「ゆ、き、ちゃん。」
呟いた私の声が、静かな化学準備室で小さく響く。
「何だ。」
パソコンに向かう背中から、短い返事。
「ふふっ。」
ただそれだけのやりとりで、心が弾む様に嬉しくなる。
そっと彼に近づくと、その首に手を廻し身体を寄せた。
カタカタと響くキーボードの音と、いつもより少し速い、私の胸の鼓動。
普段は触れる事の出来ない二人の間に、流れるほんの少しだけ甘い空気。
「私ね、由紀ちゃんの背中、好き。
段々振り向いて欲しくなってくるんだけど、それを我慢しながら眺めるのが、たまらなく好きなの。」
「…お前はマゾだからな。」
そう言ってククッと笑えば、揺れる彼の髪が私の鼻先を掠める。
見た目より柔らかいその髪から香り立つ、ミントの爽やかさに胸の奥が締め付けられた。
なぜなら私は、その香りの正体を知っているから。
清涼感の強い、由紀ちゃん愛用のそのシャンプー。
市販の物に少し薬品を調合したらしいそれは、由紀ちゃんのイメージにピッタリな鋭いミントの香りがする。
休日に彼の自宅のお風呂で洗いっこすれば、包まれる同じその匂い。
それは彼と自分との境界線を曖昧にさせ、まるで髪の先まで支配されている様な甘い錯覚に溺れてしまう。
・・・たかがシャンプー1つでそんな風に感じる私は、由紀ちゃんの言うとおり、やっぱりMなのだろうか。
そんな自分に苦笑いしながら、ミントの香りを胸一杯に吸い込んだ。
「お前、そんなに俺の匂いを嗅いでどうするつもりだ。
…欲情するなよ。」
こちらを見上げる、吸い込まれそうな瞳とその言葉に、本当に欲情してしまいそう。
「だってこの匂い、好きなんだもん。」
うっとりしていたその時、私はある事に気付いた。
「あ!」
「どうした?」
「由紀ちゃんて、ヘビースモーカーなのに、あんまり煙草の匂いしないよね。」
…ちょっと今更、だった?
怪訝そうな顔で私を見る彼に、そのセリフを後悔する。
「あ?
お前といる時は減らしてるじゃねーか。
それに天才的な俺様の調合で、あのシャンプーは煙草の匂いが付きにくい、スペシャルシャンプーになってんだよ。」
スペシャルシャンプー…。
由紀ちゃんの口から発せられたとは思えないその言葉に、溜まらず笑いがこぼれた…その時。
昨日の出来事が甦る。
「あぁ!!」
「次はなんだよ?」
そっか。だから気が付かなかったんだ。
由紀ちゃんの髪から煙草の匂いがしないから。
だからてっきり私の髪からも…
「おい!聞ーてんのか?」
由紀ちゃんの苛立たしげな声に意識が引き戻された。
「昨日!
昨日零にね…」
言いかけた言葉は遮られ。
「藤堂に、なんだ?
せっかく俺が送ってやったのに、すぐに仲良くひっついて寮ん中入ってって、あの後何かあったんじゃねーだろーな?」
…私が寮に入るまで、ちゃんと見ててくれたんだ。
吐き捨てる様なその言葉とは裏腹に、優しく抱き上げられた私の身体は、由紀ちゃんの膝の上にすっぽりと収まる。
「ふふっ。
妬いてるの?冴島せんせ?」
「…先生って呼ぶんじゃねぇ。
こういう事…出来なくなるだろーが。」
そう言うと強引に口づけられた。
「ん…っ」
触れ合う唇から、全身に回り始める熱。
背中に回された彼の手を、過剰に意識してしまい汗が流れた。
「…で、藤堂に…一体何されたんだよ?」
激しいキスの合間に、甘く囁くように聞くから。
もうまるでそんな事はどうでもよくなってしまった。
「んっ…何…だったっけ…
ゆ、き…好き…」
「…あぁ。
知ってるよ…」
もう何度も交わした、由紀とのキス。
メンソールのほろ苦い味とは逆に、甘く溶かされてゆく私の躯。
…もしかして、メンソールの煙草に合わせて、ミントのシャンプーなのかな…
煙草…
そうだ!タバコ!
甘い誘惑に流されそうな頭の中に、昨日零に言われた言葉が甦ってくる。
このまま由紀に身を任せたくなる衝動を振り払いながら、何とかキスから逃れた。
話しておいた方が…いいもんね。
その相手が零だから、心配する様な事はないだろうけど。
でもやっぱり大事な事だから。
再び近づいてくる彼の頭を、先手必勝とばかり胸に抱え込み、息を整え、私は先程の話を続けた。
「由紀ちゃんとの事、零にバレちゃったみたい…」
閉じこめられた私の腕の中から、彼がその瞳だけをこちらに向ける。
…可愛い。
いつもとは180度違う、そんな子供みたいな仕草にどうしようもなく愛おしくなった。
「あぁ…だろうな。
でも相手は藤堂だ、何の心配も要らねぇよ。」
あいつがお前を傷つける様な事、するはずねぇだろ。
その言葉に思わずしんみりしてしまう。
寮の皆は、突然やってきた私を仲間に入れてくれて。
女である事が嫌になるこんな環境で、いつも私を守ってくれる。
少しずつ仲良くなるにつれて近付いた皆との距離。
でもその心を開いてくれた皆に、私は隠し事をしている。
嘘を、ついているんだ――。
「…おい!
ったく…なまえ!
お前…よくもまぁ何回も何回もそうトリップできるもんだな。」
頭ん中どうなってんだよ…
呆れた様なその声の中に、ほんの少しの悲しみを感じて、胸がキツく締め付けられた。
彼の前で巡らせた思考に罪悪感が募る。
きっとさっきの私は、酷い顔をしていたはずだ。
腕の中の彼を覗き込めば、いつになく優しい瞳。
…あぁ。
きっと今、由紀ちゃんも同じ気持ちだ。
「…悪ぃな」
予想通り、呟く様に発せられたその言葉に、もう溢れ出る涙を止められそうにない。
由紀ちゃんはいつだって全てお見通しだ。
私の事も、皆の事も。
どれくらいそうしていただろう。
何も言わず、ただ私の髪を撫でる彼の手に、愛されている実感に、心が暖かくなってゆく。
そして段々と脳内が現実へと切り替わってきた。
思い切り泣いたせいか、なんだか心もすっきりして清々しい。
…なんて言ったら怒られるかな?
それにそろそろ降りないと…
「んなヤワな体してねぇよ。
俺を誰だと思ってる?!」
「えっ…!」
「…まぁ、確かに自分だけすっきりするのはどうかと思うがなぁ?
でも、とにかくあんま…ため込むんじゃねーぞ。」
「えぇっ…!」
私、無意識に声に出してたのかな…
その時、またあのほろ苦いキスが降ってきて。
流されゆく意識の中。
私のシャンプーも、スペシャルシャンプーにしてもらおう。
…だとしたら、私のイメージはどんな香りなのかな。
そんな事をふと考えていた。
「あっ、ねぇねぇ!」
助手席から身を乗り出して、運転している由紀ちゃんの顔をのぞき込む。
「なんだ?」
「なんで由紀ちゃんは、零が私達の事を知ってるって知ってた?の…?」
言いながら少し混乱した私を目の端に捉えると、彼はフンッと鼻で笑った。
「…さぁ?なんでだろーな?
そもそも俺に分からねぇ事があると思うか?」
気付かねぇ訳ねぇよ
。
教壇に立った途端、突き刺さる鋭く重い視線。
怒りにも、悲しみにも取れるそれは、今まで俺を見ていた怪訝そうな表情とはまるで違う。
そしてなまえを見つめる、切ない熱の籠もった瞳。
藤堂にしては珍しい程、行き場のない感情を持て余しているのが分かった。
気が…付いたんだな。
何がきっかけで、疑惑が確信に変わったのかは分からないが。
悪ぃな。
今更引き返すつもりも、お前に譲る気も、さらさらねぇよ。
「そうだ!だって魔王だもん!
由紀ちゃんは、きっと何かよく分からない黒魔術とか使って、下界の事を色々調べてるんだ!
手下が投書できる目安箱とかもあったりするのかな…」
俺はとなりで訳の分からない事を熱く語っている、愛しいなまえを見つめた。