糸のように細い麺を束ですくい、帯を畳むみたいにしてどんぶりの底に盛る。黄金色に透きとおった汁と、ふうわりと淡い黄色のかきたまを麺の上からかけてやれば、どんぶりの中は金色の花が咲いたみたいに優しく華やいだ。さてこれにて、かきたまにゅうめんの出来上がり。
襷掛けを外し、藍の着物の袖を、軽くシワをのばすように払った。縁の端まで熱くなったどんぶりを両手でそっと持ち上げ、お盆の上にのせる。
お箸と冷たい緑茶を一緒にのせた盆を手に、向かうのは主のいる執務室だ。
道中で行き合う刀はいなかった。寝静まっている部屋、小さな笑い声が漏れ聞こえる部屋、いびきが響く部屋。それぞれがそれぞれの時間を過ごしているのだと、思いを馳せることができるから、俺は夜更けの廊下が結構好きだった。

「主、おまたせ」
「ありがとう蜂須賀」

部屋の前で声をかければ、ドアがそっと開かれる。夜の静けさを気遣うような、静かな動作だった。
持ってきた盆を、主のデスクの上に置く。
ブルーのタイルカーペットが敷き詰められた10畳ほどの執務室には、デスクが4つ。2つずつ向かい合うように設置されていて、事務的な業務はいつもここで行っている。審神者になる前は、いたって普通の会社員をしていた主にとって、これ以上ないほど集中できる環境なのだという。
簡素で華やかさに欠ける部屋には、いつしか歌仙が窓際で花を生けるようになり、加州がオフィスチェア用のシートクッションを持ち込み、朝尊が勝手に本棚を拡張し、本丸の誰かが撮った写真が何枚も飾られた。月日が過ぎゆくにつれ、少しずつこの部屋は成長しくようだった。
主が審神者になって、すでに1年が経とうとしている。ほとんど初期の頃からいる俺にとっても、この部屋は居心地のいいものになっていた。

「熱いから気をつけて」
「うん!」

主は、ぱん、と手を合わせ、大袈裟なくらいに頭を下げた。

「いただきます」

嬉しげな表情を隠そうともしない主の、隣のデスクの椅子を引き、腰を下ろす。

深夜も1時を回ろうという時、腹の虫が鳴いて鳴いて仕方がない主の様子を見かねて、夜食を勧めたのは俺だった。
夏の連隊戦の戦果についてまとめる作業に加え、ちょうど今日終えたばかりの、政府から与えられた初めての特殊任務についての報告書を作成しなければならず、こなさなければならない仕事はその他山積み。そうして残業だサビ残だ、などとふざけた調子で愚痴をこぼす主と、近侍として共に仕事を進めていた。
ようやく終わりが見えてきた、ちょうどその時、主の腹の虫が鳴き始めた。
主が残りの仕事を片付ける間、俺が夜食をつくる。そういう役割分担をすることになったのだ。

「うわ、美味しい……仕事終わりの夜食最高……」
「それは良かった」

ずず、と控えめに麺を啜った主は、心の底からこぼれ出たようなため息とともに、美味しい美味しいと繰り返す。

「あれ、そういえば蜂須賀は食べないの?」
「え、ああ、うん」

何となく目を逸らしつつ返事をすると、主は目をぱちぱちと瞬かせた。

「何で? お腹空いてないの?」
「うん。実はこれを作っている時、何度も味見をしてしまってね」
「あはは、分かる。味見してるうちに食べすぎちゃうことあるよねぇ」

笑いながら、どんどん箸を進めていく主の食べっぷりに、ほっとした。ちゃんと、主の好きなあの味に近づけられていたようだった。
このにゅうめんの汁には、隠し味として酢橘の搾り汁を入れてある。酢橘を2つに切ったものを絞って、主張しすぎない程度に香るよう、少しだけ加えた。鰹の出汁と醤油と塩でつくったシンプルな汁に、アクセントとして加えることで、麺をすくうたび酢橘がほのかに香って、しつこくなく食べられるようになっている。

『やっぱり、夜食には深夜でも胃が受け付けるものがいいよね。やさしい味が一番だよ』と、その言葉を俺は今でも覚えている。
主からの受け売りだ。

「でも意外だった、蜂須賀が夜食つくってくれるの」
「え?」
「夜食、食べたいって言ったら止められるかと思ったから」

どんぶりの底のほうから麺を掬い上げ、主は目を伏せたまま、不意にそんなことを言った。

「それは、俺が融通のきかない奴だと思われてるってことかな?」
「んんん」
「どっちだい、その返事」
「や、体に悪いからってさ、止める子も多いし。蜂須賀はどっちかっていうと、そっちかなって思って」
「うーん、まあね。もちろん食べ過ぎは良くないよ」

ふふ、と笑いながら答える。
ひょっとしたら、主はもう忘れてしまったのかもしれない。

「俺がここへ来て間もない頃、夜中にお腹を空かせていた俺に、主が夜食を作ってくれたんだよ」

主の、箸を持つ手が止まって、ぱっちり開かれた目がこちらを向いた。

顕現して10日ほどの頃のことだ。
本丸での生活も少しずつ慣れてきて、物を考える余裕が出てきてしまったがゆえに、俺は初めて夜が更けても眠れなくなった。
まだ身内のいないこの本丸に、俺の兄弟はいつやって来るのだろうか。いつか、虎徹の名を語る贋作もやってくるのだろうか。そういう時、俺はどう振る舞うべきなのだろうか。審神者と刀剣男士がともに手を取り合うこの戦いの中で、俺は何を守り、何と戦うべきなのか。
そんなことを考え始めて、頭の中で考えもまとまらず、仕方なく布団から出て水でも飲もうと厨へ足を運んだ。
寝衣の帯を整えながら歩く廊下は静かだった。まだ刀剣男士の数も少なく、みんな明日の出陣に備えて早めに休んでいるようだった。
暗く静かな夜をかき分けるようにして、ようやくたどり着いた厨で、主と鉢合わせたのだ。

「あれ、蜂須賀さん」

何やら菜箸で鍋を掻き回している主は、振り返って俺の名を呼んだ。主はこの頃、まだ俺のことを「蜂須賀さん」と呼んでいた。

「どうしたの? 眠れない?」
「え、うん……少し水を飲もうかと思って」
「そっか。一回眠れなくなると目冴えちゃうよねぇ」

軽い調子で言葉を返して、再び鍋に視線を落とした主に、棚からコップを取り出しつつ「うん」と小さく答えた。出汁と、ほんのり柑橘の香りがする。

「主は、何か作っているのかい?」
「うん、夜食。お腹空いちゃってさ」

こんな時間に不摂生なんじゃないか、体に良くないんじゃないか、と思う自分と、いい匂いにつられて腹が鳴りそうな自分とがせめぎ合い、最終的に腹の虫が勝った。
ぐう、と小さく鳴りかけた腹を慌てて抑えたが、耳聡くその音を拾い上げたらしい主は、目尻を下げてこちらを振り返った。

「蜂須賀さんも食べる? にゅうめん」
「えっ……」
「お腹空いてると余計眠れなくなるしさ」

不安ばかりが募った胸と空っぽの腹を抱え込んだ人の身は、厨中に漂った匂いに柔らかく包まれて、抗う術をなくした。
かくしてご相伴にあずかることとなった俺は、わずかながら主を手伝うことにした。といっても、どんぶりを2つ棚から出して箸を持ってくる程度のことだったが。

「懐かしいな〜、社畜だった時、深夜にお腹に優しいもの食べたすぎて会社にそうめん持ち込んで湯沸室で勝手ににゅうめん作ったりしたんだよね」
「へ、へえ……?」
「ごめん引かないで」

社畜だとか湯沸室だとか、そういう言葉がいまいちピンと来ていなかった頃なので、引くも何もなかったのだけれど。主の話を聞くのは、自分の知らない世界が広がっていくようで、なんだか愉快だった。
あらかじめ解いておいたらしい卵を、あつあつの汁の中に回し入れると、鍋の中に花が咲いたようになった。それから、酢橘らしき実を半分に切ったものを、鍋の上から手でぎゅっと絞り、主は「よし」と清々しい声をあげた。どうやら完成らしい。
主はにゅうめんを、手際よく2つのどんぶりに盛っていった。

「はい、どうぞ」
「すごい、美味しそうだ」

白く細い麺が無造作に盛られた上には、ふわふわの卵が乗っていた。黄金色の汁からは、出汁と、ほのかに爽やかな香りが立ち上っている。

「それで、これはどこで食べるんだい?」
「あ、ここで立ち食いでいっかなって思ってた」
「ええ……真作の俺が立ち食い……」
「立ち食い蕎麦屋的な」

どんぶり片手に笑顔で親指を立てている主の言い分に、ううんと唸った。確かに、江戸の町の蕎麦屋は立ち食いが一般的ではあった。現代にもそういった文化が残っているらしいことは、主から何となく聞いたこともあった。「ここで食べれば洗い物ちゃっちゃと済ませられるし」と言う主の言うことも、もっともと言えばもっともだ。
間をとって、いつも短刀たちが厨で使っている踏み台を椅子がわりにし、腰を下ろして食べることにした。行儀が良いとは言えないだろうが、早くこれを食べてみたいという気持ちも急いていた。

「いただきます」

どんぶりを腿のあたりで支えると、出来立ての温もり、を通り越した熱さが衣越しに肌へ伝わってきた。主もそれは同じだったらしく、厨の端の棚からタオルを2枚引っ張り出し、1枚を俺に寄越してくれた。どんぶりの底のほうにタオルを敷くと、熱さが和らいで楽に食べられそうだった。
麺と、卵を少しずつ掬い上げ、口元に運ぶ。少し冷ましてから口に入れると、出汁の香りが口の中に広がった。

「美味しい……」
「ほんと? 良かったー!」

ずるずる音を立てながら、どんどん食べ進めている主は、安心したように目を細めた。
いくら食べ進めても、酢橘の香りのおかげでしつこくなくて、卵が胃に優しくて、お腹の底のほうから体の力が抜けていくようだった。

「やっぱり、夜食には深夜でも胃が受け付けるものがいいよね」

主は目を伏せながら、しみじみとそう言った。

「やさしい味が一番だよ」

身体中を縛りつける不安を解きほぐすみたいに優しい出汁の香りと、憂いを洗い流すみたいな酢橘の香り。柔らかく包み込むようなふわふわの卵。

やさしい味。
俺にとっては本当に、あれは世界でいちばんやさしい食べ物だった。

「あの時、作ってくれた夜食もにゅうめんだっただろう? あの味を再現したくて、だから何度も味見をしてしまったんだ」

白状するのは恥ずかしかった。真作の俺が料理に手間取っていたことを、知られたいわけではなかった。
それでも俺は、主に伝えたかったんだ。

「俺にとっては、今もこのにゅうめんが一番好きな食べ物なんだよ」

特別で、大切なひとが作ってくれた、いちばんの食べ物なんだって。あなたに、知ってもらいたいって、思ってしまったから。

「う、そ、そっか……」

主は、麺をちゅるる、と控えめに啜ってから、俯きがちに口を開いた。

「1年も前のこと、もう覚えてないと思ってたから……」

そう言って、主はほんのり赤くなった顔をこちらに向け、はにかむような笑顔を浮かべた。

「覚えててくれて嬉しかった」

ありがとう蜂須賀、と名を呼び笑う主を前に、俺は心の底からふつふつと温かな気持ちになっていった。

「うん、俺も嬉しいよ」
「え?」
「主が覚えていてくれたこと、主が嬉しそうに食べてくれたこと、全部が嬉しいな」

そう言って、俺と主、二人して赤い顔で笑い合った。
どんなに疲れても、不安でも、夜の闇が深くても、このやさしい食べものを作ってくれたあなたがいれば。
俺はいつまででも強く生きていけるような、そんな気がしている。


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