喧騒から逃れる様に廊下を横切り、急に薄暗くなる階段の更に先へ足を進めた。
いつもの、通いなれた道。
通いなれた、屋上。
だけど今日はいつもとは違う景色が広がっていた。
なまえ…。
風になびく少し長めの髪が、サラサラと揺れている。
凛とした、真っ直ぐな後ろ姿。
その姿勢の良さはいつも通りなのに、斜めに覗き見えた横顔は、どこか遠くを見つめ虚ろ気だった。
何となく、声を掛けずらい。
なまえが纏う空気の中は、様々な感情で渦巻いている様に見えたから。
こんな時、晃、なら。
飄々とした風を装って、軽快な口調で、穏やかな空気で、その沈黙の壁の隙間からすり入るのだろうか。
だがそんな高度な技を使う事は、俺には到底不可能だった。
かと言って、見てみぬ振りをしながら腰を降ろす、そんな選択肢も取れない自分。
何となく、居心地が悪くて。
今日は別の場所にしよう、そう思ってなまえから目を逸らそうとした瞬間。
その、いつも血色の悪い事を気にしている彼女の白い頬を。
すーっと滑り落ちる様に。
涙が零れ落ちた。
金縛りに合ったかの様に動けなくなる足。
だけど喉は乾いて張り付き、言葉も出せそうにない。
当のなまえは、流れる涙も風に乱される髪も、何一つに反応を見せず、ただそこに真っ直ぐ立っている。
その頬を、何度か、溢れては流れ。
溢れては流れる涙を見ていた。
「零?」
永遠にも感じられたそれは、案外早くに終わりを告げる。
思いがけず響いた自分の名前に動揺を隠せずいると、振り向いたなまえの柔らかな表情。
「見られちゃった…、青春してるとこ。へへ。」
「…。」
「ごめんね、こんな所で…。
零が来るかも、しれないのは分かってたんだけど、」
…他に行けるとこなくて。
そう呟いて視線を逸らすアンタの瞳には、一体何が写っているのか。
中心で、なくともいい。
せめてその景色の片隅に、俺の姿があれば、いいのに。
「何、考えてるんだか…。」
「えっ?ごめん、…やっぱり迷惑だったよね。」
「いや、そっちじゃない…。」
…突拍子もない思考に、我ながら呆れたんだ。
いつから俺は、こんなにアンタの事ばかりを…。
こちらを向いた視線はまた外されて、なまえはぽつりと話し出した。
「大人、ってなんだろう…。
大人と子供の違い、って何かな、零。」
お前らガキとは違うんだよ。
そう言い放ち不敵に笑む白衣の男を思い出して、虫唾が走ったがすぐに頭から追いやる。
「何だろうな…。
自分で自分の責任、が取れる事は大人だと思うけど。
俺らはまだ未成年だからな。」
答えながらも、自分の経験が思い返されて若干気分が悪くなった。
「そっか、…そうだね。」
相変わらず遠い目をするアンタは、一体この問いに何を望んだ。
気の利いた答えを持ち合わせていない自分を恨む。
「きっと表面的な事でしかない、大人とか…子供とか。
自分の事しか考えてない大人もいれば、大事な人間守れる子供もいる。
だけど未成年の内は、必ず何かに守られてるから。
それを失うのが、大人。
…俺に答えられるのはそれくらいだけど。」
「…うん。
うん、そっか!
ありがとう、零。」
そう言ったなまえの顔はなぜか晴れ晴れとして、もう泣いてなどいなかった。
正直…よく、わからないが。
アンタが笑っていてくれるなら、それでいい。
そっと手を伸ばし、風に靡く柔らかななまえの髪を撫でた。
拒絶されなかった事に安堵する。
こうしていると、前と何も変わらないみたいだ。
また感傷的な気分になりかけた感情を引き戻す。
扉の向こう側から聞こえる足音が、この時間に終わりを告げるだろう。
ぐっとなまえとの距離を縮めると、驚いたその透明な瞳とぶつかる。
そして気怠そうな足音はどんどん近付いて来て。
お互いの吐息が触れる。
けれど唇が重なる事は勿論なくて。
扉が開く。
「…タイム、リミットだな。」
その忌々しい顔を視界に入れない様に注意深く振り返った。
「仲良くサボりか?」
あぁ…この男も、本当は余裕ぶっているだけじゃないのか。
隠しきれない焦りと何か言いたげなその威圧的な空気に、笑いが漏れる。
「おい、藤堂。」
「…大人になれよ、冴島。」
俺の言葉に一瞬僅かに怯んだ事を確認して、屋上を後にした。
心配した所で、取り越し苦労になるだけだろう。
扉の向こうから微かに漏れる二人の会話がそれを教えていた。
笑わないピエロ。
せめてアンタが、笑顔でいられる様に。