涙雨の逢瀬 | ナノ
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紫蘭――名を、呼ばれた気がして、目が覚めた。
耳に入る雨音に、まだ雨が降っていることを知って、彼女のことを思い出す。
胸騒ぎがした。
何故か分からないが、こんな時間にいる筈もないのに、屋敷を出て、あの場所へ急いだ。

昨晩、彼女は来なかった。
珍しいことではない。
約束しているわけではないのだから、会うのは偶然。

屋敷を出る時は地を強く叩いていた雨は、小雨に変わり、間もなく止むだろうと思えた。
東屋の前に人影が見えて、足を止める。
その人物は、傘を差していなかった。
女が、地面に座り込み、涙を零していた。
その様子があまりに美しく、傘で顔を隠すことも忘れて、瞬きも忘れて、唯見入っていた。

「貴方が好き。初めて会ったあの時から、きっと、ずっと」

女は言った。
その紅く美しい唇で、愛を紡いで、

「紫蘭、あなたを、愛していました」

また、涙を流した。

女は立ち上がり、此方に気が付くこともなく、反対の道へと姿を消した。
驚いたまま、呆けたまま、その場で動けず、立ち尽くす。

「蓮華……、」

あれは、あの霊圧は、声は――彼女だった。
蓮華――幼い頃、此処で出会った少女、否、もう少女等ではないが。
初めて、彼女の顔を見た。

母は私を産んで直ぐに死に、父は私が幼い頃に死んだ。
父が死んだ日、あの春雨の降る夜、彼女と出会った。
同じように、何かを失った彼女と並んで、私達は泣いた。
それから何度も此処へ来ては、私達は同じ時間を過ごした。
雨の日の夜、僅かな時間だけ、私達は共にいた。
妻が死んだ日、あの日も此処へ来て、彼女の隣で泣いた。
絶望して、喪失感に襲われ、生きることが、生きていることが苦痛に感じて、何もかもが辛く、悲しく、苦しかった。

「泣き顔も傘が隠してくれる。嗚咽も雨が打ち消してくれる。だから、泣けば良い。此処で泣いて、そうしたらきっと、また前を向いて歩けるわ」

いつか私が言った言葉を、一語一句相違なく彼女は言って、いつか私がそうしたように、私の手に自らの手を重ねた。
細く白い、柔らかで温かい手。
幼い頃とは違う、成長した彼女の手。
私はその手に、彼女に、支えられていた、救われていた。

恋なのか、友なのか、愛なのか、情なのか、分からなかった。
唯一つ、彼女との時間を、大切に思っていたのは確かだ。
何も知らない彼女の前でだけ、私は地位も立場も忘れて、唯の紫蘭だった。
それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
私は妻を心から愛していたし、何より大切だった。
妻への気持ちと、彼女への気持ちは違う。
それはあの時も、今も、変わらない。

知らないこと、知ろうとしないことが、良いことで、都合の良いことだと思っていた。
それは彼女も同じだと思う。
けれどいつしか私は、彼女を知りたいと思うようになった。
傘で隠された顔を、雨音で時折消されてしまう声を、どんな瞳で自分を見るのか、知りたいと思い始めた。
傘も雨も夜も、彼女を隠すものを全て取り払い、彼女を見たいと思った。
それを、恐らく彼女は望まない。
知られることを、彼女は恐れているように見えた。

互いに成長し、いつか終わりを迎える時を恐れた。
いつしか彼女との時間が、彼女自身が、支えになっていた。
大切で、特別で、守りたくて。
彼女の言葉で、それに漸く気が付く。
何も知らないのに、それが手遅れのように思えて、焦りが、戸惑いが、胸を締め付ける。
私は蓮華を、彼女を――、

雨が止み、雲の隙間から朝日が差して、彼女のいた場所を照らした。

「紫蘭」

彼女の声を思い出す。
此処で会っていた彼女はきっと笑っていた筈なのに、そうであって欲しいのに、思い出すのは、今見たばかりの泣き顔だけ。
彼女はどのような顔で笑うのだろう。
どのような顔で、私を呼ぶのだろうか。


苦しみはいつしか愛に




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