04

 清水寺へと続く清水坂まで来ると、人が多くなってきていた。車一台が入れるくらいの細い急な坂を、スピードを殺して登っていく。たまに通りを行く人々から邪魔っけに睨まれて、真琴はタクシーの中で身を丸くした。
 率直にいうと、こんな上のほうまで、しかも狭い道を車が入っていけるだなんて、思ってもみなかった。けれど、この坂をずっと寺まで登っていくのは骨が折れそうに思えた。
 土産物屋が上へと続く坂の途中で、タクシーが止まった。

「車が入れるのはここまでです。清水さんまで、もうすぐそこですから、楽しんで来てください」
「ありがうございます」
 真琴はお礼を言ってタクシーを降りた。会計をすませたリヴァイが降りようとしたとき、運転手に向かって声をかけた。
「昨日に続いて、さっきの話も面白かった。いい記事にさせてもらう」
 運転手は眼を丸くした。
「記者はんでいらしゃりましたか?」
「いや。出版社のものだ。週刊進撃を見かけたら、手に取ってみてくれ」
 冗談っぽくリヴァイが軽く笑みを見せると、運転手は呆としたまま頷いた。
「へ、へぇ。それはもう、ぜひ買てみます」
 もう一度微かに笑ってから、リヴァイはタクシーから離れた。

 二叉に分かれていた道は、ここでひとつに合流して、そこから先の清水寺まで急な坂道が続いていた。
 ちょうど修学旅行と重なってしまったらしく、制服姿の学生が目につく。そのおかげというわけでもないが、土産物屋が連なる坂道は、旅行客で芋洗い状態だった。
 この人ごみを掻き分けていくのには勇気がいる、と真琴が尻込みしていると、頭に大きな手がのった。それはリヴァイの手で、やや雑に撫でてくる。

「何ですか? 髪が乱れるのでやめてください」
「いや。何となく撫でてやりたくなった」
 撫でる行為と無表情な顔が、釣り合っていない気がする。
「何となく? よく分からないんですけど……」
「俺は知らない人間とお喋りするのは好きじゃない。だがときには、会話をして得られるものもあるんだな。昨日と合わせて、お前には何というか――」
「なんです?」
 突然リヴァイは口を噤んでしまった。苦い顔をして、言いたくないような様子が見て取れる。
「なんですかっ? 途中でとめられると気になりますっ」
「いや。これ以上言うのは――とにかく癪だ」
 真琴は癪という言葉が何だか気に入らない。
「何か、感じ悪いですよ、それ! 悔しいみたいな、そんな顔!」
「うるせぇな。さっさと行くぞ。人の波に呑まれるなよ」

 結局何を言いたいのか分からないまま、真琴は清水寺への坂を歩きはじめたのだった。
 清水寺の敷地を撮影しながら、道順に向かって観光していく。「清水の舞台から飛び降りる」で有名な舞台からの眺めは最高だった。若干傾斜がかかっていて、身を乗り出したような感覚に陥るのが少し怖かったけれど。
 充分に撮影したあとは、帰りを兼ねて今度はタクシーを使わず、歩いて坂を下っていく。
 途中にある三年坂で、真琴は石畳に足を掬われて転びそうになった。危ないところをリヴァイがすかさず腕を引っ張ってくれたことで、転ばずにすんだ。

「危なかったです……」
「有名な坂で転ぶな。――やりそうだなとは思っていたが、本当に期待を裏切らない奴だな」
 呆れ気味にリヴァイが溜息をついた。
 そう。ここで転んだ人は、三年以内に死ぬという噂があるのだ。事実そうなった人間がいるのかは不明だけれど。

 黄昏の中、真琴とリヴァイはもう一度簪屋に赴いていた。
 独特のお香が充満する狭い店内で、リヴァイが取材の交渉をしている。しかし老人はひたすらに簪の製作をしていて、一向に耳を貸す気配さえない。

 そんな息苦しい空気が漂うなかで、真琴はさっきからずっとスマホを気にしていた。たまにリヴァイから冷ややかな視線を受けていたが、決して仕事に集中していないわけではない。
 真琴は、昨日母へと送ったメールの返信を待っているのだった。けれど丸一日経ったというのに、まだ返信がない。

 急ぐ気持ちが先だって、何だか落ち着かない気分でいたころ、リヴァイがとうとう匙を投げたようだった。入り口付近にいる、真琴のところへ戻ってきたリヴァイの顔は、もう諦めの境地だった。
「駄目だな。あまりにも頑迷すぎる」
 微かに気落ちの様が、声に表れていた。
 そうですか、と曖昧な返事をして、ただスマホに集中している真琴に、リヴァイが眼を吊り上げる。まぎれもなく怒気を漲らせていた。

「大概にしろよ。俺が交渉してるそばで、なに遊んでんだ、てめぇ」
 凄みのある低い声に、真琴は肩をビクつかせた。でも断じて遊んでいるわけではないのだ。
「違いますよ。ちょっと、気になることがあって、母からの返信を待ってるんです」
「何を待ってるんだか知らねぇが、もう行くぞ。ここの取材は諦めて、ほかの特集を組む」
 そう言って真琴の手を引くから、足で踏ん張った。
「ま、待ってくださいっ」
「あ? 返信待つなら、どこでだっていいだろうが」
「違うんですっ。ちょっと気になることがあって――」
 リヴァイが怪訝そうに片眉を上げる。

「何だっていうんだ? この店に関することなのか?」
「この写真なんですが……」
 小声で言って土壁に飾られている、一枚の写真をそろっと指差した。
「どこかで見たことがあるんですよね……」
「どこにでもあるような記念写真だろう」
 リヴァイが写真に顔を近づけて、眼を凝らした。
 顎に手をあてて、真琴は思い出すような仕草をする。
「そうなんですけど……家で見たことあるような気がして」
「ここは京都だぞ。お前は生まれも育ちも東京だったよな」
「はい……。だから何でこんなところにあるのかなって。なので勘違いかもしれませんけど」

 真琴が首を捻ったときだった。羽目を外したような音楽が店内に鳴り響く。真琴の着信メールのものだった。
 レジの裏側から、厭悪(えんお)の眼つきで老人が睨みつけてきた。リヴァイも似たような眼差しで、真琴に苦言を呈する。
「マナーモードにしておけ。常識だろうが」
「すみませんっ」
 適当に謝って、真琴は逸る気持ちのままにスマホを操作する。メールアプリを立ち上げると、待ちに待っていた母からの返信だった。画像も添付されている。それを確認した真琴は眼を見張り、飾ってある写真と交互に見比べた。

「何だってんだ」
 訝しげに真琴のスマホを覗き込んだリヴァイが、僅少に眼を見開く。そして同じように飾られている写真に食い入った。
「これ、もしかしてお前の――」
「私の、七歳の七五三の写真ですっ。やっぱりそうだったんだ!」
 真琴は懐かしさが混じる黄色い声を上げた。

 色あせたカラーの写真に映っているのは、幼き日の真琴だった。総絞りな紅色の振り袖に、小さな頭を際立たせる、やや大きめの、大人っぽい簪が顔周りに垂れている。
 ここに飾られてあるということは、やはりこの簪も老人が作ったものなのだろう。でもどうして、京都の簪屋に真琴の写真が飾られているのか、これには母も分からないとの返信だった。
 真琴の七五三はすべて父方の、真琴の祖母が揃えてくれたものらしいのだ。だから母は一切知らないという。
 真琴の黄色い声は、思ったより大きなものだったらしい。聞きつけた老人が、サンダルをつっかけて駆け寄ってきた。なぜかいそいそしているように見える。

「お前はん、まさか――」
 眼鏡を下げて、老人は穴が空くほどに真琴を見てきた。
「この童の子かい!?」
「そうみたいです」
 少し恥ずかしくて、真琴はてへっと笑った。
 老人が嬉しさを隠しきれない顔で、ほんの少しの疑いをぶつける。
「嘘やないやろな」
「母にも確認とったんで。これを見てください」
 スマホの画像を老人に向かって掲げた。
 老人は老眼が進んでいるようで、眼を細めて遠目に見る。次の瞬間、白く濁る眼をいっぱいに見開かせた。
「写真の裏を見れば分かる。お前はん、名は」

 真琴です。と答えると老人は曲がっている背中を、一生懸命伸ばすようにして両手を挙げた。飾られている写真を取ろうとする行動だったが、背伸びしている足がふるふると震えており、危なっかしい。
 老人の背に手を添えようとしたとき、リヴァイがさりげなく割り入って、代わりに写真を取り外してくれた。
 差し出される写真を、老人はぶっきらぼうに受け取る。
「む。す、すまんのぅ」
 写真をひっくり返した途端、老人の皺だらけの目許が潤んだ。

「ほんまや……。ほんにお前さんや……」
 眼に涙を光らせる老人は、しきりに瞬きを繰り返す。今日までの人物とは思えない、まるで別人のような穏和な笑みを湛えて。
「ほうか、ほうか。ぎょーさん大きゅうなって……」
 真琴へと触れるか触れないかくらいに、頬へと皺くちゃな手を伸ばしてくる。
「佳つ乃のお孫はんかえ。いやぁ、かいらし、かいらし」
「佳つ乃?」
 真琴は首をかしげた。
「知らなんだか? あんさんのおばあちゃんやで」
「いえ、おばあちゃんの名前は、たま、ですが……」
 老人は半泣き半笑いの顔をした。
「聞いたことあらへん? あんさんのおばあちゃんはなぁ、この祇園界隈で有名な芸妓はんやったんやで」
「そうなのか?」
 驚き混じりでリヴァイが真琴を見てきた。

「いえ、聞いたことありません……。あっ、でも若いころ京都に住んでたって言ってたかも」
 真琴が上目をすると、老人は目尻を指で拭った。
「まだ見習いだった儂の作った簪を、贔屓にしてくれはってなぁ」
「でも何で私の写真がここにあるんですか?」
「佳つ乃がなぁ、孫がもうすぐ七五三やから簪作ってくれぇて、頼まれてな。そのあと写真を送ってくれはったんよ」
 潤む目許を優しく細めて、写真を眺める。
「佳つ乃は元気かえ? 儂とそう変わらない歳じゃったはずだが」
 悲しい表情をして、真琴は顔を伏せた。
「おばあちゃんは、去年亡くなりました……」
「ほ――」
 老人は眼を見開いた。信じられないという面持ちだったが、やがて寂しそうに眼を伏せる。

「ほうか……。考えてみればもう八十超えてもうたしな。ほうか、ほうか……」
「あの、すみませんでした。おばあちゃんの若いころの記録ってほとんど残ってなくて、お手紙も差し上げられませんで……」
 いや、と首を振って老人は畳に腰を降ろした。
「生きとし生けるもの、いつかは天に召されるのはさだめじゃ。この店も、儂とともに暖簾を下ろすことになろうて」

 リヴァイが口を開いた。
「お弟子さんは、いらっしゃらないんですか?」
 老人は自嘲の笑みを洩らす。
「こんな頑固じじぃに、根気強く教えを請おうと思うもんはおらなんだ。いや、儂もうるさく言い過ぎたのが悪いんやけどな」
「失礼ですが、お子さんは?」
 リヴァイの問いに、老人は小さく笑いながら首を横に振る。
「いまだから言えるが、佳つ乃は儂の初恋の人でなぁ。とっくのとうにフラてるんだが、どうにも忘れられへんて。せやから、べったり独りもんや」

 祖母が祖父と結婚してしまったというのに、この老人はずっと忘れられずに生きてきたのか。そう思うと、申し訳なさと気の毒さで、真琴は居たたまれない思いでいっぱいになった。
「それじゃあ、このお店を継いでくれる人がいないんですね……」
「珍しいことやあらへん。せがれがおっても、跡を継いでもらえへんて、この辺りでも老舗が何軒店を畳んだことか」
「でも……もったいないですね。だって、江戸時代からずっと暖簾を守ってきたのに……」
 老人は鼻をすする。
「儂が悪いんやぁ。弟子を育てることができひんかった。ご先祖様に会わす顔があらへん」
「そんなことは……」
 老人はしみじみ言う。小さい体がより小さくみえた。
「考えてもいーひんかった。儂を置いて死んじまった朋友の葬式に、何度行ったか知れんのに、いまになって気づくとは。人間はいつか死ぬんやて。独りでは店を守れへんてことに……」

 老人は細かに震える両手を合わせる。
「いつまでも下手くそな弟子に技を教えるなら、自分で作っていたほうが早いと。儂が店を切り盛りしていくから、弟子なんぞいらんと。せやけど違った。人間はいつか死ぬんや。己の技を、継承してくれるもんも残せず、儂は死ぬんや。情けのうて、ほんま……」
 涙を拭いながら老人は吐露した。

 老人の気持ちが痛いほど胸にしみて、真琴も瞳を潤ませた。
「いまからでも、遅くないですよ……。お弟子さん、とってみたらいいじゃないですか。おじいさんの、いままで積み上げてきた技のすべてを、後生に残してあげてください。お願いします」
「……せやなぁ。あんさんの言う通りや。残さなあかん」
 老人は深く胸に刻むように、何度も何度も頷いた。
 リヴァイが真摯な面様で一歩前へ出る。
「ご老人の一生を、うちで書かせていただきたい。匠の技を後生に伝えるために。摯実に取り組むことを、お約束する」
 老人はしばし土間を見つめていたが、決心したような強い瞳を上げた。
「よろしゅうお頼申します」
 そう言って深く頭を下げたのだった。

 次の日の朝は早かった。リヴァイの眼を盗んで、土産物をちょこちょこ購入していた真琴は、トランクに入りきらなかった分を、予備のサブバッグに詰めた。
 あらかじめ呼んでおいたタクシーが旅館前に到着したらしい。チェックアウトを終えて外へ出たとき、リヴァイから辛辣な瞳が刺さった。

「ずいぶんと荷物が増えたな」
 真琴は動揺する。
「き、気のせいですよ!」
「そんなでかいエコバッグ、来るときは持ってなかったよな」
「そ、そうでしたっけ……?」
 冷や汗混じりに、真琴は知らんぷりをした。

 京都駅に着くと、待ち合わせをしていた場所には、ペトラとオルオがすでにいた。よく見やれば彼らも荷物が増えているではないか。どうどうと店の名前が入った紙袋まで持っているし。
 そんな二人を見て、リヴァイがほとほと疲れたように項垂れたのは、誰も気づかなかった。

 行きと同じように、京都駅もビジネスマンや旅行客でわんさかしている。新幹線改札口へ向かって、ペトラとオルオに続き、自動改札に乗車券を入れようとしたとき、後ろから腕を引っ張られた。
「どうかしました?」
「忘れていた。あいつらがいると、渡せないからな」
 そう言ってリヴァイはスーツのポケットから、手のひらサイズの千代紙で作られた紙袋を取り出した。ふたつあって、ひとつを真琴に手渡す。
「やる」
「なんですか?」

 袋を観察すると、あの簪屋の名前が判子されていた。ということはあの店のものなのだろう。
 封をあけて手のひらに出す。簪を模したストラップだった。とても精巧に作られているもので、きっと普通に簪を作る行程と、さほど変わらない手順で作られたものに違いない。

「あのおじいさんが、作ったものですか? 素敵……」
 うっとりして、真琴は目の前でストラップを翳した。
「俺も同じものを買った」
「お揃いですね」
 微笑した真琴を、ちらと窺ってからリヴァイは眼を逸らした。言いにくそうに口籠る。
「スマホにでも、付けておけ」
「リヴァイ副編集長も、ですか?」
「ふたり揃って同じもん付けてたら、詮索されるだろ。俺は鍵にでも付けておく」
 妙にぶっきらぼうだった。表情には出ていないが、もしかすると恥ずかしかったのかもしれない。

 新幹線に乗車して、ふたつ並びの座席を向かい合わせにした。行きと違うのは、真琴の隣がリヴァイということだけだ。
 ペトラがリヴァイを賞賛する。
「さすがです! あの簪屋の独占取材に成功するなんて」
「いや、俺は何もしていない。真琴の功績だ」
 慌てて真琴は首を振る。
「わ、私は何もしていませんよ!」
「お前の話がなかったら、この取材は巧くいかなかっただろう」
「へぇ。よく分からないけど、真琴ちゃんが活躍したんだっ」
 褒められて、真琴は身じろぎした。身に余る思いだった。

 ペトラが意気込んでみせた。
「特集、成功するといいですね!」
「ああ。これまでのどの号より、最高のものが作れる気がしてならない」
 自信満々にリヴァイは表情を和らげた。

 そう。きっと再来週号の週刊進撃は、飛ぶように売れること間違いなし。著名度も広く知れ渡り、某有名週刊誌に続くポピュラーなものになるだろう。これで進撃出版社の暗雲が晴れるだろうことは言うまでもない。
 二日間ほとんど歩きっぱなしだった真琴は、心身ともにくたくただった。自然と瞼が下がっていく。このあと会社に帰ったら、さっそく編集作業に移らなければならないのだし、少しでも寝ておこうと思った。

 新幹線内はうるさい乗客はおらず静かだ。名古屋を通過して寸刻過ぎたころだった。
 真琴の向かいに座って、ずっと雑誌を読んでいたペトラが、ふと眼を上げた。ぱちくりしたあとで、隣のオルオを腕で突く。
「んぁ?」
 腕を組んで半分寝ていたオルオが、迷惑げに眼を眇める。ペトラは前を呆然と眺めたまま、ぽつりと声を上げた。
「ねぇ。このふたりって、何か噂あったっけ?」
 聞かれて真琴たちに目線を移したオルオが、何とも言えない複雑な顔をした。ペトラが催促する。

「ねぇ、何か聞いたことある?」
「……ない」
「ねぇ、どう思う? どう見える?」
 ペトラの訊き方は、好奇心からなのか、本当に疑問に思っているのかまでは読み取れなかった。少なくとも、厭らしさは感じない。
 オルオが煩わしげに眉根を寄せて、再び寝る体勢にはいった。
「野暮なこと詮索すんな」
 注意されたペトラは、ちょっと反省したように唇を窄めた。「そうね」と呟いて。

 新幹線は富士山を通過した。寝てしまったオルオは結局、行きも帰りも見れなかったようだ。
 新幹線はもうじき新横浜に着く。下車する人間がそこそこ多く通路は些か慌ただしい。

 そんな喧騒にも目覚めないほど、真琴はすっかり眠りこけている。傍らにいるリヴァイの肩に頭を凭れて。
 そしてリヴァイも同様に、穏やかな表情で深く眠っているようだ。――ふたり寄り添うように、真琴の頭に凭れて。

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