乱菊さんが隊舎を出た後、少しして彼と隊舎を出ると、雨が降っていた。
昼間はあんなに晴れていたけれど、そう言えば雨の気配がしていたっけ。
「お前が傘を忘れるってどう言うことだよ」
彼に突っ込まれて、「すみません」と笑う。
今日は各々の部屋から出勤した為、彼は傘を持って来ていた。
傘を開くと、当たり前のように腕を掴まれ、引き寄せられる。
同じ高さにある肩に小さくぶつかって、どきりとする。
どちらかが傘を忘れない限り、一つの傘に二人で入ると言うことはないから、こんなことは滅多にない。
いつ以来だろう、随分久しぶりの状況にとくとくと胸が高鳴る。
「入れていただいてすみません」
「ああ」
頷く彼の手にする傘を、受け取ろうと手を伸ばす。
「?」
けれど、その手は空を切った。
彼が傘を持ち上げて、私の手を避けたのだ。
「隊長、私がお持ちします」
そう言って、不意に昔のことを思い出す。
あの時もこうして、彼は傘を持とうとしてくれたっけ。
拗ねたようにしていたけれど、結局最後には私が持つことを納得してくれた。
「――約束」
彼の呟きに、傘に向いていた視線が自然と彼の翡翠色へ移った。
見下ろすことなく、同じ高さで交わる視線。
「約束、しただろ」
約束、その言葉を心の中で繰り返す。
「俺の背が周に追い付くまでは、お前が持つ。俺が追い付いたら――」
まるで、昨日のことのように思い出す。
「いつか、隊長の背が私に追い付いたら――その時は、持ってくださいませんか」
「分かった。約束だからな」
あの時の、彼の少し拗ねたような表情を。
私の言葉に、見開いた翡翠色の瞳を。
優しく伏せた瞼を、小さく笑った唇を。
彼の言葉を。
「…はい」
頷いた声は震えていた。
いつかした、未来の約束。
他愛のない日常の中のそれを。
「覚えていて、くださったのですね」
「当たり前だろ」
翡翠色の瞳が優しく細められて、目頭が熱くなる。
「今日の測定で、百六十になっていた」
私と同じ。
「…追い付いた、のですね」
「ああ」
彼の手が、私の頭に乗る。
「やっと追い付いた」
照れたように、けれど嬉しそうに彼が笑うから、胸がきゅっとなる。
長いようで、あっという間だったように思う。
彼が追い付いたことが嬉しいのか、驚いたのか、それとも寂しいのか。
何だか不思議な気持ちになるけれど、それよりも。
彼の掌が頬に滑って、
「隊長、」
近付いて来る彼の顔に思わず驚けば、
「良い」
彼が傘を傾け、外の景色が見えなくなる。
優しい雨音と、彼の吐息と、それだけになる。
彼の唇が優しく触れて、目尻から雫が零れた。
彼と過ごした日々を、交わした言葉を、気持ちを、表情を、眼差しを、香りを、霊圧を、胸の中に、大切に仕舞っていた。
勿論全てではないけれど、それでも、出来るだけ全てを覚えておきたくて、目に焼き付けて、胸に刻んで、そうしてきた。
彼に同じことを求めているわけではない。
けれど、同じように思ってくれていたことが、大切にしてくれていたことが、嬉しかった。
あの時交わした約束を、些細な、小さなそれを、ずっと覚えてくれていた。
「忘れるわけねぇだろ」
頬を伝う涙を、彼が指で拭う。
「ずっとお前に持たせて堪るかよ」
そう言って笑うから、私も笑った。
大切な思い出に、続きが出来る。
今日のことを、私はずっと忘れない。
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