涙雨の逢瀬 | ナノ
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「母は、姉様は、私が幸せになることを許して下さるかしら」

彼と結婚することが、山吹の未来を良い方向に導くかもしれない。
けれど、母は、姉様は…。
私には、あまりに幸福過ぎて。
人に憎しみと不幸しか与えなかった私が、これ以上の幸せに身を委ねることを、赦してもらえるだろうか。

「お前の母と姉がお前をどう思っていたか等、私には分からぬ」

「だが、」と、彼の手が私の手に重ねる。

「その名と、言葉を、お前は信じているのだろう」

私の名、紬――それは、母が付けた名だった。
何も遺してくれなかった母が、唯一残したもの。
意味も、理由も、分からない。
けれど、私はこの名が好きだった。
母が付けたこの名が、母が呼ぶこの名が、大切で、好きだ。

言葉――姉様が、私を憎いと言いながらも、私を愛していると言ったこと。
嫌いで、憎くて堪らないと、苦しそうに吐き出したけれど、それでも、好きだと、愛していると言ってくれた。
それを、私は信じている。
姉様が私を憎んでいたことも、愛してくれていたことも、両方とも真実だと。

「ええ」

重ねられた手をそっと握れば、彼のもう片方の手が私の髪を梳く。
彼と同じ、漆黒の髪。

「これからは、己のことだけを考えろ」
「え?」
「周囲のこと等全て後回しにすれば良い。お前は己を一番に案じ、優先しろ」

彼の言わんとしていることが理解出来ずに、少し考える。
彼は勘違いしている。
私はいつだって自分のことばかり考えていた。
自己中心的で、利己主義だ。
彼にはそうは見えないのだろうか。

「それは貴方でしょう。貴方は私のことばかり考えてくれているではないの」

きっとそれを、彼は気が付いていない。
だから彼は、とても優しい。

「それに私は、これまでも自分のことばかり考えていたわ」

でも、

「同じくらい、貴方のことばかり考えていた」

自分のことと、彼のこと、今までもずっと、私はそればかりだった。

彼の手が後頭部に回って、手を引かれ、そのまま彼の胸へ導かれる。
驚きに目を見開く。
彼に抱き締められたのは、初めてのことだった。
今まで手に触れたことしかなくて、あの日も、頬に触れただけ。
それでも、それだけで充分で、私の胸も、何もかも一杯だったのに。
彼の霊圧を、香りを、温もりを、全身に感じて。
身も心も、包まれているよう。
温かなお湯の中に、春の日差しの中にいるかのよう。
――満たされていく。

「紫蘭、」
「…白哉だ」
「……白哉」

彼の名前と一緒に、瞳から滴が零れて、彼の胸元を濡らした。

彼が、そっと身体を離す。
伏せていた視線を上げれば、自分と同じ漆黒の瞳と合う。

「私は今まで、何の為に生きてきたのか分からなかった。死なない理由を見つけても、生きていく理由は見つけられなかったわ」

彼の綺麗な指が、私の涙を掬うように拭う。
けれど、またすぐに次が零れる。

「これからは、貴方の為に生きて、貴方の為に、私は死にたい」

私の全ての理由を、白哉、貴方に。

彼の瞳から、一筋の涙が零れて、息を呑む。
月光に照らされて光る涙は、清らかで、美しい。

「私は、お前の為には生きられぬ」

彼の立場、地位、背負うもの。
彼は、当然だけれど、私一人の為の人ではない。

「だが、お前の為に死ぬことは出来る」

私の為に死ぬなんて、そんなこと絶対に駄目。
けれど、その言葉を彼がどんな気持ちで口にしたのか、私は分かる。
同じことを口にした、同じことを思う私は、分かる。

「蓮華、」
「…紬よ」
「……紬」

彼の唇が、私の名前を紡ぐ。
彼の声が、私の鼓膜を震わせる。

「紬、愛している」

彼の美しい顔が近付いて、自然と瞼が下りる。
彼の唇の感触を、柔らかさを、温もりを、優しさを感じて、また涙が零れた。

朽木邸の庭でその年初めて、梅が咲いた日。
雲一つなく何処までも青が続いているような空に、世界の全てを照らすように輝く太陽の光の下で、私と彼は、夫婦になった。


いつか夢に望んだもの




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