「はい、廣瀬ですが」
何度も深く深呼吸してから最後のボタンを押したのに、2コールもしない内に繋がってどうしたらいいかわからなくなる。
「あ、あのっ…」
「ああ、なまえか。どうした?」
「え、っと…」
あらかじめ用意しておいた台詞なんて綺麗さっぱり抜け落ち、頭の中は字の通り真っ白だ。
それに、やっぱり。
淡々とした口調に、昼間のあれは夢だったんじゃないだろうかと不安が過る。
もしそうだったら…もう立ち直れないかもしれない。
「ハハッ。」
私の思考を読み取るかの様なタイミングで笑い声が聞こえて、息が苦しくなる。
からかわれて…いたとしても後戻りなんてできないけれど。
ぎゅっと下唇を噛んだ瞬間、電話の向こうで彼が体勢を変えたのが感じられた。
「冗談だよ、プライベートの携帯で名字を名乗る訳ないでしょーが。
…お疲れ様。」
その優しい声音に胸がぐっと締め付けられる。
「あ…、はい!
廣瀬さんこそ、お疲れ様です。」
「ああ。お前の事だから、てっきり怒るかと思ったのに珍しいな。
“「どうした?」じゃないですよ!廣瀬さんが電話して来いって言ったんじゃないですかー!“とか言って。」
そう言って私の口調を真似てカラカラと笑う。
「なっ、何なんですか!怒らせてどうするんですか!
もう!すぐに人で遊んで!
…一瞬、不安になりました。
すっごく緊張してるのに、私。」
捲し立てる様にそう言うと、一拍の間を置いて、一層優しい響きで彼の声が耳に届いてきた。
「お前だけじゃないよ。
…下にいるから、急いで支度して出てくるように。」
「…え、はいっ。」
もう、来てくれているなんて。
本当に、迎えに来てくれるなんて。
それに、お前だけじゃないって…廣瀬さんでも緊張したりする事があるのだろうか。
ドキドキしながら短く返事をすると、そのまま電話は切れた。
廣瀬さんは、ずるい。
何てことないようなふりで翻弄する。
彼の余裕を見せつけられる事で、いかにこちら側がいっぱいいっぱいなのかを認識させられて。
そしてそんな私を見て少し意地悪そうに、すごく嬉しそうに、笑う。
それでいて、ふとした瞬間心の中に滑り込んでくるんだ。
優しい声と、少し…切なさを浮かべた瞳で。
あの頃はそれが苦しかった。
そして逢えなくなってからもう4年もの時間が流れたというのに、今彼の元へ行くまでは1秒だって惜しいとさえ思う。
急いで化粧を直し、ロッカールームを飛び出る。
ビルを出れば広がる景色は、いつもとはまるで違った。
世界を彩る方法なんて、いくらでもあると思っていたのに。
もう随分とモノクロで過ごしていた事に気が付く。
どうして彼じゃないとだめなんだろう。
飲み終わり家路に着いているのだろう人の波に一瞬視界が遮られても、そこだけがまるで切り取られたかの様に映る。
やっぱり今でも変わらない。
黒いセダンタイプの外国車の前で、軽く車体にもたれかかる様にして佇む廣瀬さんと目が合った。
探さなくても、わかるのだ。
まるでそこだけ、切り離されてピースの様に目を引く。
―運転、して来てくれたの?!
彼がタクシーやリムジン以外で移動するのを見たのは初めてだった。
駆け寄る私を見て、その瞳が優しく細められる。
心臓はきゅっと掴まれた様に高鳴り、ままならない足元がふらついた。
「相変わらず危なっかしいやつだね、お前は。」
支えられた身体が近くて。
仄かに香ってくる、タバコと香水の混じった、
ああ…この香りだ。
恋しくて、忘れたくて、焦がれた廣瀬さんの。
「まぁ乗りなさいよ。」
「ありがとう、ございます。」
手を取られシートに腰かけると、ますます緊張が増した。
廣瀬さんが運転席へと回ってくる。
「お待たせしちゃって…すみません。」
顔を上げられないままでいると、ふいに頭を撫でられた。
華奢で、だけど意外と大きな掌。
「そんな固くなるなって。
まぁ…何なら今すぐ俺が解してやってもいーけど?」
カッと頬が熱くなるのが自分でも感じられて、すぐ隣の彼を睨んだ。
「…最後にお前と仕事してからもう4年か、長かったな。
あのお前が、物欲し気な視線だけで男を誘えるまでに成長してるくらいだし?」
「っ…、誘ってません!
物欲しそうな顔もしてませんっ!それにあのお前、ってどういう意味ですか!
成長って…」
ちらりと横目でこちらを見て笑う姿にこっそり見惚れる。
「威勢がいいのは変わらずだねぇ。
どういう意味って、そのまんまに決まってるでしょーが。」
エンジンがかかり廣瀬さんがハンドルを握ると、車はゆっくり滑る様に走り出した。
「運転、されるんですね。」
「あぁ、滅多にしないけどな。
・・・ま、保険は大きく掛けてるから安心しろよ。」
「何ですか、それ!
そんな事言われて安心なんてできないですよ!」
「ハハッ。シートベルト締めてりゃ大丈夫じゃねーの?」
嘘、ばっかり。
私を気遣ってくれている事がわかる、優しい運転だった。
そしてネオンが煌めく街並みを抜けて。
車は程なく広い地下のガレージに入った。
廣瀬さんにエスコートされ足を踏み入れたのは、まるで現実離れした美しさのホテル。
「廣瀬さん、ここ…」
「ああ、色々考えたんだが。
もう時間も時間だし、ホテルの部屋でルームサービスでも取るのがいいだろうと思ってな。」
だからデートはおあずけ、残念だったなと、彼が笑う。
「そんな、いいんですか?
ありがとうございます…」
廣瀬さんは、優しい。
同じ業界にいる事もあって、繁忙期がいつなのか、それがどのくらい続き、その間どれ程目まぐるしいのかを知っているはず。
きっと今私が仕事に追われ疲れている事に気が付いて、こんな風にしてくれるんだ。
「お前ね、男と女がホテルに入ればする事は一つだってわかってんの?
礼を言うのはこっち。
俺もお前に楽しませてもらうとするかねぇ。」
「なっ、ちょっ!廣瀬さん!
何言ってるんですか!こんな所で声が大きいですよ!」
「人がいなけりゃいいワケ?」
心底楽しそうに笑う廣瀬さんは、ホテルの案内を断ってキーだけを受け取ると、私の腰を抱き二人だけでエレベーターへ乗り込んだ。
扉が閉まった瞬間、抱きすくめられる。
「廣瀬さ、っ」
「”誰かに見られたらどうするんですか!”だろ?」
意地の悪い瞳でこちらを見下ろす。
だけど私を包む腕は壊れ物に触れるみたいに優しくて。
身体全部が心臓になったみたいに鼓動する。
「こういう所は大抵、ある程度上の階まで行く時は直通なの。
だからお前は余計な心配なんかせずに、大人しく抱きしめられてなさい。」
そっと宥める様に背中を撫でられると不思議と力が抜けて、そのまま廣瀬さんに身体を預けた。
「素直でよろしい」
ある日突然、こんなにも幸せになっていいのかな。
夢なんじゃないのかな。
バチが当たったりしないのかな。
「廣瀬さん…」
「どうした」
今は不思議と、きっと受け止めてもらえるという安心感があった。
「ずっと、」
息を吸い込むと廣瀬さんの香りでいっぱいになって、それがどうしようもなく嬉しくて、泣いてしまいそうだ。
「ずっと、廣瀬さんの事ばかり考えてました。
逢いたかった…っ」
熱い何かが込み上げてきて、それを隠す為に廣瀬さんにギュっとしがみついた。
同じように強く抱きしめ返してくれる。
「お前…それは反則。
そういう事は、部屋に入ってから言うもんだろ…」
心なしか廣瀬さんの耳が赤い気がした。
するとより一層二人の距離が近付いて、そっと触れるだけのキスが与えられる。
夢見心地とは、きっとこういう時の事を言うんだろうな。
掠めただけのそれに、もう頭の芯から溶けてしまいそうな程。
目的の階に着いたエレベーターの扉が開くまで、何度もキスを交わした。
忘れられない恋の始め方
優しいキスで時間を埋める。
「廣瀬さん!
何食べますか?」
「…だから何でお前はそうも色気より食い気なんだよ。
俺はまず、お前から食べようと思うけど?」
「えっ…と、はい…。」