失って得たもの

 私は必死に逃げていた。背後からの轟から。追ってきているのは憎き巨人。

 走りながら、両手に持つグリップのトリガーを何度も引いた。引いたけれど、私の立体起動装置は作動しなかった。

 なんでこんなときに故障をするの。と私ははがゆい思いで唇を噛んだ。周囲を見渡しても増援は見当たらない。放棄された旧市街地で、私はたったひとりだった。
 班員はさきほど全員殺された。残るは私だけ。

 足がもつれた。あっ、と声を上げる暇もなかった。投げ出した両手首が痛かったのは、私が地面に倒れ込んだからだ。けれど早く逃げなくてはと、膝を引き寄せてざらざらする地面に手を突いたときだった。

 身体を何かに掴まれて足が宙を浮いた。自分に巻きつく巨大な指が見える。掴まれたが最後、引きはがすのはどう足掻いても無理だった。
 浮遊感のあとに眼に飛び込んできたのは、巨人の嗤った顔だった。刀身が装着されたグリップを強く握って、私は巨人の顔目掛けてがむしゃらに振り回した。

「離せ!!」
 言うことを聞いてくれないのは分かっている。けれど叫ばずにはいられない。
 振り回している私の左腕にひどい痛みが走った。巨人に噛みつかれたからだった。
 反対側の手に持つ刀身で、自分の腕に噛みつく巨人の唇に刺した。震える手ではたいして深く刺さらなかったが、巨人は私の腕から口を離した。

 圧迫感がなくなった左腕はどくどくと熱い。流れ出る血潮が調査兵団の軍服を赤く染めていく。それを見て一気に現実みを帯びてきた。絶望という文字が浮かぶ。

「やめて……」
 口をついた言葉に私は内心で驚く。まさか命乞いしようとは。
「お願い、食べないで……」
 自分の意思とは関係なく、情けない言葉が唇からこぼれる。
「死にたくない……」

 もうだめだと思った。巨人の口が大きく開いて、真っ赤な舌が見えたから。
 視界が影だらけになって、光に閉ざされようとしていた。その瞬間、走馬灯のように思い起こさせたもの。それはあの男の顔だった。

 ※ ※ ※

 今日の訓練はお休みだ。それは朝から降る雨のおかげ。宿舎の自室で私はひとりの時間を楽しんでいた。

 ベッドにうつ伏せになって雑誌を見ながら、手探りで手を伸ばす。ここらへんかな、と当たりをつけて指を動かした。そうして指に触れたのは、さっきから摘んでいるドライフルーツ。ベッド脇に据えたサイドテーブルに置いておいたのだ。

 雑誌に集中しながら、摘んだドライフルーツを口に放り込んだ。プルーンの味がした。
 何気なく両足を交互に揺らしていたとき、扉のノックの音がした。

 やばいっ、と思って私は慌てて起き上がる。ベッド周りに散乱している雑誌や、服をまとめて抱き込んだ。
 そのままクローゼットに押し込もうとしたときだった。扉が開く。鍵を掛け忘れていた、と苦い思いが広がる。

「入るぞ」
 私が了承する前に遠慮なく足を踏み入れてきた男は、思った通りリヴァイだった。
「いいって言ってないでしょ!」
 抗議の声を上げると、私の足許にばらばらと重みが降ってくる。いっぱいに抱え込んでいた腕から、雑誌やら服が滑り落ちていったためだ。

 リヴァイは私の部屋を見回す。眼を眇めて。
「三日前に掃除を手伝ってやってから、もうこんなざまになってやがんのか」
 ぐっと私は喉を詰まらせる。
 私の部屋は散らかっていた。テーブルの上はコップが何個もあり、何かを食べたであろう皿も何個も積み重なっている。お菓子の袋や、どっかでもらったいらない景品のおもちゃとかも、床に乱雑に置かれていた。

 そう。私は片づけがとっても苦手なのだ。
 そんな私のおざなりな性格を知ってか、リヴァイはときどき、いや、かなりの頻度でこうして抜き打ちチェックにくる。そして綺麗になるまで一緒に掃除してくれるのだ。

 リヴァイとはもう何年来の同志だ。私のほうが二年遅く調査兵団に入団した。そのときに彼の圧倒的な強さを見て、私は一瞬にして心を奪われてしまった。要は一目惚れというやつだ。
 好きになったきっかけは、兵団一強い人、という何とも単純な理由だった。でもリヴァイはただそれだけで、何人もの女性を虜にしてしまうだけの魅力があるのだ。

 だけどいまは違う。何年もともに精進し、ともに巨人と闘い生き残り、そうしてリヴァイと過ごしてきた日々で、想う気持ちは堅く凝縮されていった。だからただ強いだけという理由では、いまはない。
 そして言わずもがな、絶賛片思い中。だって告白なんてしてふられたら、立ち直れない自信がある。それにリヴァイって恋人とか必要ないって感じに見えるし。

「まめに片づけろと、いつも言ってるだろ。ゴミを溜めるからあとが大変になる」
 リヴァイは持参してきたゴミ袋に、床に落ちてるものを放り込んでいく。
「ちょっと! それいるものだから! ゴミじゃないから!」
 あやうく捨てられそうになったお菓子の缶を、私はリヴァイから救出してあげた。
「ゴミだろ。中身、空じゃねぇか」
「いいの! 可愛いから小物入れにするのよ!」
「そんなんだから部屋がゴミ溜めになる」
 流し目をして、
「三日前も転がってたろ、それ。そのときも同じ台詞を言ってたが、結局小物入れになってない。ということはいらねぇってことだ」
 言ってリヴァイは、私が抱え込むお菓子の缶に手を伸ばしてくる。

「だめ〜、使うんだってばっ」
 逃げるふうにして身体を捻ると、リヴァイは呆れた感じで溜息をついた。
「来週も転がってたら、ゴミ袋行きだ。忘れんなよ」
 再びリヴァイは屈んで私の部屋を片づけていく。
 うるさい小姑だな、と思って私はベッドにぽすんと腰を降ろした。
「口うるさすぎるよ。そんなんじゃ、誰もお嫁にきてくれないよ」
 こう言ったのは言外の意味が含まれている。リヴァイは結婚について、どう思っているのだろうと気になったから。

 テーブルに散らばる、お菓子の袋をリヴァイは捨てていく。涼しい顔で口を開いた。
「それは困る」
 私の眼は乾燥を伴っていた。それはたぶん、これでもかというくらいに、眼を見開いているからだろう。
 困る、というのは、お嫁に来てくれる人がいないと困る、という意味?

「け、結婚願望あるの?」
 声がうわずった。
 ほんというとずっと片思いでもいいかなと思っていた。こうして一緒にいられるだけで、幸せを感じられるし。
 でもそれはリヴァイが恋人がほしいとか、結婚願望があるとか、そんなこと微塵も考えていないと思っていたからだ。勝手に私が思い込んでいただけだけど。
 やだ、と思った。リヴァイが誰かを好きになったり、はては結婚なんかされたら私は生きていけない。

「相手がしたいと言えばな」
 それはどういう意味だ。深い意味でもあるのか。
「な、なにそれ。もしもの話? それともそういう人が、いるの?」
 いまの私はリヴァイにどう映っているだろうか。自分ではなるべく、平静さを保っているつもりだけれど。意味もなく何度も髪を撫でつける私は、やっぱり動揺して見えるだろうか。
 感情の読めない表情でリヴァイが私を見てくる。いやだ、どんな返答がなされるのか怖い。

「そういう奴がいたらどうなんだ」
「なんで私に、聞くのよ……」
 まぁ、とリヴァイは呟いた。
「ネズミが出るんじゃねぇかと思うほど、芸術的に部屋を汚せるような奴は勘弁したい」
 カナヅチで殴られた気分だった。この一言で私の失恋は決まったようなもの。
「だから口を酸っぱくして言ってんだ。片づけろと」
「汚部屋女子の未来を憂いてくれてるの……。このままじゃ誰も貰ってくれないと」

 私はしょんぼりして項垂れた。でもいい。リヴァイ以外の男に嫁ぐ気なんてないもの。
「ひとりぐらいは現れると思うが」
「いいよ、いらない。私、結婚する気ないもん……」
 リヴァイしか欲しくないもの。

 私の足回りに落ちてるゴミへ、手を伸ばそうとしていたリヴァイの動きがとまっていた。
「どうしたの?」
「真琴は、結婚願望ないのか」
 沈んだ気持ちで私はベッドに身を投げた。
「一生、調査兵団に尽くすからいいの」

 ふてくされた気分で、横向きになって身体を丸めた。シーツのケバケバを指で摘んでいたら、腰付近部分のマットが沈み込む気配がした。私の顔の横に筋張った手の甲が突いて、柔らかな布団に少し沈んでいった。
 身体を反転させ、正面を向いた。目の前に群青色の瞳があって、黒い髪の毛が目許に影を差して揺れる。私の顔の両脇にはリヴァイの手が突いていた。

「ど、どうしたの……」
 見つめてくる瞳から私は眼を逸らせなかった。そして思う。こんな素敵な男に抱かれたら、一生虜だろうな、と。
 だんまりしていたリヴァイの、その瞳が私から逸れて横へ流れた。突いていた片腕を斜めに伸ばし、
「ゴミ。ベッドで菓子を食うな」
 そう言って私の目の前で翳したのは、取りこぼしたであろう、オレンジのドライフルーツだった。

 リヴァイが私の上から離れていくと、ベッドは微妙に横揺れして軋んだ。
「ご、ゴミね……そ、そうだよね……」
 あは、と私は無理して笑った。口角が堅い感じがするけれど、ちゃんと笑えているだろうかと心配になった。

 ※ ※ ※

 生きてる。まずはじめにそう思った。
 消毒液の匂いがする。この匂いはもう幾度となく、嫌というほど鼻に染みついている。
 いままでに何十人、仲間を失ってきたか。そのたびに、ここで私は死を見送ってきたのだ。

 大嫌いな医療施設に相違ない、そう思って私は眼を開けた。ぼぅとする眼で天井をしばらく眺めて、右手の圧迫感と視界の隅に入った人影に、ようやく気づいて声を上げた。

「リヴァイ……」
 呼びかけると、私の傍らで半身をうつ伏せにし、座っているリヴァイの肩がピクリと反応した。がばっと起き上がった彼の表情は、眼を見張っている。でも顔に服の跡が付いているから寝ていたのかもしれない。

「どこか痛んだりしないか。医者を呼んでくるが」
「平気みたい」
 答えて、私は左腕の感覚が妙なことに気づく。でもそれよりも疑問に思うことがあるから、
「何で生きてるんだろう、私……」
「伝令がきて俺が駆けつけた。真琴の班が壊滅状態だと」
「そっか、それでリヴァイが助けてくれたんだ……」
 と私が呟くように言うと、リヴァイが憂うように頷いた。

「ねぇ……。私の左腕、あるよね?」
 さっきから感覚がまったくない。
 訊くとリヴァイの視線が私の左腕に向けられる。怪訝そうな眼つきだ。
「怪我をしたようだがちゃんとくっついてる。包帯でぐるぐるだがな」

 言われて私は視線だけで左腕を見る。布団から出ている腕は、肩から手まで包帯が巻かれていた。
 けれども自分の腕でないかのような、変な感じだ。しいて言えばゴムのような、そんな感覚。だって動かそうとしても、指が動いてくれないし、腕も上がらない。

「動かない……」
「何がだ」
 リヴァイが怪訝そうな声で言った。私は焦りが募っていく。だって腕が、手が動かない。
「動かない! 腕が上がらない! 指も動かせない! 何で!」
 リヴァイ! と私は叫んで彼の腕を掴んで半身を起こした。

「どうしよう! 腕が! 私の腕が!」
「落ち着けっ」
 リヴァイは私の肩を押してベッドに戻そうとする。けれど抵抗してリヴァイを揺さぶった。
「こんなんじゃ剣が持てない! 兵士を続けられない! どうしたらいいの!?」

 腕が自由にならないことを悲観しているのではない。怖いのは、私から調査兵団の居場所を奪おうとするこの腕。
 だってリヴァイのそばにいることが、できなくなるじゃない。私はそれが一番恐ろしい。

「まだ何も分からない。治療したばかりだろ。リハビリで動くようになるかもしれないじゃないか」
 私を諭すように言う。
「気休め言わないでよ! だって全然動かないのよ! 前みたいに戻るわけない!」
 喉がヒリヒリするほどに叫んで、私は憎い左腕を殴る。怪我をしている? どこが!? だってまったく痛みの感触がないじゃない。

 シーツに丸く染みが増えていく。それが私の頬を伝って落ちている雫だから、ああ、泣いているのだと気づいた。
 ムキになって殴り続ける私の右手を、リヴァイに取り押さえられる。

「馬鹿なことをするなっ。傷口が開くだろっ」
「痛みなんかないのよ! これは私の腕じゃない!」
「お前の腕だ、馬鹿なことを言うな! 自分を傷つけるな!」

 私の叫びより大きい声を上げて、リヴァイが強く抱きしめてきた。
 抱擁の温もりに、私の精神は徐々に緩やかになっていった。
 すまない。とリヴァイが声を絞り出した。何に謝ってるのか分からなくて、私はただしゃくり上げる。

「俺はどこかでほっとしてる、真琴が兵士を続けられないことに」
「どういう、こと……?」
「あのとき、真琴が巨人に喰われそうになっていたとき、目の前が真っ暗になった」
 そう言ってリヴァイは強く抱きしめてくる。
「もうこんなことはごめんだと、そう思った」
「なに言ってるの……。いままで何度も、目の前で仲間を失ってきたじゃない……」
「お前は俺にとって特別なんだ。失うと困るものなんだ」

 どういう意味? 子供ではないから分からないわけじゃないけれど、間違いだったら格好悪いじゃない。

「期待、もたせるようなこと、言わないでよ……」
「期待していい」
 熱を持つ瞼が、さっきより熱い。流れる涙が、さっきと違うものに変わった気さえする。
「だって……私、あなたの嫌いな汚部屋女子だよ?」
「だから掃除上手になるよう、俺がうるさく言ってたんじゃねぇか」
 リヴァイはちょっと嫌そうに言う。あれ躾だったというのか。
「これからも、ずっと片づけ下手だと思うよ。……左腕、動かないし余計ひどくなるかも」
「そこはもう期待していないから安心しろ」
 両肩を押して、リヴァイが私の目許に優しく触れる。その手つきと同様に表情も優しいものだった。
「俺が真琴の左腕になる。だから何の心配もしないでいい」
「……お嫁に、もらってくれるの?」
「大手を振って来い。歓迎する」

 そう言ってリヴァイは微笑を浮かべた。
 腕が動かないことは純粋に悲しいと思う。けれど失った代わりに得たものは、とても大きいものだった。
 だからもう悲観なんてしない。私は一生、この人についていくのだ。整理整頓できない私にリヴァイが愛想を尽きても、離してやらないんだから。

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