巡り巡って

 深夜を回ろうとしている。
 高層マンションの廊下を、気怠げなヒールの音が反響していた。その音の持ち主は帰宅しようとしている彼女で、全身をまとう雰囲気も、気怠げなそれのように見えた。
 スチール製のドアの前で彼女はとまった。目線の高さに、小さな緑のランプが点滅する四角い枠。そこに人差し指を軽く当てると、ぷしゅっと軽快な音を立てて横滑りのドアが開いた。
 真っ暗な玄関。壁に手を突き、彼女は足を振って赤いヒールを脱ぎ捨てた。

「電気」
 短くそう言うと、玄関のランプが自動で点いた。のろのろと彼女が奥のリビングへ歩いていくと、玄関のランプは自動で消えた。
 不思議な光景だった。ランプは彼女のあとを追っていくように点いては消える。リビング前のドアは、そこに立つと横に滑って開いた。
 キッチンで蛇口のレバーを上げる。引き上げすぎたせいで勢いよく水が出てしまったようだ。コップから暴れた水は彼女の手を濡らした。
 喉を鳴らして飲んで、雑にコップを流しに置く。リビングには一つ部屋があって、彼女はやはり気怠げにそこへ向かう。自室のドアもやはり自動で開いた。

 彼女が部屋に入ると、背後でドアが静かに閉まり、同時にリビングのランプも消えたようだった。
 部屋の中は暗かった。カーテンが掛かっていない窓からは、夜景が見える。高層ビルが立ち並ぶ風景で、もう深夜だというのに様様な光で明るく感じた。
 彼女はうつ伏せでベッドに沈んだ。シーツをこするようにして顔を横に向け、力のない瞳で窓を眺める。ぽつりと、孤独感漂う独り言が聴こえた。
「また……フラれちゃった」

 彼女が恋人とつき合った期間は一ヶ月。休日によく寄るカフェでその人と出会った。告白してきたのは男のほう。優しそうな人だったので、彼女はつき合うことを了承した。――今度こそ本気の恋ができると期待して。
 だが彼を好きになることは、やはりなかった。彼は言った。
「君のことは好きだよ。でも君といると僕は虚しくなるんだ。誰か別の人と比べられているようで、虚しくなるんだ」
 別れの言葉は理解できなかった。彼と誰を比べているというのだろうか、と。そんな人は彼女にはいない。産まれてこの方、人を愛したことなどないのだから。

 ※ ※ ※

 E.H七十。地球は完全な平和を取り戻し、それと合わせて西暦は廃止された。科学の進歩により生活は飛躍的に向上し、何をするにも便利になった。

「遅刻、遅刻!」
 軽快な音とともに扉が開く。仕事帰りにスーツのままで寝てしまった。真琴の髪の毛はボサボサだ。
 忙しなく洗面所からブラシを取った真琴は、髪をとかしながら再びリビングに戻った。
「仕事遅刻しちゃうよ〜」
 ちょっと泣きそうな気分で言い、
「朝ごはん!」
 と、どこともなしに声を上げた。ソファに座って「テレビ!」と命令すると、ただの壁だったところにスクリーンが現れた。

「少し皺がついちゃったけど、時間ないしこのままでいっか」
 自分の格好を見降ろし、真琴は溜息をついた。
 そのとき、機械音をわずかに鳴らし、一台のロボットが滑ってきた。そのアームにはお盆がのっており、温かそうな良い匂いを放つ食事があった。
「ありがとう、ロボ」
 お礼を言い、真琴がお盆を受け取る。ロボと呼ばれたロボットは「ドウイタシマシテ」と棒読みで返事をし、キッチンのほうへ滑っていった。

 パンを口に押し込みながら、真琴は天気予報を見て顔を崩した。
「え〜、今日も雪!?」
 科学は飛躍的に進歩したとはいえ、自然には勝てない。雪が降ると交通が麻痺するのは、いつの時代も常だった。
 ただでさえ遅刻しそうだというのに。雪が降っているとあらば、余裕を持って出勤しなければ間に合わないではないか。
 食事を半分以上も残し、真琴は立ち上がる。
「ロボ、ごめんっ。片付けておいて!」と早口で謝ると、「イッテラッシャイマセ」と棒読みで返してくれた。玄関脇でコートを羽織り、ロングブーツを履いた真琴はマンションを出た。

 積もる雪に、ときたま足を滑らせながら真琴は走った。口から白い息を出し、バッグを振り乱し、一本に縛った髪は猫の尻尾のように揺れる。向かう先はステーションだ。
 真琴と同様に遅刻しそうなのか、幾人ものスーツ姿の人間が、走りながらステーションの入り口をくぐっていく。それに負けじと競争するかのように真琴も追う。そうして階段を駆け昇っているときだった。

 それなりの勢いで男と衝突した。夢中で走っていた真琴は悲鳴を上げて倒れる。両手両膝を突いた場所が踊り場でよかったと、散乱したバッグの中身を見ながら思った。
「ごめんなさいっ、前をよく見ていませんでしたっ」
 頭は上げず、視野に入る革靴に向かって真琴は謝った。散らばる書類や化粧ポーチを掻き集める。
 筋張った手が真琴へと伸びてきた。その手が持っているものは文庫本サイズのIDカード。

「いや、俺もよそ見をしていた」
「ありがとうございますっ」
 薄いIDカードを真琴は受け取った。これは大事なものだ。
 アースではIDカードで全人類を統治している。すべての個人情報が、この小型な機械に納められているのだ。免許証、電話、クレジットカード。その他もろもろ、生活に必須なことがこのIDカードですべて賄えてしまう。
 拾い終わって起き上がろうとした真琴に、また手が差し出された。
「怪我はなかったか」

 低い声がしたから、「大丈夫です」と下を見ながら愛想で笑う。その手に触れたときだった。静電気に似た刺激が走り、真琴は眼を見開いて瞬時に手を引っ込めた。そうして驚愕のままに、顔を上げて初めて男を見た。
 ツーブロックの男だった。少し屈んだ格好で、その男もなぜか眼を見開いていた。しばしのあと、男は口を開けて何か喋ろうとしたのだろう。しかし言葉が出てこないようだった。
 真琴も薄く唇を開けたまま口が利けないでいた。
 驚愕したのは一瞬ビジョンが見えたからだ。コマ送りが高速で脳裏を走っていった。早すぎて何の映像なのかまでは見えなかったが。

「何か、した?」
 ようやく出た声は、やや詰まり気味だった。男は瞬きすることで我を取り戻したようだ。
「いや……」
「何か、見た?」
 男は黙ってしまった。怪訝そうに眉を寄せて瞳を彷徨わせる。心当たりはありそうに思えた。
 胸がざわつく。漠然とした予感を感じながらも、真琴は自分を落ち着かせた。のんびりと思案している時間はない。会社に遅れてしまう。

 再び立ち上がろうとしたとき、またも男は手を差し出してきてくれた。大きな手を、息を詰めて真琴は見つめた。また変なビジョンが横切っていくのではないだろうか。そう思って一瞬躊躇したが、おそるおそる手に触れてみた。
 温かい手に安心感を覚えた。今度は静電気が起きることはなかった。

「おい」
 声をかけられて瞳を上げた。男は迷惑そうに顔を顰めている。
「いつまで握ってる」
 言われて気づいた。立ち上がってからも、ずっと男の手を握り続けていたことに。
「ご、ごめんなさいっ」と真琴があたふたすると、「だから手を離せ」と男はもっと顔を顰めてきた。
 男はそう言うが、接着剤でくっ付いてしまったかのように、真琴の手が離れないのだ。
「何か……くっ付いちゃったみたい」
 はぁ? と言いたげに男は思い切り両眉を寄せ、
「それが冗談じゃなく、本気で言ってんなら恐い女だ」
 と不審さをあらわに男は手を払う。真琴の手は簡単に離れた。
「あれ……? 可怪しいな」
 自分の手を見て真琴は首を捻った。男はますます不審げに見てくる。
「恐ぇな。新手のストーカーじゃねぇだろうな」
「ち、違いますよっ。あなたとは初対面ですっ」
 真琴は慌てて否定した。ストーカー呼ばわりされるとは心外だ。しかし何だろう。触れた手がひどく懐かしく思えたのだが。

「怪我がないのなら俺はいく」
 男はそう言い、真琴に背を向けて階段を昇っていく。真琴もあとに続くと、男が警戒心を剥き出しに振り返った。
「何でついてくる……」
「失礼ねっ。私もこっちのホームなのよっ」
 完全に怪しい女と思われているようだ。そんなんじゃないのに、と真琴は唇を尖らせる。
 すると男はまじまじと真琴の表情を見てきた。人様の顔をじっと見るなんて失礼だ、と真琴は思った。
「何かっ?」
「いや」と言って前に直った男は、首を捻りながら階段を昇っていった。
 真琴はポーチから鏡を取り出して顔の前で翳した。ジャムでも口についているのかと思ったからだ。
「何も付いてないじゃない。いつもの私だし」
 とやや不満に真琴は独りごちた。見慣れた顔は鏡の中で唇を尖らせており、また癖が出てしまったと、苦い汁を呑んだ顔に変貌していった。

 リニアモーターカーに乗った真琴は顔を引き攣らせていた。自分の隣に座る男が、さっきの人だなんて、と。これではより疑われてしまうではないか。
 案の定、男は狭い席なのにもかかわらず、真琴から距離をおこうとしていた。

「世の中ぶっそうだ……」
 聞き捨てならない。
「あのね、だから違うからっ。ストーカーじゃないからっ」
 男は無視し、肘掛けに頬杖を突いてそっぽを向いた。

 真琴もそっぽを向いて窓を見た。
 高速で走るリニアモーターカーは、景色などまともに見れたものじゃない。横に流れる残像の線は気分を悪くする。
 軽く目眩を覚えた。乗り物酔いの前兆だから何か口にしたほうがいいかもしれない。
 鞄から携帯ポットを取り出し、真琴はロボが入れてくれた野菜ジュースを飲んだ。紫野菜をベースに、ブドウが多目にブレンドされており、気分がすっきりした。
 僅かな通勤時間内に仕事を少しでも進めようと、あちこちからPCのキーボードを叩く音がする。IDカードでフェイスチャットしている者もいるようだ。聞こえてくる内容からして、取引先との交渉をしているらしかった。
 男が話しかけてきたのは、そんなおりだった。

「……何を見た?」
 自分に話しかけられたものだと、気づくのに遅れた真琴は反応が鈍った。男が頬杖をといてこちらを見てくる。なんて能面な顔だ、と真琴は思った。
「それって、さっき手が触れたときのこと?」
 と訊くと男はただ頷いてみせた。真琴はつるつるな感触のポットを、触るともなく撫でる。
「映像みたいだったけど……よく分からなかったわ」と言い、「あなたも見たの?」と尋ねた。
「一気にたくさんの映画を、見せられた気分だった」
「うん、そんな感じ」
 真琴は微笑って、
「何か」

 何か初めて会った気がしませんね、と言いかけて口を閉じた。こんなことを言っては、最終的に警察へ突き出されてしまうかもしれないと思ったからだった。しかし何となく身内がさわぐ。これを最後にしていいのかと。この男とこのまま別れていいのかと。
 巡り逢いなど信じていない。けれど、と思っていたら車内アナウンスが鳴った。次の駅で真琴は降りねばならない。

「私、次だから……」
「そうか」と男は短く言った。吐息混じりの声に、どうしてか寂しさが募っていった。名前も知らない男と、明日また会えるとは限らないではないか。そんな危機感が満ちてくる。
 気持ち悪がられるかもしれないと、危惧するよりも早く真琴の唇が動いていた。
「あ、ID……、交換しない?」
 請えば男はわずかに眼を丸くしてみせた。初対面の女に連絡先を教えてと言われ、驚いているのか、それとも気味悪く思われたか、もしかすると両方だろうか。
 男は言葉を失っているようだから、真琴は言わなければよかったとひどく後悔した。憂惧し俯いていたら、男がビジネスバッグを膝に置いたのが見えた。中から取り出したものに、真琴の胸が跳ねる。

「早くしろ、もうすぐ駅に着くんだろ」
「う、うんっ」
 男の人と連絡先を交換し合う。そんなささいなことで胸がおどるとは思わなかった。真琴はIDカードを男のそれと向かい合わせた。電波で送信された互いの情報が画面に表示される。真琴は男の画像脇にあるローマ字を読んだ。
「リヴァイ……さん」
 すると男も画面を見ながら、
「真琴か」
 と小さく言ったのが聴こえた。

 ※ ※ ※

 連続して雪が降った。あまり人通りの少ない道は、雪がてんこもりで歩きにくい。オフィス街だと熱心に雪かきする人が多く、加えて通行人によって自然に雪が溶けていくようで、歩くのに不便は感じなかった。そんな日の午前中だった。

「あぁ……うぅ……」
 真っ白な空間に二台のカプセル型ベッド。そんな中でカプセルから出てきた老人が、虚ろな目で呻いていた。
 ふらふらしている老人を、白衣を着た男が二人掛かりで誘導する。自動ドアから出ていった。
 その様子を、上方に設けられたガラス張りの窓から、真琴は見降ろしていた。

「また自我崩壊か」
 冷たい口調でそう言ったのは隣にいるリコだ。真琴の同僚で彼女も白衣を着ている。
「かわいそうね……」
 電子カルテを胸に抱いて真琴は答えた。でも、とリコは付け加える。
「余命一ヶ月なんだし、いいんじゃない」
「もうちょっと親身になれないの。薄情すぎやしない?」
 不快な気分になったが、それを表に出さないように返した。しかし言葉の意味で何となく通じたと思うのに、リコは平然とした様子だ。
「こうなるかもしれないことは了承済みじゃない。ちゃんとサインももらってる」
 電子カルテを指でタッチしながらリコは言った。
「了承とかそういうことじゃなくて……」
 眼を伏せて首を横に振った。正直血も涙もない人だわ、と真琴は思った。

 老人は不治の病にかかり、余命を宣告されたのは三ヶ月前のこと。わずかな余生の間に、昔の初恋相手に会いたいと願って、真琴たちの元へやってきた。
 ここは脳科学研究所。真琴たちは研究員として働いている。いま老人が出てきたカプセル型ベッドはただのベッドではない。バーチャル空間を体験するものだ。しかもただ単に仮想体験をするだけのものじゃない。

 ――前世の記憶を呼び起こすものなのだ。

 特殊な注射をしたあとでカプセルに入り、外部のモニターから脳を遠隔操作で刺激してやる。そうすると過去や前世が思い起こされ、懐かしい人ともう一度会えるというカラクリだ。
 しかしこれが中々難しい。被験者の思いが弱かったりすると、どうやら失敗の確率が上がるようなのだ。失敗すると、覚醒したあとで自我崩壊を起こしたり、過去に捕らわれて意識不明になったりと、色々と問題がある。なのでまだ試作段階であり、実用化するには相当な調整期間が必要なのだ。

 研究所内にあるカフェテリアへの廊下を歩きながら、リコが話しかけてきた。さっきの続きのようだ。
「大体、昔の女に会いたいとかって、奥さんに申し訳ないと思わないのかな」
「死にゆく人を責めたって仕方ないじゃない」
「しかも初恋の女だ、っていったってさ。結局バーチャルは失敗したじゃない。そんなに思い入れもなかったってことでしょ」

 いつもながらリコの手厳しさというか、無情さというか、とにかく溜息がつきたくなる。老人に何か恨みでもあるのかと思ってしまうほどだ。でもそんなのないことは知っている。これが彼女らしさなのだ。
「思い入れが成功率に影響してるかどうかは、まだ不透明でしょ。人の胸の内なんて計れないんだから」
「私はかなりの信憑性だと思ってるけど」
「そうかしら。といっても、成功例自体が少ないんじゃ比べようがないわ」

 いままでに一万人の被験者がバーチャルを体験した。その中で前世の記憶を思い出せた者は、僅かに〇・一パーセント。約十人だ。残りの人たちは重度の障害を代償として得た。
 悪魔の研究にも思える。だというのに、真琴が自らこの研究所への就職を決めたのには、理由があった。
 たまに無性なほど、知りもしない誰かを恋しく思うときがあるのだ。人物像すら浮かばない。なのにひどく魂が恋しがるのだ。――あの人に会いたいと。
 それが前世の記憶なのかどうかは分からない。けれどそのことが、真琴の恋愛観念に障害をもたらしていることは自覚していた。

 カフェテリアに着くと、給仕ロボットが注文を取りにきた。
「私、アボカドサンド。真琴は?」とリコに訊かれて、「ポテトサラダサンドをお願い」と真琴はロボットに向かって注文した。
 給仕ロボットが去っていくと、リコが頬杖を突いた。にやりと笑う。
「このごろさ、いきいきしてるよね、真琴」
「そうかしら? いつも通りだと思うけど」
「絶対違うって。何か……恋してる、って感じ?」
 と疑問系でリコは首を傾けてみせた。
 真琴は飲んでいた水を吹き出しそうになった。口許を押さえて、
「やだ、なに言ってるのよっ」
 と顔を赤くした。そんな真琴を見て、リコはさらに探るような笑みをする。

「彼氏でもできた?」
「い、いないわよっ」
「誤魔化してる」
「誤魔化してないって、ほんとよ」
 落ち着かせるために、真琴は息を吐いてから答える。少し視線を彷徨わせ、
「いいな、って思ってる人はいるけど……」
「えー。万年鉄の女にも、ついに春が訪れたんだ」
「万年鉄の女ってなにっ」
 と真琴は頬を膨らませて、ちょっと怒ってみせた。リコは椅子に凭れて腕を組んだ。
「だって。男に本気になれない、っていつも言ってじゃない」
「だからって、そんな血が通ってないみたいな言い方、やめてほしいわ」
「ジョークに決まってるでしょ。――で、ほんとのところどうなの?」
 真琴はコップの縁をなぞる。白状するのが些か恥ずかしい。
「素敵だな、とは思ってる。でも……これが恋かは分からないの」
「それは人を好きになったことがないからだよ。気持ちを知らないだけで、素敵とかって思うことが、もう恋なんだってば」
 そうなのだろうか、と自問していると給仕ロボットがやってきた。

「『アボカドサンド』ト『ポテトサラダサンド』デス。オマタセイタシマシタ」
「ありがとう」と真琴がアームから受け取ると、「ゴユックリドウゾ」と棒読みで去っていった。

「一個ずつ交換しない?」
 提案してきたリコは、真琴の承諾もなしにサラダサンドを取って口に運ぶ。
「で、どう思うの?」
 真琴は付け合わせのポテトをフォークで刺した。しかしてそれがポテトだと、さてこそ認識しているかというとそうでもない。きつね色だから視覚がポテトと判断しただけであり、思考はいまここにはないのだ。
「少し……色が似てるのよね……」
「それって、記憶の君に?」
 真琴はゆっくりと頷いた。

 リコの言う『記憶の君』とは、人物像すら浮かばない人のことだ。『色が似てる』とは文字通りで、感じるオーラの暖かさが極めて近く感じられることを言った。
 サラダサンドを食べたリコは、アボカドサンドを頬張った。口端にマヨネーズがついているのには気づかないようだ。

「この研究所に来たのも、それが目的だったっけ」
「うん。……でも」
「おすすめしないな。私はやだよ、真琴が自我崩壊したら」
 リコは真面目な面容で言った。真琴はその真剣さが素直に嬉しいと思った。
「私も考えてないから大丈夫よ。いまの段階で実験するには危険すぎるもの」
「分かってるならいいんだけど」
 そう言ってリコは柔らかく笑った。

 雪が溶けて、びしゃびしゃになった大通りを歩いていた。空は藍色の雲が広がっている。いまは降っていないが、明日も雪かもしれないと思った。
 バッグを大振りに揺らしながら、真琴はネオンに輝く街を歩く。心の中では昼、リコと話したことを思い起こしていた。
 バーチャル体験をする時期が、やってきたのではないかと思っていた。実のところやはり恐い。けれど隠された真実を知らなければ一歩も進めないと、真琴は密かに思っている。そうしないと、掴みかけた光を逃してしまう、と。

 LEDが光る看板の下は地下だった。階段を降りて板チョコみたいなドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
 黒服の店員が声をかけてきたが、真琴は控えめに頭を下げただけで、ほの暗い店内を見渡した。真琴に気づいたリヴァイが、二人用の丸テーブルから手を挙げた。
 腰よりも高い丸椅子の、足掛けに踵をのせ、
「ごめんね、研究が押してて……」
「構わない」

 待ち合わせの時間を十分遅れた真琴。だがリヴァイは咎めもせず、自分の前に早く座るよう顎で示してみせた。
 十分程度の遅刻。道中走っていれば充分間に合っただろうに。でも考え事をしながら歩きたかったのだ。冷たい空気の中でなら頭も冴えるだろうと。
「何を飲む?」
 先に飲んでいたリヴァイが、真琴にメニューを差し出してきた。受け取り、
「グラスワインにするわ」
 と言うと、リヴァイは店員に向かって手を挙げた。真琴に代わって注文をしてくれるようだ。

 いまどき珍しい店だった。最近は人の手を必要とするような飲食店は少ない。ほとんどの店が給仕ロボットや勝手方ロボットを使う。
 だから手料理や、人との触れ合いを感じられるこのバーは、とても貴重だった。リヴァイはここを気に入っており、真琴と会うときはいつもここを指定した。
 ストーカーと間違われた出会いから三ヶ月。こうして仕事帰りに、リヴァイと食事をすることが増えた。どちらからともなく誘い合う。休日にショッピングを、互いにつき合うこともあった。だが恋人ではなく友人――そんな関係だった。

 ぴりっと辛いソーセージを食べた。舌がヒリヒリする。
「今夜のはいつにもまして辛いわ」
「そうか? いつもと変わらない」
 能面な顔で言い、リヴァイもソーセージを噛んだ。ぱりっと音が聞こえそうな感じで、ついでに肉汁が顔面に飛んできた。
「ちょっとっ、飛んだよっ」
「俺のせいじゃない。こいつの威勢がよすぎたからだ」
 意味不明な言い訳をして、それでもリヴァイはハンカチを手に持つ。腕を伸ばして真琴の顔を拭ってくれた。
 だがやり方がぞんざいなので、
「雑なんだからっ。皮膚が伸びちゃう」
「仕方ないだろ。こすんねぇと――」
 リヴァイが途中で言葉を切った。眼を見張っている。同じく真琴も。

 ぎごちない空気が流れる。沈黙が落ちて、目の前の料理に二人して集中した――何かを振り払うように。
 こんなことはもう何回もあった。言葉と行為がひどく懐かしく、されども深く胸を抉るのだ。言うなれば魂が泣いている、そんな表現が当てはまるかもしれない。
 リヴァイも真琴と同じように感じているかは分からない。聞いたことがないから。しかし態度を見れば、近いものを覚えているのだろうなと、何となく予感させた。

「これ、美味しいよ。いつもは塩辛いのに、今日は丁度いいみたい」
 ほうれん草のソテーをすすめると、リヴァイはフォークを伸ばしてきた。
「そのようだ。いつもは食えたもんじゃねぇからな」

 まだ二人の空気は可怪しかった。こうなると雰囲気を取り戻すのに、多少時間が必要なのも常だった。
 リコに言った『いいなと思っている人』。それはリヴァイだった。彼といると、運命を信じたく思ってしまう。けれどどこかで一歩引いてしまうのは、やはりたぶん『記憶の君』が邪魔しているからだろうと、真琴は思うのだった。

 その形すらない記憶のせいで、リヴァイと恋仲になれない。だから不要な記憶と決別するために、バーチャルを試すときがきたのではないかと、そう思っている。
 思い入れが成功率に影響するのが本当ならば、自我崩壊を起こさない自信はある。だってこんなにも過去に捕らわれているのだから。

「ビール、おかわりしたら?」
 泡だけがこびりついた空のグラスを見て真琴は言った。「そうだな」と、まだ暗く返事をしたリヴァイが手を挙げる。
 すぐにやってきた店員に、
「ウィスキー、シングルをロックで」
 とリヴァイが注文した。
「ウィスキーなんてよく飲めるわね。私、苦くてダメだわ」
「昔は俺もビールばかりだったが。お前も年を重ねれば、味の良さが分かるようになる」
「やだ、まるで自分がおじさんみたいな言い方」
 可笑しくて笑うと、リヴァイはやっと安心したような笑みを、その能面に薄く宿してくれた。
「三十すぎればそうだろ」
「そんなことない。男は三十からが魅力的だって言うじゃない」
 微笑って言うと、リヴァイがまっすぐ見つめてきた。薄暗い店内で、群青色の瞳はゆらゆらと艶気を帯びて煌めく。
 テーブルにのせている真琴の手に、なぞるようにしてリヴァイは手を重ねてきた。

「お前から見て俺は――」
 言いかけて、「いや」と眼を伏せた。手が離れていった。
『魅力的か』と、聞きたかったのかもしれない。それはすなわち、何かの見返りを求めての発言だろう。けれども最後まで言わなかったのは、やはりリヴァイも身内に思うところがあるのだろうと、真琴は思った。
 また沈黙が落ちる、しばらくしてからリヴァイが口を開いた。

「あれから見ることはあるか。……ビジョンを」
 問われて真琴は視線を流した。
「あなたに触れると、たまに見えるみたい……」
「物心ついたころから、俺の中を何かが支配してる感覚があった。ひどく恋しい、だが偶像のようなものだが」
 真琴は息を呑んだ。それは同じ感覚なのでは、と。
「そのせいかは分からないが。女とまともにつき合えた試しがない」
 とリヴァイはウィスキーを煽る。まるで酒の力を借りないと話せないとばかりに。

「本気で好きになったこともない。だがいつも流れで女とつき合って、フラれるのはいつも俺のほうだ」
 真琴と同じだった。神妙な気分で続きを聞く。リヴァイはまた酒を煽った。
「だからというわけじゃないが。お前を求めても」
「私もそう」
 真琴はリヴァイの言葉を遮った。自分のほかに苦しんでいる人間がいる。その人が彼ならばなおさら、寂しさや悲しさや偲びが入り乱れた感情が昂ぶっていく。
「私もそうなの。あなたを求めても、フラれるんじゃないかって、捨てられるんじゃないかって……」
 真琴は俯いた。
「それが恐いの……」
 リヴァイが憂うような溜息をついた。手を伸ばして真琴の頬に優しく触れてくる。
「私をがんじがらめにする記憶と……決別したいの……」
「俺も……そう思っていた」

 闇に呑まれた空のもと。真琴とリヴァイは脳科学研究所を訪れていた。セキュリティーの高いドアは、研究員である真琴のIDカードがあれば、簡単に開いて二人を迎えた。
 研究室には二台のカプセルベッド。そこでリヴァイには待ってもらい、真琴はモニター室で装置の準備を始めた。真っ暗だった研究室が白い明かりで満たされる。カプセルベッドの起動音が低く唸りを上げ始めた。

 注射器を持って真琴は研究室に戻った。リヴァイと対面し、
「リスクはさっき説明した通りよ。……本当にいいのね?」
「俺がやらないと言っても、どのみちお前はやるんだろ。いいだろう、死なばもろともだ」
 リヴァイが緊張を感じさせない顔つきで、そう言ってくれた。
「そうね。自我崩壊を起こしたら、死んだも同然だものね……」
 決心したくせに、真琴の中にはまだ躊躇がかすかにある。不安で恐い。
 リヴァイが肩を叩いてきた。
「そうなるときは俺も同じだから安心しろ」
 だが、とリヴァイは微笑んだ。
「きっと大丈夫だ。これは俺の勘だが」
 そう言ってくれると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。真琴はやんわりと頷いて、そうしてリヴァイと自分に注射を刺した。

 瞬く間に眠気が襲ってきて、真琴はカプセルベッドに身を投げた。機械音をさせてベッドの蓋が閉まった。
 少し息苦しさを感じる密室で、真琴の意識はどこかへ飛んでいったようだ。眼の奥で見たものは、それはもう残酷な世界だった。

 そのような中で、ひとさじの幸せを感じている者があった。それは紛うことなき前世の真琴。幸せに思う相手はリヴァイにそっくりな人だった。想いの強さは二人とも一緒。しかし幸せは結局ひとさじで終わり、二人が結ばれることはなかった。――残酷な世界が成せた、ありきたりな不幸だった。

 カプセルの蓋が自動で開いた。前世の旅行が終わったからだった。
 傍らではリヴァイも半身を起こしていた。真琴と同様にただ呆然としているようだ。

「リヴァイ……」
 発した声は弱々しかったが、真琴はしっかりとした意識があるようだった。呼ばれたリヴァイがゆっくりと振り返った。
「お前だったのか。……俺の」
 リヴァイは言葉に詰まったように見えた。わずかに唇が震えているようだ。感極まっているようにも思える。

「リヴァイ……」
 もう一度発した真琴の声は涙で掠れていた。ゆらりと起き上がって、カプセルベッドから降りる。
 真琴のほうに身体を向けて、リヴァイが両腕を広げた。おいで、と言うように軽く振ってみせる。
 まだ注射が効いている怠い身体で、真琴は懸命に駆け寄った。リヴァイのベッド脇で躓き、次の瞬間には飛び込むように彼の胸に収まっていた。

 強く抱擁しあう。それでも足りないとばかりに、もっと強く抱きしめ合った。
 ――ああ、会いたかった。あなたにもう一度会いたかった。
 魂がそう叫んだ気がした。

 真琴の両肩をリヴァイが柔く押す。優しく眼を細めて見つめてきた。
「あのときの俺が、ずっと言えなかった言葉があるらしい」
 潤む瞳で真琴は首を傾けてみせた。
「いまの俺も、お前に言いたいと思ってる」
 瞳を閉じると、涙がほろほろと落ちていった。次に瞳を上げて、唇を動かしたのは二人同時だった。

「愛してる」

 ネオンが輝く夜の街では、白い雪が降り始めていた。銀色に煌めく世界は寒々しく見えた。
 そこを寄り添って歩く二人の姿があった。いっぱいの幸せを胸に微笑み合う二人は、とても温もりにあふれて見えた。

←back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -