「なまえ。」
いつの間にか合図になっていたリズミカルなノックをして少し待つと、扉の向こうからゆったりとした動作で彼が現れた。
呼び掛けられた名前に黙って頷くと、部屋の中へ足を踏み入れる。
敢えてゆっくり靴を脱ぎ、それを待ってから背を向けた彼の後に続いた。
間接照明がふわりと、まるで月の様に浮かぶその空間。
少し捻った趣のある調度品達は、ほぼ日常的にリザーブしているといっても過言ではない遼一の嗜好に合わせたものだろうか。
…皐月さんならやり兼ねない。
それほど迄に、何度訪れても毎回この部屋の美しさには溜め息が漏れた。
なんて非日常な世界。
まさか自分がかの言わずとしれたurban&resortのカジノに、プライベートで頻繁に足を運ぶ事になるなどと、どうして予想できただろう。
全ては必然に。
日常に溢れている偶然に意味を持たせるのは人の意志に過ぎない。
そして物質が作り出す人間の脳が、「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により決定されているのだと。
いつかまだ彼が二人きりでも能弁だった頃の台詞だ。
「飲むか?」
選択肢はないに等しい。
目の前の細いシャンパングラスに、透明の液体が気泡を作りながら注がれるのを眺める。
あぁ…あの時はまだ彼の言わんとしている事がよく理解できなかったけれど、今なら分かる。
今目の前に佇む廣瀬遼一という男は、恋愛小説家である肩書き以前に、ひどく繊細で現実主義を語るロマンチストなのだ。
相変わらず皆の前では饒舌に振る舞ってみせるが、二人だけになるといつからかほとんど会話をしなくなっていた。
それはきっと、曖昧なこの関係に嘘を上塗りしない為。
私達は乾杯もせず、お互いについて語り合う事もせず、ただ視線だけを交わしながらグラスに口をつけた。
仕事柄飽和状態にある程、日頃恋や愛について文字で語り合う私達は、恋の仕方がわからずにできるだけ相手を傷つけない方法で身を寄せる。
ハリネズミの法則は、人間が作り出した寓話だ。
それを再現する今の私達は何と滑稽なショートショートだろう。
「お前さ、」
何か言わんとする彼の言葉を溢さず拾う為、身体を前に倒した。
「…いや、何でもない。」
そう呟くと遼一は窓の外へと目をやった。
眼下に見下ろす事ができるのは、隙間なく埋め尽くされたビルというビルに色とりどりのイルミネーション。
それが美しく輝くこんな夜に、一体何組ものカップルが愛を囁き合っている事だろう。
「恋愛はひとときの刹那である。
永遠を願う心が、叶えられないからこそ美しい。」
驚き見開かれる彼の切れ長の瞳。
「…読んだのか。」
「はい。」
すっと煙草を取り出し煙を吸い込むまでの滑らかな動作に見惚れた。
けれどそのまま喉元でくっと笑う彼になんだかいてもたってもいられなくなる。
毎日毎日、開かれた画面に向き合い自らと対峙する彼は一体何を思うのだろう。
立ち上がり近付くと、そっと彼を抱きしめた。
火をつけたばかりの煙草が灰皿に手放される。
そのまま待ちきれないとでも言わんばかりに唇が重なると、二人してソファに崩れ落ちてゆく。
これも、ひとときの刹那だろうか。
永遠を願う心なんてもうとっくの昔に忘れてきてしまったけれど、遼一となら、どこにも行けないまま、どこまでもいける気がした。
私達は恋をする
永遠を夢見るにはあまりにも儚い。