※『さよなら昨日のレモン・ビール』の続き


「月がぁー出た出た、月が出たァ」

今にも日付が変わろうという真夜中に、都内ど真ん中の街中でイルミネーションの輝きを全身に浴びながら陽気に唄う酔っ払いの、何と迷惑なことであろうか。
我慢ならず舌打ちしながら、足元が覚束ない様子の老漢をすれ違いざまに睨みつけようとしたが、すぐそこの細い路地にフラフラ入っていってしまって、それは叶わなかった。
行き場の無くなった苛立ちを腹の底に抱えたまま、足早にその場を離れる。

師走である。もうじき年末である。
毎日毎日、飽きもせずに残業である。

ついに苛立ちがピークに達そうという限界を感じ、無意味にコンビニに寄り、無意味に高級ビールを2本買ってはみたが特に満たされることもなく、ビニール袋片手に虚しく帰路を辿っている。
この時間だ、おそらく彼女は寝ているだろう。いつものことだ、帰りが遅い場合は先に寝るよう伝えている。
帰ったら一人で缶ビール片手に飯を食って寝ることに決めた。明日が仕事だろうが知ったことではない。もう、アルコールを体内に流し込まなければやっていられないのである。そういうことは、四半世紀以上生きてきた中でしょっちゅうあった。
ビルとビルの狭い隙間をすり抜けてきた風が、研いだ包丁のように鋭さを増しながら頬を突き刺していく。弛んだマフラーからさらけ出る頬を、首を縮めてしまい込みながら、内心で舌打ちを繰り返しつつ足を早めた。



「ただいま」

ほとんどため息にかき消えそうな声になったことで、己が思っている以上に疲労が蓄積されていたことを思い知らされたような気がした。余計な疲れを感じてしまって、損した気分になりながら、脱いだ靴をきっちり揃えた。
師走に忙殺されながら、日付が変わった後の帰宅。もう何度目になるか。
くそ、と内心で悪態つきながら、ふと気がつく。
ダイニングへ続く戸から、照明の白い光が漏れ出ている。
訝しみながら立ち尽くしていると、静かに戸が開いた。

「鴨太郎さん、おかえりなさい。お疲れ様です」

明るい部屋から、カーディガンを雑に羽織った寝間着姿のなまえくんがひょっこり顔を出した。
若干面食らいながら部屋に入り、マフラーを解きながら「起きていたのか」と問うと、どこか愉しげな返事が返ってきた。

「はい、ちょっとやることあって」
「やること」
「はい」

明確な答えは返ってこなかったが、こちらへの気遣いで起きていたわけではないらしいことが分かったので、別に構わなかった。下手に気遣われると、こっちまで気疲れするような気がするから、彼女の適度なマイペースさは案外気に入っている。

「ご飯食べますか? 今日の夕飯、大晦日に向けての練習と思って、生蕎麦買ってきてみたんですけど……一応ご飯も炊いてあるんですけど、どっちにします?」
「蕎麦がいいかな」
「かけそばでいいですか?」
「うん」

缶ビールの入ったビニール袋はテーブルの上に置き、脱いだコートはソファの背もたれにひっかけた。台所に向かう彼女の足音を聞きつつ、ネクタイを緩める。

「私は甘く煮たお揚げとかまぼこ、卵とわかめ乗せましたけど、鴨太郎さんはどうします?」
「全部乗せで」
「フルコースだ。じゃあ茹で始めちゃいますね」

準備しておくので手洗ってきてください、と促されて、言われるがままに洗面所へ向かう。

人と話す仕事で疲弊して帰ってきたにも関わらず、誰かと話すことで張り詰めていた気が緩むのは妙な話である。損得勘定を抜きにして話せる相手がいる有難さは、わりかし最近知ったと思う。
この結婚だって、はじまりこそ『互いの利害が一致したから』という理由に他ならなかったが、それがいまこうなのだ。こういう形の縁の繋ぎ方もあるのか、と妙な気持ちになりながら、しかしそのけったいな縁が不思議と快いので、本当に人生は何があるか分からない。

手を洗って、仕事用の携帯に届いていた業務連絡メールにざっと目を通す。蕎麦を茹でるための湯がぼこぼこ沸いているらしい音に耳を傾けながら、要返信のものには返事をしてから洗面所を出た。
ダイニングに戻ると、テーブルの上で蕎麦の用意が整ったところらしかった。

「お疲れ様でした、どうぞ」

椅子に腰を落ち着けると、出汁の香りが白い湯気とともに立ち昇ってきて、眼鏡が曇りそうになった。湯気を避けながら眼鏡を外し、小脇に置いて箸を手に取る。「いただきます」と言う間に、向かい側に座った彼女は茶を淹れてくれた。頭の片隅でビールのことを思い出したが、どうやら彼女が冷蔵庫にしまってくれたらしい。どうせなら大晦日のためにとっておくのも悪くないだろう。
蕎麦をひと啜りすると、鰹出汁の香りが口の中で膨れて、鼻から抜けていく。太めの麺は微妙に茹ですぎな気もしたが、まあ悪くはなかった。

「あ、そうだ!」

テーブルを挟んだ反対側で共に茶を啜っていた彼女は、突然何事か思い出したようにいそいそと席を立った。
一体何なんだと頭の片隅で思いつつ、自室に駆けていく彼女の背中を目線だけで追いかけながら卵の黄身をそっと割った。半熟の卵が汁に溶け出す前に、手早く麺に絡めてそのまま口の中へ運ぶ。うまい。

「鴨太郎さん、ほら!」

戻ってくるなり、彼女は手に持っている長方形の紙の束を、扇状に広げて見せた。

「年賀状、準備しときましたよ!」

今朝のうちに頼んでおいたことすら覚えていなかったそれの存在を突きつけられて、箸を片手に内心ゲンナリした。
仕事用の年賀状である。

「ちゃんと表面と、宛名も印刷しときましたので」
「ありがとう、助かる……しかし、ただでさえこの忙しい時期に年賀状なんて古い慣習に囚われて、時間を無駄にしている頑迷な連中の気が知れないな」
「あはは、確かにこの量は骨が折れますよね」

取引先で世話になっている相手には、手書きで二言三言書き足さなければならない。特に大手の会長職なんかを務めるような、戦前生まれで頭の固い老人相手には、気が抜けなくて嫌になる。

「礼儀作法も、苦労になっちゃうと何のための礼の心だって話になっちゃいますもんねぇ」
「全くだ」

ずぞぞ、と音を立てながら蕎麦を啜り上げる。
苦笑いする彼女に、ふと嫌な予感がして、口の中の蕎麦を茶で胃に流し込んだ。

「というか君、まさか起きてた理由って僕の年賀状の準備じゃないだろうな。こんなもの、後でも構わなかったんだが」

よもや自分の頼み事のせいで夜も更けてまで起きていたのであれば、バツが悪くてやっていられない。
思わず眉をひそめて問うてみれば、こちらの心配などまるで意に介さないカラリとした顔で「あ、いえ」と明るく返された。

「消しゴムハンコ作ったんです。友達に送る年賀状用の」

拍子抜けして、肩に入っていた無駄な力ががっくり抜けていった。
消しゴムハンコといえば、消しゴムを彫刻刀やらでカッターやらで掘ったり切ったりして作るアレだろう。いつの頃からかテレビや雑誌なんかのメディアにも取り上げられて、妙に流行っているらしいそれを、彼女も始めたらしい。

「あんなちまちました細かいものを作る必要があるのかい?」
「大いにあります。楽しいので」

深く頷いたわりには大雑把な答えが返ってきて、鼻から抜けるような、細やかな笑いが漏れた。
何事も楽しんだ者勝ちという言葉が本当なのだとしたら、彼女は大いに勝利しているというわけである。多少は見習う必要もあるのかもしれない。

「出来上がったら見せたまえ、査定しよう」
「よし、才能アリ狙いますね」
「大晦日の蕎麦も期待しているよ」
「明日から毎日要練習だなぁ」

年賀状の束を片手に、眉を下げて笑うなまえくんに、つられるようにして口の端がわずかに上がるのが分かった。

とっとと仕事など納めて、せめて大晦日は一日家で過ごせるようにしたい。そのためには、いま少し仕事に駆けずり回らねばならないだろう。
満員電車に潰される朝。
師走に苦しめられる社員の殺気渦巻くデスクの間をすり抜ける午後。
取引先から重い体を引きずる夕暮れ。
全てが憎くなりそうな夜の帰り道。

きっといつでも、心おきなく年越し蕎麦を啜るはずの除夜の日が、明るい道標となって僕を導く。