※SWORD等の独自解釈



「おれはお前を連れて行く気はない」

夜の深まる一日の終わり、海軍本部の執務室に呼び出したなまえを、そういう言葉で突き放したのはおよそ1年前のことだった。

海軍内部にSWORDという組織が存在すること、そこに自分が入隊すること、なまえも同じようにその組織のメンバーとして名前が上がっていること。
それから、四皇・カイドウの傘下に潜り込むべく、海賊として海へ出ること。なまえもまた、その同行者の候補になっているということ。
それらをあくまで事務的に伝えた後、わずかな動揺を見せながらも身動ぎ一つせず直立する部下に向かって、ドレークはあえて冷たい声で言った。

「おれの部下であるという理由ひとつで、お前まで海賊になることはない。お前は来るな」

頼むから、来てくれるな。
そういう意思をありったけ込めて、わざと相手を威圧するような声を作った。当のなまえの双眸は、怯むことなくこちらを見据えている。気丈さを伺わせるようにすっと伸びた背筋は、いつもと違わず綺麗だった。
普段通りを崩さないなまえの思うところを、ドレークは測りかねた。

なまえは長年ともに行動してきた部下である。真面目な働きぶりにも、肩の力が抜けるような気の置けなさにも、いつも助けられてきた。
そういう繋がりを知られていたからこそ、今回のような事態になったのだろう。潜入調査のための海賊団結成において、ドレークと最も連携の取れる者が一人そばにいるべきだ、と。
だとしても、自分の部下であったがためになまえが巻き込まれるのは避けたかった。これまで真っ当に海兵として力をつけてきたなまえの姿を、一番近くで見てきたという自負が、ドレークにはあった。
だからこそ思う。先日、ようやく中佐へ昇級したばかりの部下の、誠実な努力を踏みにじりたくないのだ、と。

糸を張ったような沈黙が重い。互いの間に張り詰めた空気が、吐息ひとつで崩れ落ちそうだった。
上司であるにも関わらず、部下相手に緊張させられている自分が情けなくすら思える。引く様子が少しもないなまえと、引いてくれと願う自分。ほとんど睨み合いに近かった。
不意に、なまえが目を伏せる。なまえが深く息を吸う音が、ようやくその場の時間を動かした。

「そのお話、お断りします」

断る、という言葉に、ドレークはわずかに緊張を解いた。
それでいい。
お前はここ本部で、あくまで一隊員としていればそれでいい。
たかだか上司と部下という関係のもとに、立場を悪くする必要など、どこにもない。
心の中でなまえに向けた言葉は、どこか自分に言い聞かせるようなものでもあることに、ドレークは気づきながら蓋をしようとしていた。

「私がついていくのをドレークさんが拒否するのを、お断りします」
「は」

一瞬、発言の理解が遅れた。
その遅れを見逃さなかったなまえは、ドレークさん、とすかさず静かに、しかし強く名を呼んだ。

「正義って、何なんでしょうか」

それは海兵であれば、おそらく幾度となく自分に、周囲に投げかけるであろう言葉だった。

「私は……海軍として上の立場にいけばいくほど、自分の背負う正義の在処が分からなくなりました。直視できないほどの歪んだ『正しさ』も、散々目の当たりにして……それでも私は」

私は、と再び口にして、なまえはそれきり口を閉ざした。あてどなさげに視線を彷徨わせ、それから静かに目を伏せる。
その後に続く言葉は何だったのだろうか。海兵でありたいと思う、か。あるいは自分にとっての正義の話をしようとしたのか。
話の指針を見失ったのか、なまえはどこかぎこちない足取りで、海に面した窓辺に寄った。

「今日は、よく晴れてますね」
「あ、ああ……」

なまえとまるで同じぎこちなさを抱えたまま、ドレークも窓辺に歩み寄った。窓の外を覗くと、水平線上に黄色みがかった満月が浮かんでいるのが遠く見える。濃紺の空をそのまま映したような海面に、月の光が揺れながら伸びていた。

「月の道、綺麗に見えますね」
「ああ……空気が澄んでいるからだろうな、今日は比較的湿度も低い」
「乾燥してると綺麗に見えるんですか?」
「空気に混じり気が無いほどな。水蒸気も光を屈折させるだろ」
「なるほど」

波の音にかき消えるか消えないかほどの声で、とりとめもないことを話す。話を逸らされたとは、不思議と思わなかった。

「海を渡る全ての清濁を併せ呑んでなお、海は綺麗ですよね」

なまえの声に、ざん、と強い波の音が被さった。寄せる波と引く波とがぶつかり合ったような音。静かな声が、それでも波音をすり抜けて耳に届く。

「本物の海賊でもない、海兵として働くこともできない、そういう半端な立場だからこそ見えるものもあるような気がするんです。はみ出したところからしか見られない景色も、あるかもしれない。あくまで海軍として、でも全く真逆の目線で物事を見てみたいと、私は思います。だから、」

なまえは言葉を切って、身体ごとドレークのほうを向いた。

「ドレークさんと一緒に行かせてください、お願いします」

腰できっちりと、身体を折り曲げるように頭を下げたなまえは、さらに言葉を続ける。

「これまで何度も迷ってきたけど、この答えだけは即答できます。曲げもしません」

意志の固さがそのまま宿ったような声に、ドレークは言葉を詰まらせた。

「それに」

と、続いたなまえの声が、ほんのわずかだが震えたように聞こえた。
そうして、おもむろに顔を上げたなまえは、

「ドレークさんの隣にいない私が、もう想像できないです」

泣きそうな、崩れそうな笑顔で言うのだった。

腹の底から「ふざけるな」「来るなと言っているだろう」と叫びたがるような激情と、目頭が熱くなるほどの安堵がせめぎ合って、言葉が出てこなかった。
胸を熱くするような歓びが生まれるのを抑えられない自分が情けなく、ドレークは重く沈むような頭を支えるように目元を覆う。
一度任務に加われば、先のことはまるで分からない。ひょっとしたら、海軍に戻ることすらできなくなる可能性もある。自分の築き上げたキャリアなど、屑同然に捨てなければならないかもしれないのだ。
それを解らないほどなまえが馬鹿ではないことを、知っているからこそ、再び突き放すための言葉が容易には浮かばない。

「なんか……よく考えてみたら」

これまでとは異なる柔らかさを含んだなまえの声に、頭をもたげる。

「今の言葉、けっこう恥ずかしいですね……」

照れたように眉を下げたなまえの笑顔が、自分の内に渦巻く全てを受け止めたような気がした。
突き放すことなど、多分はじめから出来なかった。



あの日と同じように、雲一つない快晴の夜である。

数多の煌きが海に雪崩れ込むかのような、満天の星空だった。
船尾の手すりに背を預け、身をもたせたドレークは、首を真後ろに倒すようにして天を仰いだ。冬島が近いためか、吐く息は白い。煙のように立ち昇っていく白い吐息を見送って、視界の全てを埋め尽くす星空をぼんやりと眺めた。

「ドレークさん」

嬉しげに弾む声のほうへ目を向けると、なまえが海風に煽られながらこちらへ近づいてきていた。風に靡く髪を耳にかけつ押さえつ、ようやく隣にやってきたなまえは、ドレークを倣うように手すりにもたれ、空を見上げた。

「空、見てたんですか?」
「ああ」
「今日は空気も澄んでて、月も星も綺麗に見えますもんねぇ」

ニットカーディガンを羽織った身体を縮こませていたなまえは、さむ、と呟いた次の瞬間に小さなくしゃみをした。

「今日は冷えるぞ、外に出るならちゃんと厚着しろ」
「う、油断しました……でもドレークさんだっていつも前はだけてるじゃないですか」
「俺は平気だ」
「ええ……嘘、そんなに肌出してるのに……」

なぜか不満げな声を上げるなまえに溜め息をつきつつ、ドレークは肩の金具を外し、羽織っていたマントをなまえの頭から被せた。

「わ、わっ。ありがとうございます」
「いや」
「大きすぎて引き摺っちゃいますけど」
「好きに使え」
「はい、えっと……あれ、端っこどこだろう」

話をしながらあれこれ試した結果、結局半分に折って肩から羽織ることにしたらしい。羽織るというより、ほとんど包まるような形になったなまえの姿に、ドレークは顔を逸らして小さく笑った。
『元海兵の海賊』というラベルだけで騒がれ、やたらと衆目を集める立場となった今。こうして海の真ん中で、二人で他愛もない会話をしながら空を見上げる時間が、どうしようもなく救いとなっていた。

絶え間なく耳元に寄せる波の音に気を取られていると、手すりを掴んでいた右の手に、なまえの左手がおずおずと重なった。

「なんっ……! な、何だ、急に!」
「えーと、あの……さ、寒いので」

明らかに言い訳じみているが、言葉の通り、冷えた手だった。こちとら手が触れただけで顔から首まで熱いってのに。平静を装いつつ、ドレークは頭の中だけで悪態めいた意味の無い照れ隠しをした。
ふと、なまえの薄い手のひらの温度が、少しずつ上がっていくのを感じた。

「……離せって言われても、お断りしますからね」

空を見上げる顔を盗み見ると、なまえは暗がりの中でも分かるほどに赤面している。

この航海になまえを連れ出したことが正しかったのか、いまだに自問を繰り返すことがある。勝手に救われた気になって、同時にそれが独りよがりであるような気もする。
だが、結局いつも、それが杞憂であるらしいことを本人に思い知らされてばかりだ。どうしたって突き放すことも出来ない、手離すことも出来ない。なまえ自身にその気もない。

手の甲に重なっているなまえの手を、そっとほどいて、改めてその手を握り込む。

「あー、と……寒いならもう部屋に戻るか」
「いえ、せっかくなので、もう少しこのままで」
「……風邪ひいても知らんぞ」
「もう寒くないです、暑いくらいです」
「暑いはさすがに嘘だろう」
「誰のせいだと……」

む、と赤い顔を俯かせたなまえの体温が、掴んだ手から伝わってくる。暑いというのは、あながち大袈裟なわけではないのだろう。

彼女に向ける感情が歪かもしれないとしても、この手だけは離せないのだと、分かっている。分からされてきた。
戻れない道を歩むような航海の最中で、小さな手を解放してやることもできない男のことを、あと少しだけ許していてほしい。