そろそろお昼ご飯を食べに食堂へ行こうと思い、自室の戸を開ける。部屋を出ていこうとした、その足元にあるものをあわや踏みつける寸前で気づき、ひょいと拾い上げた。

「タチバナだ」
「は?」

唐突に呟いた私の言葉に、部屋の奥で書き物をしている同室の友人が怪訝そうな声をあげた。

「あんた……いくら四年前に卒業した人だからって立花先輩を呼び捨てにするなんて……」
「違ーう、花! 花橘!」

こちらを見もせず適当なことを言う友人の元へ駆け戻り、ほら!! と鼻先にそれを突きつけた。

「あ、ホントだ。いい香り」
「ね」
「なまえの好きな花だよね、橘の花」
「うん」

真っ白な花から、清らかに澄んだ香りが漂ってくる。細い枝に5つほどの花が咲いていて、深い緑の葉がみずみずしく光っている。私の一番好きな花だ。

「誰かが部屋の前に置いてったの?」
「うん、多分」

友人の問いに頷きながら、私は頭の中でひとり、懐かしい顔を思い浮かべる。

「心当たりがある」



昼時まっさかりで賑わう食堂の、奥の席に腰掛けて呑気にうどんを啜っている田村先輩を見つけた。
卒業しても、先輩は時々学園にやってくる。照星さんと一緒にやってくることもあれば、一人でフラッとやってくることもある。らしい。
そうらしいのだが、そういう時に限って私は野外演習があったり課題で学園外に出ていたり。おかげで私は田村先輩が卒業してから丸一年近く、先輩に会えていなかった。「田村三木エ門先輩が学園に来てたよ」という話を、後から聞いてばかりだったのだ。
卒業した先輩に会える可能性があるというだけで心は救われたけれど、それでも、どれだけ再会を望んだことか。一つ、深い呼吸をしてから先輩のほうを目指し、歩き出す。
今日は一人でいるようだ。先輩は、うどんをずるずるいわせながら視線だけを私のほうへ寄越す。ちょうどよく空いた先輩の前の席に腰掛け、私は手にしていた花橘を、そっと卓上に置いた。

「気づいたか。結構時間かかったな」
「気づいたか、じゃないですよ! いつあの部屋の前に来たんですか?」
「四半刻くらい前か?」
「何でフツーに声かけてくれないんですか〜!!」

気づかなかったらずっと先輩に会えず、先輩はそのまま帰ってしまう気だったんじゃないかと思う。なんでそう、ギャンブルめいたことをするのか。かっこいいと思ってるのか、そういうの。こういう、変なところで説明が足らない感じは、潮江先輩に似てしまったのだろうか。
うどんを食べ終わったらしい田村先輩は、ごちそうさまを言うなり花橘に手を伸ばし、小さな花弁のような火傷跡が残る指先で、ちょんちょんと花を撫でた。

「花橘」
「え」
「お前、どうして花を持っていったのが私だと分かった?」
「どうしてって……」

田村先輩の目が、まっすぐにこちらへ向いた。その眼差しの強さに面食らいながら、しどろもどろに口を開く。

「好きな花の話をした覚えがあるの、クラスメイト以外だと田村先輩だけだったので……私の誕生日ももうすぐだし、ひょっとして先輩が持ってきてくださったのかな〜、と」

恥ずかしくなって、田村先輩から目線を外しつつ答える。
そう、私はずっと好きだった田村先輩に自分の好きな花の名前を教えた。「好きな男に花の名前教えとくと良いらしいよ、花って一年のうちに必ず一回は咲くからその時に自分のこと思い出してもらえるように、的なやつ。なんか偉い人が言ってた」という友人の言葉を間に受け、私は先輩が卒業する前に、気持ちは伝えられなかったが好きな花の話をした。
と、いうことの顛末があるので、まさかしっかり成功するとは思っておらず、恥ずかしいことこの上ないのだ。
えへへ、先輩、覚えててくれたんだぁ、などと浮かれる私を尻目に、先輩はあろうことか「はあ」とため息をついた。

「え、いや何でため息!!」
「いや、私も回りくどかったかもしれないなぁ」
「は??」

痛い頭を支えるみたいに、額を手のひらで抑える先輩を前に、私は頭のてっぺんで大量のハテナを浮かべることしかできなかった。

「お前も学園にいるうちは、ちゃんと勉強するんだぞ」

のっそりと腰を上げた田村先輩は、盆に手をかけながらそんな野暮なことを言った。

「和歌の勉強とか。しておくと、方方で話のタネになるし」

盆を片手に、通り過ぎざまで私の頭を撫でていった先輩は、そのまま食器の返却に行ってしまった。

「何なんですか、せっかく来たのに……」

先輩の大きな手の感触が優しく残る頭を抑え、むっとしながら先輩の背中を見送った。
結局、先輩はすぐに、まるで逃げるようにして学園を出ていってしまって、私はほとんど先輩と言葉を交わせないままその日を終えたのだった。

のちにうっかり図書室で花橘の持つ意味を理解してしまい、次に田村先輩が来るまでの間中ずっと悶々とし続けることになろうとは夢にも思わなかった。