道路脇に点々と咲いている紫陽花が萎れ、茶けているのを見て、いつの間にか夏が深まっていたことを知った。

片側2車線の県道から細い路地めがけてハンドルを左に切りつつ、
「花が萎れるのを見て夏を感じるって、我ながらどうかと思います」
と、苦笑いをすると、
「日本の夏は死の匂いが濃いからなあ。あながち間違っていないのかもしれないぞ、お前さんの感性は」
と、後部座席に仰向けで沈みこむジャージ姿の一文字則宗に、案外元気そうな声で笑い飛ばされた。車に酔って、後部座席に体を横たえているのだ。
幅広の車体とはいえ、軽自動車のシートだ。背中を丸め、足を折り曲げる狭苦しそうな格好には申し訳なくなるが、バックミラー越しに見える顔は多少血色が良くなったようだった。冷たい麦茶のペットボトルを額に当てているのが効いているのだろうか。

死の匂い。
私たちが日本人である限り、きっと夏とは、そういう季節なのだろう。
日本の夏には死の影がちらつく。
この島国では、どんな季節よりも景色の明るいこの時季に死者を弔う風習があり、そして大勢の人が、制御の効かない強すぎる光に身を焼かれ、命を落とした歴史がある。
景色の明るさと、土地に染み付いた死の影とが共存している日本の夏には、独特の空気があるのだと思う。

「とはいえ、今の私たちにとって、夏の思い出は明るいものが多いんですけどねぇ」

表層が豪快にヒビ割れた田舎道のアスファルトに車を跳ねさせながら呑気なことを言うと、一文字則宗は、
「そういう明るさを守っていくためには、夏が落とす影から目を逸らさないことが肝要なのだろうなあ」
と、静かな声で呟いた。どうやら、車体の揺れに再びやられたようだった。

「一文字則宗、大丈夫ですか?」
「うん、まあ何とかな」
「麦茶飲んでくださいね、脱水症になる」
「厄介なもんだなあ、人の身の夏は」

ぶちぶちと文句を言いながらも、一文字則宗は大人しく身を起こし、ペットボトルの蓋を開けた。ごっごっと喉を鳴らしながら体内に麦茶を流し込み、つめたい窓に額を押しつけながら「ノウゼンカズラ」と短く呟いた。

「多いな」
「田舎あるあるですね」

車同士がすれ違うのがやっとこな狭い道路に向かって、ブロック塀越しに咲くノウゼンカズラは、道路に花を溢れさせていたり、オレンジ色のカーブミラーに絡みついていたり、家ごとに様々だった。さらには5mくらいの感覚で、タチアオイが無造作に咲いていて、目がチカチカするほどの濃いオレンジとピンクとで夏を彩っている。

「今から弔いにいくのは、主の叔母にあたる人だったか」
「はい。この車を譲ってくれた人ですよ」
「ほう。形見だったか」
「はい」

2年ぶりに故郷へ帰省したのには訳があった。叔母の死だ。
通夜にも葬儀にも間に合わなかったので、これから墓参りにいく。

叔母は審神者という私の仕事にいたく興味があったらしく、手紙のやり取りはもちろん、長電話も随分とした。本丸に来てくれたこともある。当時、一文字則宗はいなかったから、叔母のことを一文字則宗は知らない。
叔母は民俗学の研究をしている人で、研究に没頭しながら独り身のまま生涯を終えた。45歳という若さだった。そういう叔母を、だいたいの親族は疎んでいたようだったが、私は叔母が大好きだった。突然降って湧いたみたいな審神者の仕事の話に、のってみてもいいかもしれないと思ったのは、昔から仕事の話を聞かせてくれていた、叔母のおかげに他ならなかった。
車を譲ってくれたのは、私が審神者になる前のことだった。
免許とりたての私に「これで練習していいよ」と言って、乗せてくれたその車を、そのまま寄越してくれたのだ。

初めての『自分だけの愛車』には、当たり前に愛着があった。大好きな叔母がくれたということもあって、この車はまさに『愛車』だった。
叔母が死んで、この車は形見となった。形見という名の物語を背負った。
そんなものは無くても、私はこの車が好きだった。大切な車だった。

不意に、車が大きく揺れる。一文字則宗が後部座席で「う゛え」と珍しくグロッキーな声を上げた。

「大丈夫ですか? もうすぐ着くはずなので」
「この車も、お前さんを慕ってるのだなあ」

あと少し耐えてください、と言おうとしたそばから、ヤブヘビなことを言われた。

「え?」
「なあ、そうだろう」
「え、車の考えてること分かるんですか?」
「んなわきゃ無い」

と、マジなのか嘘なのか分からない、いつもの調子で返された。

「こんなくそ田舎のくそ道を懸命に走っている。応えている。よく働く、いい車だなあ」

人の故郷に失礼なことを言いながら、一文字則宗は勝手に窓を開けて、労うような手つきで車体を叩いた。

「そうら、もう少しだそうだぞ。頑張れ若造」
「ちょ、あの、電柱とか気をつけてくださいね。あんまり外に乗り出さないでくださいね」
「うはは、分かってる分かってる」

外の空気に当たって、少し元気を取り戻したらしい一文字則宗は、金色の髪の毛を湿った夏風に靡かせた。

「一文字則宗、私は」
「うん?」

バックミラー越しに、透き通るような水色の瞳がこちらを向いたのが見えた。

「この車が好きです」

小さな段差に、車体がぼん、と跳ねた。
一文字則宗は、エンジン音に消えるか消えないか程度の小さな声で「うん」と言った。

「でも、形見だからという理由で大切にしなきゃ、とかは思わないです」
「うん」

突き当たったY字路の右に行くと、広大な墓地へと続く道に出る。道路脇と中央分離帯に広葉樹が植えられた、涼しくて優しい道だった。

「でも、この車が、叔母ちゃんが遺していったものだっていうのは、どうしたって変えられない現実だから」
「うん」

舗装の整えられた道で、それでも震えそうになった声を、腹の力で支えた。

「いつか、その事実ごと、愛せる日が来るといいなぁ」

一文字則宗は「うん」とは言わず、数秒押し黙った。バックミラー越しに目が合う。どうしても堪えようのない涙が、目から溢れて止まらなくなっていた。
一文字則宗が優しい声で言ってくれた「そうだな」という返事が、何より嬉しいような気がした。

それから一文字則宗は、ジャージのポケットから真っ白なハンカチを取り出して、涙でびしゃびしゃな私の頬をとんとんと叩いた。
そうして「泣け泣け、泣いて立派な審神者になれ」と適当なことを言いながら、私の頭をぎこちなく撫でた。そのぎこちなさが少しだけ、意外だった。
街路樹が濃い影を落とす道の先に、明るく開けた駐車場が見えてくる。もうすぐ、大好きだった人が眠る場所にたどり着く。

「お墓参り終わったら、かき氷でも食べに行きましょう」

鼻を啜りながら言うと、一文字則宗は「おお」とあからさまに元気な声を上げた。

「いいな。僕は何かわたあめとかが乗った訳わからんやつが食いたいぞ」
「そんなもんありませんよ、くそ田舎には」
「お前さん、意外と根に持つタイプだな」
「うはは」

一文字則宗の真似をして笑ってみると、彼は一瞬目を見開いて、なぜだか泣き出しそうな顔で笑った。

私にはまだ見えていないものが、彼には見えているのかもしれない、と、静かに思った。