハンジだったのは、彼女がズボンを着用していたからかもしれない。
 堂々とした様子で入っていったと思ったが、そうでもないようだ。ハンジは多少緊張気味に手を挙げた。

「私です。……レンタルってありますか? 男物に高い金を出すのはさすがにちょっとね……」
 苦笑いで髪を撫でつけるハンジ。女は優雅に頷く。
「ご用意してますよ。サイズを見てみましょう」
 こちらへ、と女は奥へと続くカーテンを引く。ハンガーに掛かった数々のドレスが見えた。フィッティングルームらしき個室も見える。

 百貨店などにあるショップの狭い個室ではなく、充分な広さが取られているようだ。試着をするときのドキドキ感を真琴は回想していた。
 可愛い洋服だな、と思って試着させてもらった服がきつかった場合、心身を襲う打撃は大きい。サイズは合っていても、鏡で軽く当てたときと実際着てみたときのイメージの差に、ガッカリすることもある。ゆえに試着室とは様々な感情を呼び起こす空間だと、真琴は思っているのだ。

 女に誘導されてハンジは奥へと入っていった。カーテンも閉められ中の様子は窺えない。いまごろスーツを選んでいることだろう。

 広くないサロンルームには甘酸っぱい香りが漂っていた。女が入れてくれた、黄みを帯びた茶から匂ってくる。カウチソファの前にあるローテーブルに置かれており、そこではリヴァイがすでに寛いでいた。

「座ったらいいだろ」

 リヴァイがそう言うから、真琴は隣に腰掛けた。できるだけ浅く腰掛けたのは、リヴァイが背凭れに腕を伸ばしているからだった。
 ときおり電車でもこういう人間を見かけるが、迷惑このうえない。大抵がガラの悪い男だったりして、関わらないほうがいいと分かっているが、視線だけは注意をしたいような心情の視線を、周りの人間から浴びせられているというのに、彼らは気づいていないような構えで知らんぷりをするのだ。
 こういうとき真琴は思う。どうして他人に気を使えないのだろうかと。そして現在もだ。腕を伸ばされていたら真琴は背を預けることもできないし、気になって寛げないではないか。

 これがたいして何とも思っていない異性だったならば、不快な態度が表に出てしまっていただろう。相手がリヴァイだから妙に緊張するし意識してしまう。言ってしまえば、ガラの悪い男たちよりもたちが悪いと思うのだった。
 しかし逆を言えば。と真琴が横目で見ていると、
「あ?」
 とリヴァイが若干眉を寄せた。

 真琴は心の内を読まれないよう、にこりと笑ってみせる。逆を言えば、真琴に気を許しているから、リヴァイはこういう素振りをするのだろうか。
 ガラス製のティーカップを持ったところで、リヴァイが吐き捨ててきた。
「気持ち悪いな」

 作った笑顔を引き攣らせ、真琴は茶を含んだ。色だけ見れば出がらしの緑茶だが、味は香りに違わず甘酸っぱい。何かのハーブティーなのだろうか。だとすればどんな効能があるのか気になるところだが、女でないと茶葉の正体は分からないだろうし、傍らで湯気を逃さぬような持ち方をし、茶を飲むリヴァイに訊いてみたところで判然としないだろう。――などと考えながら真琴は彼を見る。

 今日のリヴァイは以前、社交界で会ったときのような髪型ではなかった。オールバックもピシッと決まっていて好きだったのだけれど。
「髪、後ろに流さないの?」
 リヴァイは視線だけを寄越してきた。
「こういう機会ってそうそうないし、髪型変えるだけで気分も引き締まると思うわ」
 ちょっと早口になった。何を言っているのだろう。勧めているみたいで照れくさい。動揺を隠そうとさらに早口になる。
「べ、べつにどんな髪型だっていいんだけど……、七三でも丸刈りでも」

 語尾に被せるように、吹き出す音と激しい咳の音。うろうろしていた瞳をリヴァイに向けると、彼は口を覆って咽せていた。
「やだ、大丈夫っ?」
 そばに寄って背中をさすってやる。リヴァイは飲みかけの茶をテーブルに戻した。苦しそうに喉を詰まらせ眼を眇める。
「変なこと言うからだろ。七三、丸刈り、あり得ないだろうが」
「丸刈りは……なかったわね」

 真琴は苦笑した。そしてコニーを思い浮かべてしまったことを激しく後悔するのは数分後。背丈がそんなに変わらないリヴァイとコニー。髪型だけ交換した映像が頭の中で再生される。

「……そうでもないかもっ」
 堪えながらも真琴が笑い出したから、リヴァイはすこぶる機嫌を崩す。
「お前が丸刈りになってみるか、ああ?」
 と物騒な手を伸ばしてくる。
 こめかみをぐりぐりされたら堪らない。すっくと立ち上がり、真琴はリヴァイから離れるがまだ笑いは収まらない。
「私は辞退しておくわ」
「遠慮することはない。綺麗に削いでやる」
 膝に手を突き、リヴァイは立ち上がろうとする。真琴は両手を突き出して首を振った。
「分かったから、私が悪かったわ」

 恐い顔をしてくるが、リヴァイが本気でないことぐらいお見通しだ。真琴は軽く応対し、ドレッサー脇にあるワゴンから整髪料を手に取った。
 はい、とリヴァイに手渡して腰掛け直す。
「七三か?」と言ってきたから、真琴はまた吹き出しそうになった。
「それは忘れて」

 横目で真琴を一瞥し、リヴァイは整髪料の蓋を取る。クリームを両手に伸ばして、揉み込むように前髪を掻き上げた。
 真琴は息を止め、その様子を密かに観察していた。男の人が髪を掻き上げる仕草は魅力的だと思う。

 長い指が、漆黒の髪を梳く。関節がやや目立つのは、厳しい訓練の果てにできた形状なのだろうと思った。伏せ気味の目許には睫毛の影が落ちている。通った鼻筋の下にある薄い唇に視線を落とした。その口許からはいつも爽やかな香りがするのと、見かけよりしなやかなことを真琴は知っている。
 無意識に自分の唇を指で弄っていた。髪をセットし終えたリヴァイが紙で手を拭いながら、訝しげに真琴を見る。

「お前の意識はどこへいってる」
 え? と眼を丸くし、真琴は我に返った。けれど眼に入ってきたリヴァイの姿を見て、言葉を失ってしまう。
 真琴の顔が火照っていく。だってあまりにも素敵だったものだから。なのに失敗したと思った。勧めるんじゃなかった。

「やっぱり、ツーブロックのままがいいと思うわ……」
「ああしろ、こうしろとお前は。何だっていうんだ」
 リヴァイは怒らなかったが、ぼやいて髪を崩そうとした。――けれど。
「無理だ。もう固まってる」
 ガチガチにホールドされているだろうことは、普段より倍の艶加減を見れば明らかだった。
「ご、ごめんなさい、いいの」

 無理に崩そうとしたから、少し逆立ってしまっている。真琴はリヴァイの頭に手を伸ばし、思った通り硬い髪を撫でつけた。
 上目のリヴァイと眼が合わさる。取れ立て苺の甘酸っぱい味が口内に満ちていく。ハーブティーの後味だろうか。
 不自然に眼を逸らした真琴は、するともなくまだリヴァイの髪を撫で続ける。

「もういい」
 リヴァイが真琴の片手を取った。熱い刺激が走り、真琴は鋭く払う。リヴァイは僅かに眼を見張っている。払い方が失礼だったかもしれなかった。
「違うの、あのっ……電気が、ビリって、それでっ」
「落ち着け。俺は気にしてない」
 寛大にリヴァイはそう言った。

 真琴は顔を覆って溜息をついた。リヴァイに心を乱されてしまった。
 いつもより数倍精悍になってしまったリヴァイに、社交界の女たちが群がってきたらどうしよう。見慣れている真琴でさえ、その様相に惑ってしまうのだ。世間離れした貴族の娘たちが彼を見たらと思うと、いても立ってもいられないのだった。

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