※友情夢
※オリジナルキャラが少しだけ


雪解けの水をたっぷり吸い込んだ緑の山の中、わたしは小袖の裾を泥まみれにして転がるように走っていた。
背後には、鎌や槍を手にした山賊らしき男2人が今にもわたしの襟をふん捕まえようと迫ってきている。山の冷たい空気を肺に吸い込むたび、喉がヒリヒリと痛んだ。
もうだめだ、わたしはもう、ここで捕まるんだ。
金をよこせ、その高そうな着物をよこせ。がなる男の声に心が挫けそうになった。いっそ捕まってしまったほうが楽かもしれない。悲鳴をあげる足を無理矢理動かす気力も尽きようという、その時だった。
ほとんど人も通らない道なき道の先、拓けた山道に、ひとつの人影を見た。
助けてもらえるだろうか。でも、あれが男たちの仲間だったら? それこそ本当にわたしの命は終わる。でも、もうそんなこと考えていられない。四の五の言ってはいられない。一か、八か。

「助けて!!」

わたしが叫んだのが先か、その人がわたしの手を掴んだのが先だったか。手を思い切り引かれたかと思うと、その人はいつの間にやら手にしていた砂を男たちの顔面に浴びせた。

「走って!」

その人の声に弾かれるように、足が勢いづいた。ぐんぐんと手を引っ張られながら、息も絶え絶え食らいつくように走る。
背後からは「いってぇ!」「なんだこりゃ、菱の実か!」という男たちの慌てたような声が聞こえたが、必死に足を動かすうち、やがてそれも遠くなった。

「あ、あの、ありがとう、ございました……」

男たちの声は少しも聞こえなくなり、沢のそばまで逃げられた。彼が手を離したタイミングでお礼を口にする。とはいえ、顔も上げられず、着物が汚れるのも構わず膝を地面につきながらという、なんともみっともない姿で、だが。
ぜえ、ひゅう、と喉からおかしな音がするほど息が切れている。胸のあたりを手で押さえ、呼吸を整えた。

「はい、どうぞ」

返事の代わりに返ってきた言葉に顔をあげると、その人は竹筒をこちらに差し出していた。
年はおそらく同じくらいか、少し上か。優しそうな顔をした、茶色がかった髪の男の子だった。

「沢の水。今、そこで汲んだから」
「え、あ、」

戸惑うわたしに、ほとんど押し付けるようにして竹筒を渡した男の子は、辺りを一通り見回してから、しゃがみ込むわたしの前に胡座で腰を下ろした。

「さっきの奴らは、ちゃんと撒けたみたいだよ」

だから安心していい、とでも言うように、男の子はまん丸な目を細くして笑った。
その様子に肩の力が抜け、わたしはようやく竹筒に口をつけることができた。雪解けの時季の冷水を飲み込むだけで、体中の疲れが薄まっていくようだった。ほっと、一つ息を吐く。

「あの、ありがとうございます、本当に……」
「いーえ。あいつら多分、山賊だと思うけど。君は一人で歩いてたの?」
「いえ、従者が一人いたんですけど……は、はぐれてしまって」

従者を放って一人で逃げた、自分の情けなさを晒け出すみたいで、恥じ入るように視線を落とす。すっかり泥に塗れた着物を、ぎゅっと握った。

「あの、わたし、みょうじなまえと申します」
「私は三郎。よろしく」

三郎と名乗った彼は、気安い笑顔で軽く頭を下げてから、すぐに真剣な眼差しをこちらに向けた。

「で、何があったのか、聞いてもいい?」
「はい」

こんなことに巻き込んでしまったのだ、聞かれて話せない訳がない。

わたしは、とある土地の在地領主である父の元に生まれた四女であった。末娘であり、上には歳の離れた姉や兄しかいない。父母曰く、それが原因でわたしはいわゆる「箱入り」になったのだという。
家の中でさんざ可愛がられて育ったうえ、家の外の人との交流が少ないまま育ったわたしは、いわゆる「外交」というものが全くできない子になっていた。
家族や近しい者以外の人と話すのが苦手。大勢での集まりも苦手。親類縁者であろうと、何年も会っていない人となると、変に緊張してしまう。
もう、よそと婚姻関係を結んでも良い年ごろになったにも関わらず、それではいけない。
そう思った父は、わたしをとある場所へ預けることにした。家を出て、そこで三年ほど学ぶように言われたのだ。

「その場所については、あまり口に出してはいけないと言われているのですが……」
「なるほど、それでその場所を目指して歩いていたら山賊に絡まれた、と」
「はい、逃げるうちに、従者の十太郎ともはぐれてしまって……」

首を垂れるように頷き、そのまま顔を上げられなくなる。
わたしを逃すために立ち止まった十太郎はどうなってしまったのだろうか。わたしは、彼に言われるまま逃げて、でも結局は追いつかれそうになって、こうして関係のない人を巻き込んでいる。

「あれ、人と話すのが苦手なんだよね? 私とは普通に話せてるみたいだけど」
「そ、それは……何が何だか分からない事態の最中だったから、流れで……」
「フーン、そういうものかぁ」
「う、そういうもの、みたいです……」

会ったばかりのわたしに対しても、フランクに話してくれる男の子が相手だから、というのもあるかもしれない。彼が一体どんな立場の子なのかは全く分からないけれど、話していると、何故だか言葉が途切れない、不思議な安心感がある。三郎くんには、人を緊張させない何かがあるように思えてならなかった。

「とりあえず、みょうじさんは私が目的地まで送っていこう」
「え、で、でも……」
「例のお付きの方だって、仮に助けられたとしても、君が目的地に無事辿り着かなきゃおちおちお家に戻れないだろうし」

仮に、という言葉に血の気が引いたわたしの顔を見て、三郎くんは苦笑いを浮かべ「大丈夫、君を送った後で私が助けに行くよ」と宥めるように言った。

「目的地までの地図、見せてくれる?」

すっかりお世話になる方向で話が進んでしまっている。懐から取り出した地図をおずおず差し出すと、三郎くんはすぐにそれを広げ、紙の上に目を走らせた。

この人は、一体どんな人生を歩んできたのだろう。山賊から逃げる時も冷静で、まだ賊がいるかもしれない山の中、見ず知らずのわたしを目的地まで送ってくれようとしている。おまけに、従者のことまで助けてくれるというのだ。わたしと、ほとんど年が変わらないように見えるのに。
だというのに、わたしは何て役たたずなんだろう。
家を出る時、学ぶべきを学ぶまでは家に帰れないと、父に言われた。けれど今、改めて自分の弱さを眼前に突きつけられたようで、「どうしてわたしがこんな目に」と、思わずにはいられなくなった。

「帰りたい……」

もう自分の底が見えたような気になって、わたしは思わず膝を抱え、腕の中に顔を埋めた。

「どうせ、どこに行ったって、わたしは……」

涙が滲んだような声が、また情けなかった。
わたしみたいに、外を出歩くことすら慣れていないような人間が、どう変わるとも思えなかった。どこにいこうが、何を学ぼうが、わたしは役たたずで弱気なわたしでしかない。なら、いっそもう家に帰って、父に泣きついてでもこの話を無かったことにしてもらったほうがいいんじゃないか。

「でも、ちゃんと『助けて』が言えたじゃないか」

三郎くんの、思いがけない言葉に顔を上げる。
膝の上で広げた地図に視線を落としていた彼は、上目遣いにこちらを見て、口元に微笑を浮かべた。

「今回みたいにさ、人とのコミュニケーションなんて、案外どうとでもなるようになるもんだよ。誰かを信じて手を伸ばすことができるってのは、生き抜く力になり得るはずさ」

彼は軽い調子でそう言って、地図を畳んでこちらに寄越した。

「さ、行こう」

膝を叩くようにして立ち上がった三郎くんの、迷いのない顔を、わたしは目線だけで追いかけた。
助けて、と言えたのは、わたしが弱いからだと思う。弱いから、助けを求めることしかできなかった。
でも、三郎くんは、そうじゃないと言ってくれた。手を伸ばすことを、コミュニケーションとして肯定してくれたのだ。

「ほら」

優しく差し出された三郎くんの手を、そっと握る。
力強く手を引いてくれた、その手の温かさを知ることも、ひょっとしたらわたしにとっての小さな一歩になるのかもしれない。



「連中だ」

湿っぽい草を踏みしめながら、森の中を歩いていると、ふと三郎くんが低い声を上げた。
その視線の先を追うと、拓けた山道を挟んで反対側の林に、山賊らしき男たちの姿が見えた。

「幸い、まだこっちには気付いてないみたいだ。このまま静かに通り抜ければ……」
「あっ……!」

よく見慣れた姿を目に留めて、思わず小さく、喉の奥で叫ぶ。

「十太郎……」

山賊に取り囲まれている男の横顔が、まさに十太郎のものだった。

「ああ、例のお付きの……捕まってたのか」
「どうしよう……」

壮年で腕は立つ男だが、数の差は大きいのだろう。おまけに腕を縛り上げられているので、下手に動くことすら出来ないようだった。

「よし、私があの人を助けにいく。混乱を引き起こして奴らの気を引くから、その隙にみょうじさんは目的地まで走るんだ」
「え、でも……」

そんな、囮みたいな役割を三郎くんに押し付けてしまうのは気が引ける。かといって、他にいい案が浮かぶのかと聞かれたら、そんなものは無いに等しい。わたしが三郎くんを手助けする、なんてことはおそらく無理で、逆に足を引っ張る未来しか想像できなかった。

なら、せめてわたしは目的地まで全速力で走る。
そして、助けを呼ぶ。出来るだけ早く駆けて、誰か腕の立つ人に、一緒に来てもらう。

「分かりました」

それで、今度はわたしが三郎くんを助けよう。
心の中でそう決め、こくりと頷いた。
わたしが首を縦に振ったのを見た三郎くんは、小さな声で「よし」と呟いた。
それから、何だかイタズラっ子のような笑みを浮かべて、その場でくるりと一回転しながら、何だかよく分からない言葉を口にした。

「ちょっと顔借りるよ」
「へ?」

どういう意味? と聞くことすら忘れて、わたしは三郎くんの顔、三郎くんだったはずの顔を指差し、ポカンと口を開けた。
三郎くんの顔が、わたしの顔になっている。
自分でも何を言っているのか分からないが、そうとしか言えない現象が目の前で起こった。ほんの一瞬で、三郎くんの顔はわたしそっくりになっていたのだ。

「え、な、どういう、え?」
「よし、じゃあ私は行くから、みょうじさんはダッシュだ!」
「ちょ、ちょっと!?」

顔についての説明は!? と叫べるなら叫びたかったが、さっさと敵の懐に飛び込んで行ってしまった三郎くんの勇姿を無碍にはできず、わたしは仕方なく走り出した。

上りの山道を走るのはキツい。少し走ると、さっき山賊から逃げた時に溜まった疲労がじわじわ蘇り、すぐに息が切れてきた。ふくらはぎが痛い、太ももも破裂しそう、こめかみには汗が幾重も伝っている。まだ春先であるというのに、顔は熱くてたまらなかった。
ひいひい言いながら走っていると、背後から大きな足音が近づいてきた。まさか、山賊が追いついてきたのだろうか。
肝が冷えて、ほとんど泣きながら振り返ると、そこには見知った顔があった。

「十太郎!?」
「なまえさま、本当にご無事でしたか!良かった……!」

十太郎は、安堵したような笑い皺を浮かべ、わたしの隣を並走した。

「いやぁ驚きました、あなたさまが私めを助けに来たと思ったら、それは若い男の化けた姿でして……急ぎあなたさまを追うように言われましてな。あれは何でしょうか、正一位の使いか何かですか?」
「多分違う! 多分、人! ていうか今は目的地に急がないと……!」

微妙にズレた感想を口にする間の抜けた従者へ、息も切れ切れに応えながら、わたしは目の前に迫る漆喰の美しい塀と、立派な門を目に留めた。

「あそこ!!」

あれが、わたしの目的地だ。そう気がついて、わたしはグン、と足を早める。その勢いのまま、倒れ込むようにして扉を叩いた。

「だ、誰か! 誰かいませんか!」
「はあい」

こちらの必死さなど意に介さないような、気の抜けたような声が返ってきた。

「どなたですかぁ?」

開いた扉の向こうからは、黒い服を着た男の人が現れた。キョトンと目を丸くするその人に、わたしはずっと頭の中で考えていたことを慌てて伝えようとした。

「えと、わたし、みょうじなまえと申します……あの、どなたか私の恩人を助けていただけませんか! 今きっと山賊と戦っていて、あの……!」
「お、落ち着いて」

驚きながらも、その人は門の中へわたしたちを招き入れてくれた。
とにかく息を整えて、落ち着いて。でも、急がないと三郎くんが危ないかもしれない。
疲労で混乱する頭をどうにか宥めようとして、わたしは深く息を吸い込んだ。ゆっくりと細く息を吐いていき、次第に冷静さを取り戻した頭の中で、言いたいことをまとめていく。

「あの!」
「あ、小松田さん」

再び切り出したわたしの声と、やけにのんびりした声とが、ほとんど同時に重なった。

「あれ、鉢屋くん。おかえりなさい」

黒服の男の人は、間伸びした声でそう言った。
振り返ってみれば、ちゃんと三郎くんの顔をした三郎くんが、そこに立っていた。

「みょうじさん、無事着けたんだね。良かったよかった」

あっけらかんと笑う三郎くんに、わたしは腰が抜けた。

「えっ……三郎くん? さ、山賊は? ひょっとして、一人でみんなやっつけちゃったの……?」
「まさか!」

あくまで笑顔を崩さない三郎くんは、笑い混じりに首を振った。

「それは流石に骨が折れるから、適当に撒いてきたよ」

三郎くんは小さく肩をすくめて、わたしの目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。

「みょうじさん、ここがきみの目指してた場所」

三郎くんの人差し指が指し示すほうに目をやると、立派な建物がすぐそばにあった。今の今まで必死だったせいで、目に入ってすらいなかったが、それはちょっとした大名の屋敷と見紛うほどの規模である。

「ようこそ、忍術学園へ!」

イタズラっぽく笑う三郎くんの言葉に、反応したのは「小松田さん」と呼ばれていた男の人だった。

「あ、そっか。本日より忍術学園に編入するみょうじなまえさんですねぇ!」
「あ、えっと……」
「もうお友だちができたんですねぇ、良かった!」

ニコニコという擬音まで聞こえてきそうな笑顔で言われて、わたしは目を丸くした。

「友だち……」

口の中で唱えるように復唱すると、三郎くんは軽やかな笑い声を上げた。

「まー、一緒に山賊撒いた仲ってことで」

三郎くんは、そう言って笑いかけてくれるけど、わたしは結局、助けてくれようという彼に何もできなかった。友だちという言葉の響きに嬉しくなって、でも、わたしはやっぱり非力なわたしでしかなかった。

「わたし……一人で逃げちゃったのに……」
「ちゃんと逃げ切ってくれた、作戦どーりにね」

にひ、と歯を見せて笑いながら、三郎くんはわたしに手を差し出してくれた。

「てことで、これからよろしく、みょうじさん」

偶然出会った、その瞬間から何度もわたしを助けてくれた手だ。とても頼もしくて、だけど温かい手。

友だちの作り方なんて分からない。けれど、三郎くんが言っていた言葉を思い出してみる。
「人とのコミュニケーションなんて、案外どうとでもなるようになるもん」だって。
三郎くんが言うなら、やっぱりそうなのかもしれない。気づいたら友だちになっちゃってた、でも、いいのかもしれない。
何より、わたしは三郎くんと友だちになりたいって、そう思う。

「うん、よろしく、三郎くん」

その手をそっと握り返す。

知らない場所に、知らない人ばかり。だけど、不思議と曇りのない心臓の高鳴りが、わたしの背中を押しているような、そんな気がした。



request by 遙様(鉢屋三郎、室町設定、人付き合いが苦手な夢主と鉢屋が友達になる)