就寝前、船内の自室で本を読んでいると、扉の向こうに人の気配を感じた。
コ、コン、と。ゆっくり2回のノック音。少し重いその音だけで、扉の向こうにいる人が誰だか察しがついてしまう。

「おい、なまえ。いるか?」
「はい」

やっぱり、ドレークさんだ。
呼びかけに答え、腰を上げる。扉を開け、部屋の中にドレークさんを招き入れた。

「おれを探していると聞いた。何だ?」

部屋に入るなり、早々と本題に入ったドレークさんに答えるため、私は机の上に置きっぱなしになっていた帳面を手に取る。それをぱらぱら捲り、目を通しながら口を開いた。

「そろそろ物資補給を検討したほうがいいんじゃないかと思いまして。水に余裕はありますが、食料が少しずつ駄目になってきてるみたいです。それから、先日の海戦で出来た船のキズを直すために資材をかなり消費したので、それらの補給も必要だ、とのことです」

軍でもそれなりに事務仕事をこなしてきた私は、この仮初の海賊団においても、そうした役割を担っている。船員さんそれぞれからの要望を聞き、それらをまとめて船長であるドレークさんに報告するのだ。
ドレークさんは報告するまでも無く、船内の状況をある程度把握していることのほうが多い。でも、このところ軍との連絡の取り合いや、そのための報告書をまとめるのに忙しそうだったので、念のため報告をと思ったのだ。

それから、私が「ドレークさんのことを探している」と、人に言伝してまで部屋に来てもらったのには、もう一つワケがある。

「分かった、あとで航海士と相談する。報告ありがとう、助かった」

ドレークさんは頷くや、早々に踵を返そうとした。

「じゃあ、お前ももう寝ろよ」

振り返り、すぐ後ろの扉に向かって手をかけようとするドレークさんと、扉の間に飛び込むようにして割って入る。

「ま、待ってください!」

ほとんど強引に、通せんぼするような格好になった私を前にして、ドレークさんはちょっと珍しいくらい目をまん丸にした。

「えーと……」

ここまでは事前に描いたシナリオ通り。でも、いざ口に出そうと思うと恥ずかしさで唇が重たくなる。馬鹿みたいだと思われるかもしれない。呆れられるかもしれない。
それでも、私にはどうしてもやりたいことがある。

「こ……ここは今から10分間ハグしないと出られない部屋になりました」
「は」

案の定、ドレークさんはピシ、という音が聞こえてきそうな勢いで固まった。それから間を置かず、首も耳も真っ赤になるぐらいに顔が赤くなってしまった。思わず申し訳なくなっちゃうくらいだけど、それでもここで引くわけにはいかない。ここまでの私の頑張りを無駄にするわけにはいかないのだから。

「だ、だってドレークさん! 私たち、こ……恋人同士だっていうのに、それらしいことほとんどしてないじゃないですか!」

そう、私とドレークさんはお付き合いをしている。にも関わらず、そういう関係になってひと月経ち、ふた月経ち、ようやく自然に手を握れるようになった。それほどまでに私たちの関係はゆっくりペースで、なかなか進展がない。
それ以上先に進めそうな気配もなく今に至り、ついに私は自ら作戦を立て、実行する決意をしたのだ。
さあ、今日という今日こそ、ハグくらいはさせてもらわなければ。

「う……」
「と、いうわけで! 10分間ハグしないと出られません!!」
「ま、まってくれ……」

火を吹きそうな顔を右手で抑えたドレークさんは、左手のひらをこちらに向けながらタイムを要請し、弱々しい抗議の声を上げた。

「10分は……ながい……」
「じゃあ……5分で」
「5分も……ながい……」
「んもー! じゃあ1分でいいですから!」
「う、1分も、ながい……」

散々譲歩した挙句、それすら拒否しようとするドレークさんに、ちょっとムッとした。
ドレークさんが女子に弱いことは知っている。極端すぎるほどに弱いくせに、それでも私のことを好きになってくれたことは、もちろん嬉しかった。
でも、だからといって、ずっと何もしないままじゃ嫌だ。せっかく「好き」の気持ちが通じ合っているのだから、少しくらい触れ合いたいと思ってしまうじゃないか。
思い切って打ち出した「出られない部屋作戦」すら否定されたんじゃ、いよいよどうしたらいいのか分からない。
が、しかし、私にはもう一つだけ策がある。こうして断られた時のための、もう一つの秘策。

「ドレークさん、そんなに嫌なんですか」

声のボリュームを落として、視線も落として、ちょっと湿っぽい声を作ってみる。散々拒否されてさみしい気持ちは半分は演技で、だけど半分は本気だ。

「そんなに、ハグしたくないんですか」

続けざまに同じような声で言葉を発して、上目遣いにドレークさんの様子を窺ってみれば、やっぱり僅かながら戸惑いの入り混じった表情を浮かべている。隙に付け入るみたいで、ちょっとズルいかもしれないけど、効果はあったみたいだ。

「し、したくないわけないだろ……」
「ホントですか?」
「ああ」

作戦はばっちり成功、してしまった。
私がこんな計算ずくめの女だと知ったら、ドレークさんはどう思うだろう。引くかな、いっそ嫌いになるかな。でも、ドレークさんがもっと積極的になってくれるまでは私が頑張らなきゃ、きっと何も変わらない。ドレークさんが積極的になるなんて、そんな日が来るのかは分からないけど。それまでは、こんな私でも許してほしいと願ってしまう。だって、それくらいドレークさんのことが好きなんだから。

「ほら、来い」

さすがに覚悟を決めてくれたのか、ドレークさんは両手を広げて待っていてくれている。もふもふの隙間から覗く、というか覗くというレベルではないくらいに晒け出ている胸板に、さすがにおかしな動悸がしてきた。自分であれこれ仕掛けといて緊張するのもおかしな話だが、ドレークさん、諸々の反応が初心とはいえやっぱり男の人なんだなぁと思うと緊張する、そりゃする。だって好きなんだから。
言い出しっぺのくせにいつまでも躊躇していれば、ドレークさんがいつ逃げ出すかも分からない。それにそう、ここは10分間、もとい1分間ハグしないと出られない部屋なのだから。

「し、失礼します!」

と、両腕を広げ、勢い込んでドレークさんの腕の中に飛び込む。ぎゅっと抱きつくのと同時に、声にならない情けない呻き声を上げたドレークさんは再び石のように固くなってしまった。ハグっていうか私が一方的に抱きついているだけじゃないか、これ。まぁいいけど。

ドレークさんは背が高い。私がヒールのある靴を履いていても、ドレークさんの胸の下あたりに顔がある有り様だ。背中に腕を回してみても、体格の差は歴然だ。触れる場所すべてが自分とは違う、少し固い男の人の体なんだと気づいて、心臓がばくばく跳ねる。
少しして、ようやくドレークさんの腕がおずおずと私の体を包んでくれた。ドレークさん、全身熱くて正直茹だってないか心配になっていたけど、意識はあるみたいで安心した。
汗ばんだ肌から、うっすらと汗の匂いがする。それから、何だか爽やかな香りも。服を洗うせっけんの匂いかもしれない。ドレークさんの匂いと、自分が控えめにつけていた香水の匂いが混ざって、柔らかく鼻腔をくすぐる。
体中で幸福を味わっているみたいだと思った。これがぎゅっと抱きしめ合う心地良さなんだ。だんだん緊張もほぐれてきて、大きな体に包まれるような安心感が、ふつふつと、温かく湧いてくる。
そうして念願のハグを楽しんでいるうち、はたと気づく。

「ドレークさん……」
「なんだ」
「そういえば、1分数えるの忘れてました……私の体感での1分ってことにしても良いですか?」
「ちゃっかりしてるな。だが残念、おれはちゃんと60秒数えていた。ちょうど60秒だ」

言うや、ドレークさんは私の体に回していた腕をぱ、と離し、私の肩を引き剥がすように掴んだ。

「もう満足しただろう」
「う、ハイ……」
「じゃあ、おれはもう行くぞ。お前ももう寝ろ」

ドレークさんは、早口で捲し立てるようにそう言うと、早々と部屋を後にしようとした。
さすがにちょっとショックだ。さっきまで、あんなに幸せだったのに。ちょっとくらい余韻に浸ったっていいじゃないか。ムードもへったくれもないドレークさんの様子に、ほんとうの寂しさで胸を突かれたような気がした。
逃げるようにしてドアノブに手をかけるドレークさんの背中に、私は声をかけずにはいられなかった。

「ドレークさんは、嫌でしたか?」

せめて、何か言ってほしい。嫌じゃなかったって、一言だけでもいいから。
そんな控えめな我儘が通じたのか、ドレークさんはドアノブに手をかけた格好のまま動きを止めた。かと思うと、まるで海楼石にでも触ったみたいな勢いで、その場にヘナヘナと力なく座り込んだ。
それから、死にかけの蚊が鳴くような声で、

「いやじゃない……」

と、望んだ通りの一言が返ってきた。
本当にいっぱいいっぱいなのだろう。がっくりと俯かせた顔を見ることはできないけど、やっぱり耳も首筋も真っ赤だ。
冗談抜きに爆発しちゃいそうなドレークさんを前にして、それでも私には、その爆弾から解放してあげようという気持ちは湧かなかった。むしろ、爆発しちゃいそうなくらいに照れちゃうドレークさんの姿をもっと見てみたい、なんて思っている。

これからもたくさん爆弾、仕掛けちゃおうかな。
なんて思っていることは、ドレークさん本人には絶対にヒミツだ。