アホな子ほど可愛い
黒板の前に、憧れのリヴァイ先生がいる。眼つきがちょっと悪い英語教師だ。
わたしはいま騒がしい教室で、緊張の唾を呑み込んだところ。窓際の一番後ろの席に座るわたしからは、教室の様子が見渡せるのだけれど。
騒がしい声には歓喜や嘆きが含まれていた。それはどうしてかというと、
「真琴」
教卓から低音で呼ばれてわたしは腰を上げた。声の主はリヴァイ先生のものだ。
途中、項垂れて自分の席へと戻っていく生徒とすれ違う。その生徒の手には期末テストがあった。しょんぼりしているのは、悪い結果だったせいだろう。
リヴァイ先生の前までいって向かい合う。わたしを鋭い三白眼で睨んできた。
「学年一位だ」
「えっ! すごい! 全然勉強してこなかったのに! わたしって天才!?」
リヴァイ先生に言われてわたしは喜んだ。だってこれはすごいことだよ。
進撃高校二年生は四クラスある。生徒数は百二十名。そんな中で一位なんて名誉賞ものでしょ。
思わず飛び跳ねて本気で喜ぶわたしの頭に、突然激痛が走った。頭を抱えて上目遣いした先にあったものは、教本の角。やや厚い英語の教科書だった。
その角を容赦なく振り落としてきたのは、怖い顔したリヴァイ先生以外にいない。
「馬鹿言え。ケツから数えて一位だという意味だ」
「そんなぁ!」
がっかりして言ったあとに、
「ぬか喜びさせないでよっ」
わたしはぷくっと頬を膨らませてみた。
「毎回赤点の奴が、変な勘違いをしやがる。世界の終わりでもないかぎり、一位なわけないだろ」
リヴァイ先生はそう言って、わたしに期末テストを突き出す。
「ったく、教え甲斐のない奴だ。特別に放課後見てやっても、これだからな」
嫌々ながらテストを受け取る。点数を見たくなかったわたしは、ちょっと抵抗しつつ目を細めて赤い文字を見た。
――五点。
見たくなかった。ああ、こんなひどい点数のテストを親に見せたら、お小遣いを減らされてしまうよ。どこかに捨てていこうかな、と目論んでいたら。
わたしの心の声を読んだのか、
「ちゃんと親に見せて、説教してもらえ」
「エスパー……」
呟いたわたしに「は?」とリヴァイ先生は怪訝な顔をする。
「ひとり言です……」
さっきすれ違った生徒と、ほぼ同じような体勢でわたしは席に戻ろうとした。間際に腕を掴まれる。
ああ、何かその『グイっ』って感じに胸がときめいたのだけれど。きっとこれは早とちり。
「休み明けから補習だからな。ずらかるなよ」
「やっぱりあるんですね……。中間のときと同じで」
口を引き攣らせて笑うわたしに、リヴァイ先生は笑い返さずに頷く。
「当然だ。お前とは腐れ縁だな」
溜息をついて、わたしはとぼとぼと席へ戻った。
虚しいテストを机の奥に押し込む。前に座るオルオが背凭れに肘を掛けて振り返ってきた。
「お前また赤点かよ」
とにやにや笑う。
嫌味な奴だ、とわたしは気分が降下していくのを感じていた。自分は秀才だからって、オルオはいつもそれを鼻にかけて、わたしを馬鹿にするのだ。
わたしは投げやりに言う。
「いいの。大好きなリヴァイ先生と補習だもん。あ〜楽しみだなぁ!」
「全然そんな顔してねぇじゃん」
と見下して、
「来週から一週間、午前授業だぜっ。ペトラとか誘ってカラオケでも行くかな」
「行ってくればいいじゃん」
「あれ? お前行かないの?」
わざとらしくオルオはとぼける。わたしは恨めしい思いで見据えてやった。
「あっ、悪ぃ! お前は補習だったな!」
ごめーん、といった感じでオルオは両手を合わせてきた。そんなことちっとも思っていないくせに。わざとやっているんだってことは、バレバレなんだから。
むしゃくしゃしたところで、終鈴の音が教室内に響いた。英語の授業は本日の六時限目だったので、今日はこれで終わりだ。
わたしは机脇のフックに掛かっている学生鞄を机においた。帰る準備をするために、机の中から教科書を出して鞄に仕舞う。奥においやったテストも引っ張り出すと、それはクシャクシャになってしまっていた。わたしの気色も同等にクシャクシャだった。
週明け。補習期間は一週間。その間は対象生徒以外は午前中で学校が終わる。
生徒がわたししかいない教室は静かだった。リヴァイ先生は教卓の隣に椅子を置き、そこに腰掛けて本を読んでいる。
少し背を丸めて脚を組んでいる姿は、まるで一枚の絵画みたいでさまになっていた。大人な妖艶さあふれるリヴァイ先生を、わたしはいまひとりじめしているわけだ。美術品を鑑賞するみたいに、ずっと眺めていたいけれど。
情けなさと恥ずかしい気持ちのほうが強くて、いまはそんな気分じゃないんだよ。
二年生のうち英語の赤点を取ったのは、どうやらわたしだけのようだった。中間テストのときは三人いたのだけれど。そのときの同志に何だか裏切られた気分だ。
回答が進まない補習用のテストを見降ろす。英語の設問が並ぶテストは、いまどき珍しい手書きのものだった。
この字はリヴァイ先生のもの。たぶんわたしに合わせてレベルを下げてある。それなのにわたしには解けない。
なぜって? 眼に溜まった涙を、必死に押さえ込むことに集中しているからだった。
情けなさと虚しさでわたしは泣きたい気持ちだった。みんないまごろ楽しくカラオケをしているのかな。AKBとか歌っちゃってるのかな。なんでわたし、こんなところで一人で居残りなのだろう。
自分が悪いのは分かっている。ちゃんと予習してこなかったから。でも英語が苦手なんだもん。
日本人なのだから、英語ができなくたって別に困らないじゃない。どうして孤独感を味わわなければならないのか。
頬を伝っていった涙が、テストに落ちて次々と丸い染みを作っていった。泣いているのを、リヴァイ先生に気づかれるのはかっこ悪い。わたしは鼻をすすりたいけれど、なるべく音が出ないように気をつけた。
「寒いか?」
リヴァイ先生から声をかけられた。鼻をすする音で、寒気でも感じているのかと思ったのだろうか。
近眼ではないけれど、テストをよく見るふりをしてわたしは顔を伏せる。だって泣き顔なんて見せたくない。
「ちょっと……。でも、大丈夫」
出した声は鼻声だった。泣いていると感づかれていないかわたしは焦る。季節外れの花粉症なんです、と心の中で言い訳をした。
コツコツと靴の音が近づいてくる。わたしは狼狽えた。こっちに来ないでほしい。
足音はわたしの机脇でとまった。
「どうした? なぜ泣いてる」
ばれてたしー!
「そういうこと、聞かないでよっ」
「ずるずる鼻すする音が聞こえりゃ、気にしないわけにはいかないだろ」
呆れたような声だった。
顔を深く伏せているわたしの視野に、ハンカチが現れた。紺色に細く赤い線が入ったチェック柄だ。
「使え。さっきから手で拭ってばかりだが、ハンカチを忘れたのか」
ただ頷いて、わたしがハンカチをありがたく受け取ると、
「女だろ。ハンカチくらい携帯しておけ。身だしなみだ」
とリヴァイ先生は言った。
目許を押さえると、ハンカチから柔軟剤のいい匂いがした。このハンカチ、宝物としてもらっちゃおうかな。「洗濯して返しますから」とか嘘ついて。
とわたしがよこしまなことを考えていたら頭上から、
「泣くほど難しかったか? 補習用テスト」
かさっと紙の音と、リヴァイ先生の困ったような声が聞こえた。顔を上げると、リヴァイ先生はテスト片手に首を捻っている。
「お前のレベルに合わせたんだが、一問もできてねぇとは……。これ以上レベル下げると、小学生クラスだぞ」
えっ。わたしへの問題って中学生レベルだったの、とショックが走る。高一レベルだと思っていたのに。
それはさておき――。
勘違いしているようだった。わたしの泣いている理由を、テストが難しいからだと思っている。
「ちがうの……」
リヴァイ先生は片眉を上げた。
「一人で補習受けてるのが情けなくて、何だか悲しくなっちゃったから」
ふっとリヴァイ先生が笑う。
「センチメンタルな奴だったとは意外だ。ずぶとい神経の持ち主だと思っていたが」
「言い過ぎでしょ……。わたしのことなんだと思ってんの」
ずぶとい神経と言われて喜ぶ女生徒なんていない、とわたしはちょっと気分が悪くなる。
リヴァイ先生はわたしと向かい合わせになるようにして、オルオの席に座った。そして腕を伸ばす。
「可愛い女と思ってる」
言葉と一緒に、わたしの頭に温かみがのった。それはリヴァイ先生の大きな手だった。
可愛い女、という発言にわたしは眼を見開いていると思う。心臓もバクバクとうるさくて、ついでに胸がきゅぅと痛い。
「涙はとまったようだな」
言われてわたしは気づいた。いつの間にか泣きやんでいたことに。リヴァイ先生が変なことを言うから、驚いたせいだろう。
そこまで考えてわたしは不服に思い、声を上げた。
「先生、いまのわざと!? びっくりさせるようなこと言って、泣きやませようとしたんだ!」
答えないで、リヴァイ先生はわたしの机に頬杖を突いた。無表情に見つめ、人差し指で頬を叩いている。
なんで否定しないのだろう。わたしは動揺する。だってそこで否定してくれないと、さっきの発言は本心ってことにならないだろうか。
え!? もしかして両想い!?
「やだ、先生! わたしまだ学生です!」
顔を両手で押さえてわたしは少し逸らしてみせた。頬が熱い気がするから顔は真っ赤かもしれない。
「何を妄想してんだか知らねぇが、さっさとテストをやっつけるぞ」
乙女モードになったわたしとは逆に、リヴァイ先生は何の気なしに言った。
すっかりお花畑でそんな気分じゃないわたしは、
「ねぇ、先生! わたしって可愛い? ねぇ!」
「ああ、可愛い可愛い」
何だか適当にあしらわれている気がした。そしてわたしを無視してリヴァイ先生はテストを指差す。淡々と問題の解説をしていく。
な〜んだ。やっぱりからかわれたんだ。とわたしの気力が落ちていきそうになったとき。
「馬鹿相手にするには、想い入れがねぇと無理だろうな」
「え? この英文ってそんな訳だったんですか?」
「アホ……」
どうしてか白けた眼で、リヴァイ先生はわたしを見てきたのだった。
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