※百合、死ネタ、掌編


海の音が遠く聞こえる、春宵の廃寺だった。
三十日月のかすかな明るさが死ぬ夜を待つために、なまえと一緒に寺で一夜を過ごすことになった。
朽ちかけたお堂の隅で、二人並んでボロの壁に寄りかかっていた。大きな波が岩にぶつかって砕ける音がして、目には見えない海を感じた。

「私、死んだら魚に生まれ変わりたい」

涼風が時折、木板の壁の隙間から吹き抜けて、ビョウ、と笛のような音を立てるなか、なまえが唐突にそう言った。

「あんなに広い海を泳ぎ回れるんだもん、絶対楽しいよ」
「えー」

遠い海に思いを馳せるような目をしたなまえの隣で、私はあからさまに顔を顰めた。

「私はまた人間でいいわ、だって魚クッサいのイヤだもの」
「あはは、それもそーだ」

カラっとしたなまえの笑い声が軽やかに響く。この笑い声が好きだった。

「照代ちゃんは、いい香りだもんね」

肩にもたれかかってきたなまえの髪の毛が、二の腕のあたりで揺れてこそばゆかった。ふわふわとした髪の毛の先に、心の底のあたりを撫でられているみたいだった。

「血の匂いとかしない?」
「ううん」

梅の花みたいに凛として、優しい香りがする、と言った。それから、甘えるみたいに額を肩口に擦りつけてきた。
そういう日のことを、よく覚えている。



「つぎに生まれ変わるなら、やっぱり魚がいい」

背中に乗せたなまえの腹から流れ出てくる血が熱い。もう喋らないで、と何度言っても、なまえは言うことを聞かなかった。
二人して手負いのままに逃げて、もうじき夜が明けるはずの仄暗い山道に出た。とにかく、傷がひどいなまえを診てもらわなくてはならない。
山を下らなければ。
その一心でなまえをおぶって、鉛の弾に貫かれた足を引き摺りながら、無心で足を前に運んだ。

「照代ちゃん」

掠れた声に名を呼ばれた。涙なのか汗なのか分からない液体が、鼻筋を伝って足元に落ちる。傾斜のきつい下り坂に、つんのめりそうになるのをなんとか堪えながら、足を早めた。

「その時は照代ちゃんがつかまえて」

その時、とは生まれ変わったら、ということだろうか。そうなのだとしたら、こんな時にそんな話をするのは、あんまりにも酷い話だと思った。

「照代ちゃんの、手のひらの温度でやけどして、それで死にたい」

食いしばった歯の奥で、嗚咽にすらなり損なった声が醜い呻き声になる。
死に様を選べない私たちが、せめてもの望みを持てるのは、もう次の生でしかないのだろうか。

「馬鹿言わないで」

それでもなまえの命に縋り付いてしまう、これは愛情なのだろうか。醜い執着なのだろうか。
彼女の体から流れ出た血に、こんなにも塗れておきながら、それでもなお諦められないこの気持ちは、どれだけ醜くとも、正しくなくとも、愛であると叫びたかった。

「もう少しで町に着くから! もう少しだから、だから、」

言葉の途中で、ちっぽけな石にけっつまずいて、自分の体も、なまえの体も地面に放ってしまった。足の傷がじくじくとした熱を持って、もう棒のように動かなくなっている。
私の顔のすぐそばに、なまえの顔がある。あれほど動いていた唇が、わずかに開いたまま動かなくなっていた。

あんなちっぽけな弾ひとつで、ロクに動かなくなる足なんていらない。
魚に生まれ変わったなまえを、殺してしまう手もいらない。
無様に嗚咽を繰り返すばかりな喉もいらない。

だからやっぱり、私も魚になりたい。なまえとおんなじ。それで、なまえと一緒に大きな海を見て回るの。

「もうこんなのはうんざり」

東の山の端から漏れ出る朝日に眼が焼かれた。夢見た海は遥かに遠い。