思えば、昨日から嫌なことばかりが続いていた。
応援している球団が負けて、好きだったアイドルが解散して。仕事ではお客さんに文句をつけられ、仕事の帰りには誤って野生のサンドの尻尾を踏んづけて、砂を吹っかけられて。
最後のは自業自得にしても、とにかく嫌なことばかりだった。それでも何とか頑張ってこられたのは、この公園でビブラーバと会う時間があってこそだったのだ。
なのに、どうして。
いつもビブラーバがいるはずの木の洞が空になっているのを、呆然と見下ろしながら、私は立ち尽くすことしか出来なかった。



朝からやなことばっかりだ。

「スリバチ山のぉ風に乗り〜、電光石火ァやってくるぅ〜」

酔っぱらったおじさんが、エレブーズの応援歌を口ずさみながらよろぼい歩くのを横目に、私は「クチバっ子の前でエレブーズ応援歌を歌うな〜!」と心の中で叫んだ。
昨日、エレブーズのホームであるコガネの球場で、エレブーズ対スターミーズの試合が行われた。あまり調子の上がらなかったスターミーズは惜敗を喫し、私たちファンも嘆き悲しみ涙を流し……とまではいかないでも、今こうして肩を落としながら出勤しているわけである。
落ち込みながらもこうして仕事に向かっているわけだから、その上さらに缶ビール片手にご機嫌なエレブーズ魂丸出しのエレブーズファンから応援歌なんて聞かされたんじゃ、たまったもんじゃない。
クチバっ子の野球好きは、大多数がスターミーズファンなのだが、ジムリーダーがでんきタイプの使い手なだけあってエレブーズファンも少なからずいる。
だからどう、というわけでもないけど、職場でも話題に上がるであろう昨日の試合の話が億劫だった。エレブーズファンもいればスターミーズファンもいるから、良くてお通夜、悪くて喧嘩勃発まちがいなしだ。
ため息まじりに、ポケットからスマホを取り出した。気分を変えたくて、SNSのアプリを開く。TLをスイスイとスワイプしながら、何とはなしに情報の羅列を眺めていった。

「ん……?」

目にとまった、アイドルグループ『BO-FU-』の文字。好きなアイドルグループの名前がタイトルについたニュースに、思わず目を疑った。
『超人気アイドル、嵐の如く解散』

「えっ」

『解散』の二文字に、思わず足が止まった。
人気アイドル『BO-FU-』とは、歌って踊れてバトルも強い、5人組のアイドルグループである。メンバーはアイドルでもあり、ポケモントレーナーでもある。みんなひこうタイプのポケモンをパートナーにしていて、決め技はもちろん「ぼうふう」。ファンとの交流試合までしてくれる、ちょっと珍しいグループだった。
「暴風のように激しく世界に吹き荒れたい」という願いが込められた名前なのだと、デビュー当時の会見で言っていたのは10年前のことだ。
そう、デビュー当時から応援していた。いや、まさかライブを全ておっかけるほど熱心ではないにしても、数回行ったライブは興奮冷めやらなかったし、テレビで彼らを見ると、いつも元気をもらえた。
間違いなく、毎日の元気の源の一つだったのだ。そんな彼らが、寝耳にみずでっぽうの解散。
人目も憚らずに泣きたくなる気持ちを抑えて、無理やりに足を踏み出した。気分じゃないから休みます、が出来ないのが社会人の辛いところだと、これほど思ったことはない。
明日は誕生日だ、仕事終わりにはちょっと高くて美味しいケーキを買って帰ろう。それを楽しみに頑張ろう。
そう心に誓いながら、ひっそりと「今日はもう嫌なことが起きませんように」と願った。

しかし、私の必死の願いは呆気なく打ち砕かれることになる。

「ですから、お客さま。当ブイゼル・テール号では、100kg以上のポケモンはモンスターボールにしまっていただくのが決まりとなっておりまして」
「じゃあうちのゴローンちゃんに綺麗な海を見せてあげられないじゃない。どうしてくれるの」

ポケモンの安全を一番に考えてやらんかい! と叫びたくなるのを堪えて、目の前でふんぞり返る貴婦人に何度も頭を下げた。
私が勤めているのは、クチバの港にある会社だ。ちょっとしたクルージングから、カントー地方にある近場の港まで。気軽に楽しめる船旅の観光をお手伝いするのが、私たちの仕事。
私はそこで受付事務をしているのだが、そこまで社員が多くないこともあって、出港前の安全点検の仕事も兼任している。つまり、がっつり接客業というわけだ。

「他のポケモンはボールから出ているじゃない。ちょっとくらいいいでしょう?」
「100kg以上のポケモンがボールから出ておりますと、船の運行に支障が出る可能性がございまして……」
「可能性だけでしょ? ならいいじゃない」

あ、これ永遠に話が通じないやつだ。
と、気付きながらも根気強く頭を下げ続けていると、婦人は「もういい、レビューで最低点つけてやるから」と最低すぎる捨て台詞を吐いて去っていった。
去り際に、婦人の連れているゴローンが、何となく申し訳なさそうな顔をこちらに向けたように見えた。

かわいそうだな、と思う。
ポケモンは、一度ゲットされてしまえば、半強制的にトレーナーに従わなくてはならなくなる。ポケモンはトレーナーを選べない。
あのゴローンは、ずっとあの人と一緒に生きていくのかな。それは、あのゴローンにとって幸せなことなのかな。
と、一度も自分のポケモンも手にしたことがない私がおせっかいなことを考えるのも、野暮なことなのだろう。

何はともあれ、災厄は去った。
傷ついた心の重さそのものみたいにズッシリした体を引きずって、私はお昼ご飯片手に自然公園を目指した。職場でご飯を食べる気分には、とてもじゃないけどならなかった。
クチバの港のすぐそばには、自然公園がある。そこそこ小さい公園だからか、ポケモンバトルのステージになったりもしない、落ち着いてお昼ご飯を食べることができる穴場スポットなのだ。人通りも穏やかで、通りかかるのは散歩に訪れた老夫婦や、子ども連れのお母さんたちくらいだ。
そんな公園の隅っこに、ベンチが一つ。そして、そのベンチに木陰を作ってくれる、大きな木が、一本ある。
公園ができるよりも、ずっと前からあったのであろうその木は、太く立派な幹をしている。その根本には、小さなポケモン一体ならすっぽり入れる樹洞があった。

「ビブラーバ、こっちおいで」

弾む声で呼びかけると、ビブラーバは洞からひょっこりと顔を出した。

「今日はタマゴサンドだよ。食べる?」

嬉しそうに羽音を立てるビブラーバに、半分にしたサンドイッチを差し出す。大きな目を輝かせて、私の手ずからサンドイッチを頬張るビブラーバの可愛さに、思わず顔が綻んだ。

ビブラーバと出会ったのは一ヶ月前のこと。
出会いはうちの会社のクルージング用の船の上。誰も気づかないうちに、一体のビブラーバが乗り込んでいたのだ。
さあお客さま乗船の前に安全点検だ、という段階になって、デッキで寝そべるビブラーバの存在に気付いた。
港にいるお客さまの手持ちポケモンかもしれないから、と確認をとってみても、該当者はなし。おおかた野生のビブラーバが海辺をふよふよと漂っているうちに、ちょうどいい昼寝どころを見つけた、といったところだろう。
そもそもカントー地方に野生のビブラーバがいることは珍しいことなのだが、近頃ではポケモンを捨てるという良からぬ輩が増えていて、各地の生態系が乱れているという話も聞く。野生のビブラーバがいても、おかしな話ではないのだ。
さて、乗船を待つお客様のためにも、ビブラーバには退いてもらわなければならない。社員の一人が、スマホでポケモンのふえの音源を流し、ビブラーバを目覚めさせたまでは良かった。
しかし、目覚めたビブラーバはいつの間にかたくさんの人間に囲まれていたことに驚いたのか、船縁まで後ずさったかと思うと、そのまま羽を動かすのも忘れたように動かなくなってしまった。
穏便にさっさと去ってもらうはずだったのが、想定外の展開になり、社員総出で大慌てになった。このままでは、今後の運航に支障が出る。
ポケモンバトルに一家言あるという同僚が、こうなったらバトルを仕掛けて出ていってもらうしかない、とモンスターボールに手をかけたのを見て、私は慌てて自分のデスクまで駆けていった。
本当に無理やり追い出すのが正しいのか。何も悪いことをしていないビブラーバを傷つけていいのか。たとえ、待っているお客さまのためだとしても、それは、違うんじゃないか。
息を切らして、デスクの上に置いてあったお昼ごはんの袋をひっ掴んで、急いで船に戻った。
すでに同僚がボールから出していたストライクの前に、躍り出るように割って入って、袋の中から取り出したサンドイッチをそっとビブラーバに差し出した。
すると、ビブラーバは呆気なく緊張を解き、サンドイッチを完食してからゴキゲンで船上から飛び去っていったのだ。
散々振り回された挙句、ぽつんと船上に残された私たちはもう、笑うしかなかった。

そんな騒動を起こしたビブラーバが、なぜこの公園に居ついたのかは、よく分かっていない。
あの騒ぎの数日後、公園のベンチでお昼を食べていた時、ビブラーバが木の洞からひょっこり顔を覗かせた、それが再会の瞬間だった。

「ほんとに食い意地が張ってるよね、ビブラーバは」

そんな風に言ってみても、ビブラーバは言葉の意味を理解しているのか、いないのか。パンのかけらを口の端にくっつけて、きらきらの目で「もう無いの?」と訴えかけてくる。

「いいよ。これはビブラーバのために買ったやつだから、あげる」

タマゴサンドのもう半分を差し出すと、ビブラーバは嬉しそうにサンドイッチを頬張った。
こうしてビブラーバと過ごす時間は、私にとってかけがえのないものになっていた。どれだけ嫌なことがあっても、ビブラーバに会うことを楽しみに頑張ることができている。ビブラーバにとって、私の存在は「サンドイッチをくれるただの人間」なのかもしれないけど。
私にとっては、この時間が大切だった。



何も、ビブラーバとの時間がずっと続くとは思っていなかった。と、いうか、終わることを考えるほど長い時間一緒にいたわけでもなかった。
だから、唐突の終わりに、私は呆然とすることしかできずにいた。

嫌なことばかりだった昨日を乗り越えて、さて今日は誕生日。
帰りにはケーキを買おう。お昼ご飯のサンドイッチも、いつもは買わないちょっと高めの豪華なフルーツサンドにしてみようか。ビブラーバも、フルーツサンドなんて食べたことはないだろうし、きっと喜んでくれる。
そうして昼時を迎え、フルーツサンドの入った袋を片手に自然公園へ赴いた。

「ビブラーバ」

いつものように、洞に向かって声を掛けたが、ビブラーバは出てこない。
おかしいな、と思って洞を覗き込むと、そこにビブラーバの姿はなかった。不思議に思いながら、あたりの生垣や木の影を探してみたが、ビブラーバはどこにもいなかった。

手の先が冷えるような心地がした。
ビブラーバ、ビブラーバ、と呼び掛けながら、公園の中を隅々まで探し回った。膝をついてベンチの下を確かめて、木の一本一本を見上げて。
昼休みも終わりに近づいて、いよいよ追い詰められた私は、いつも公園を散歩しているおじさんに、息も切れ切れで「ビブラーバを見ませんでしたか」と聞いた。

「いや、見てないなぁ。あれ、あのビブラーバはきみのポケモンじゃなかったのかい?」

おじさんの言葉に、はっとした。
そうだ。ビブラーバは、私のポケモンではない。ビブラーバがどこに行こうと、それはビブラーバの自由なのだ。
そもそも、ビブラーバは私のことを、サンドイッチをくれる人、程度にしか認識していなかったのかもしれないのに。
私一人が、勝手に盛り上がって、ビブラーバのことを、まるで友人のようにも思っていたのだ。

「顔色が悪いけど、大丈夫かい?」

おじさんの声に、小さく「はい」と返事をして、頷くことしかできなかった。

「もし見かけたら教えてあげるから、あんまり気落ちしないで」
「ありがとう、ございます……」

重たい唇を何とか持ち上げながら、おじさんにお礼を言って、その場をフラフラと離れた。
お昼を食べる時間はもう無くなっていたから、歩きながらフルーツサンドを胃に収めた。あんなにきれいだったフルーツサンドは、まるで味がしなかった。味わって食べようとも思えなかったので、ほとんど口に詰め込むようにして食べた。
ビブラーバは、ひょっとしたら誰かにゲットされて、今頃は冒険の旅に出ているのかもしれない。いや、もしかしたら、群れに合流して、共に平和に過ごしているかも。
それは、ビブラーバにとって、とてもいいことだ。
分かってる。一方的にビブラーバを可愛がっていただけの私に、彼の生きる時間をどうこうする資格はないのだ。
分かっている。なのに、どうしてこんなにも泣きたくてたまらないのだろう。

「んんんう〜っ」

港までやってきて、不意に妙な声が聞こえてきた。
うっすら滲んでいた涙を人差し指でそっと拭って、声のしたほうに目をやった。
男の子が一人、船着き場の隅で、海のほうへ手を伸ばしている。肩に仏頂面のピカチュウを乗っけた少年が手をのばす先には、スーパーボールがぷかぷか浮かんでいた。
少年は、ぎりぎりと歯を食いしばりながら手を伸ばしていたが、無情にもスーパーボールはその手を逃がれ、どんどん流されていってしまった。

「あの、大丈夫ですか?」

たまらず声をかけると、少年は大袈裟に肩を揺らして、こちらを振り返った。

「あのボールは? きみの?」
「あー……ハイ、船から降りて、調子乗ってポンポン宙に放ってたら、落っことしちゃいまして」
「大変、中にいるポケモンも流されちゃう……!」

青くなるこちらとは対照的に、少年はのんびりと立ち上がり、腰巻きにした赤い上着に手をかけた。

「いえ、中身は空なんですよ、あれ」
「え?」
「ただ……初めて買った、モンスターボール以外のボールだったんです。だから嬉しくてはしゃいで、このザマなんですけど」

波間に揺蕩うスーパーボールを横目に、少年は乾いた笑いをこぼした。彼の肩に乗っているピカチュウは、目をじっとりと半分にしながら彼を見つめている。
きっと、彼が本心から笑っていないことを、分かっているんだ。

「ね、ちょっと待ってて!」

言い残して、ぽかんと口を開ける彼の元から一目散に職場へ駆け戻った。
上司に「お客さまが海に落とし物をされたので」と伝え、落とし物専用のマジックハンドを片手に、さっきの少年のもとへとんぼがえりをした。

「これなら、ひょっとしたら届くかも」
「わ、スイマセンわざわざ……」

小さく頭を下げる少年に「気にしないで」と返しつつ、マジックハンドの長さを最長に調整して、スーパーボールめがけて腕を伸ばす。幸い、港には今、出港を明日に控えたサントアンヌ号が停まっているくらいで、船は少ない。運航の妨げにはならないはずだ。
さあ、あと少し。あと、ほんの少し。ぷるぷると震える腕の筋肉を、無理やりにでも伸ばせば、届かない距離じゃない。

「あの、あんまり無理しないで……」
「でも、もうちょっとで……!」

肩から、マジックハンドを握る手の先まで、思い切り力を入れた。
拍子に。

「あ」

ばしゃん。
と、頭から海に落ちた。
冷たい海水ががぼがぼと口の中に入ってきて、苦しみながら必死でもがき、海面を目指した。

「ぷはっ」
「わああ、大丈夫すか!?」
「何とか……」

海面から顔を出すと、少年は顔を真っ青にしてこちらに手を伸ばしてくれた。

「早く上がんないと……!」
「あ、待って。せっかくだし、泳いでスーパーボール回収してくるよ」
「えええ〜」

少年は申し訳なさそうに眉を下げているが、もうこれだけ濡れたら泳ぐしかないだろう。むしろちょっと楽しくなってきた。仕事中にこんなびしょ濡れになることなんて、そうそう無いことだ。着替えどうしよう、という懸念がよぎったが、今はそれよりスーパーボールの回収だ。
水面をゆらゆら漂っていたスーパーボールを手にして、少年を振り返った。

「無事、回収しましたー!」
「ありが……」

言いかけて、少年は突然目を見開いた。

「危ない!!」

へ、と思った時には、頭上に黒い大きな影。
見上げようとした瞬間、腰上のあたりを何かに掴まれ、体がフワリと宙に浮いた。
突然のことに、声も出せなかった。
海中から引っ張り出された体が、今度は空を飛んでいる。
もはや何が何だか分からず、スーパーボールを持ったままの手が恐怖心で震えた。
宙ぶらりんになった足は、虚しく空を切っていく。一度海に落ちた上、今度は味わったことのない浮遊感。胃がひっくり返ったような気持ち悪さが込み上げる。
一体、何が起きているのだろうか。
ほとんど考えることすらままならなくなった私の耳に、少年の声が微かに届いた。

「フライゴン!?」

フライゴン?
少年の声に耳を疑いながら、そろそろと頭をもたげた。
うす緑色の体。細い首。その先に、ゴーグルのような赤い目が、まっすぐ前を見据えているのが見えた。
間違いない。確かにフライゴンだ。

「え、なん、なんで」

口をぱくぱくさせながら、ようやく声を絞り出す。すると、フライゴンはこちらの声に反応したのか、視線をこちらに寄越した。
嬉しそうな顔を作ったフライゴンは、不意に私を抱えていた腕に力を入れた。
かと思うと、今度は私の体を宙に放り投げた。

「ええええっ!? 怖い怖い、何!!」

浮遊感、の次は落下。
このまま海面に叩きつけられる。そう思ってぎゅっと目を閉じたが、宙に放り出された体はぽすん、と何かの上に収まった。
おそるおそる目を開けると、そこはフライゴンの背中の上だった。
フライゴンは、カラフルな尻尾をゴキゲンに振って、こちらを振り返った。きらきらと目を輝かせながら嬉しそうに羽をバタつかせる姿は、とても可愛い。

「……ひょっとして」

あのビブラーバ、なんじゃないだろうか。
都合のいい考え方かもしれないけど、あのビブラーバが進化して、こうしてまた会いに来てくれて、とか。

「まさかね」

きっと、偶然に違いない。人間の都合のいいように考えてばかりじゃ、ポケモンに申し訳ないじゃないか。
ふう、と一つ息を吐いて、フライゴンの翼越しに地上を見下ろした。
港にとまる、うちの会社の船が見える。こうして上空から見てみると、クチバが誇るサントアンヌ号とは、大きさがえらく違うのが分かる。まるでホエルオーのようなサントアンヌ号、ホエルコのようなうちの船。親子みたい。
さっきの少年は、ピカチュウと一緒にこっちを見上げている。ぽかんと口を開けて、あっちへこっちへ飛び回るフライゴンを目で追い続けている。ずっと仏頂面だったピカチュウも、少年と同じ顔をしていたので、ちょっとだけ笑ってしまった。
この時間が、たとえ偶然だとしても。それで、いっこうに構わないような気がしている。
吹き上がってくる海風が心地良い。風に乗って聞こえる波の音に耳をくすぐられる。太陽の光が近くに感じられて、びしょ濡れだった体が少しずつ乾いていく。

「ありがとう、フライゴン」

呼びかけると、フライゴンはそれに応えるように羽を大きく動かした。

大きな体がフワ、と音もなく着地して、力強い羽がぱたりと大人しくなった。
「大丈夫ですかー!」と慌てて駆けてきた少年に向かって、笑顔で頷きつつ、フライゴンの背中からそっと降りた。フライゴンの背中の上が心地よかったからだろうか、足が震えたりはしなかった。

「俺、てっきり野生のフライゴンかと思ったんだけど……お姉さんのポケモンだったんですか?」
「うーん、私のポケモンではないんだけど……」
「え? でも」

ちら、とフライゴンのほうを見た少年は、再び私のほうを見た。

「フライゴンとお姉さん、そーとー仲良さそうに見えたんですけど」

言われて、フライゴンのほうを見る。フライゴンも、私のほうを見ていた。大きな目を、何かを期待するように輝かせている。
まさか。

「あのー、きみ。何か食べ物持ってたりする……?」
「は? 食べ物?」

怪訝な顔をしつつ、少年は黒いバッグをガサゴソ漁って、モモンのみを一個取り出した。

「あ、きのみが一個……って、ちょっ!!」

少年が手にしていたモモンのみを目にしたフライゴンは、すかさずそれに食らいつこうとした。
すんでのところでそれを躱した少年は、驚いたのか、心臓のあたりを手で押さえながら「っぶね〜」と小さく呟いた。
フライゴンはというと、モモンのみを食べ損ねたせいか、尻尾をしおしおと下げて口をへの字にしている。

「や、やっぱり、そうかも……」
「どーいうことですか?」

訳がわからない、といった具合に片眉を上げる少年に、公園でいつも一緒にいたビブラーバのことを話した。
この食い意地の張りっぷりは、このフライゴンがあのビブラーバであるということへの証明であるような気がしてならなかった。

「なるほど……ひょっとしたら、何かの拍子に進化しちゃって、木の洞に身を隠すことができなくなったのかもしれないですね」
「うーん……でも、じゃあ、何でまだクチバにいたんだろう」

進化して、飛ぶ力もきっと強くなったに違いない。どこまでだって、自分の好きなところへ飛んで行けたはずだ。
なのに、フライゴンは、このクチバに居続けた。

「お姉さんと遊びたかったからじゃないですかね?」
「え?」
「だって、じゃなきゃわざわざお姉さんのこと助けたりしないでしょ。木の洞に身を隠せなくなったら、他の誰かに捕まっちゃうかもしれないから、どこか別の場所でお姉さんのこと見てたんじゃないですか?」

少年は、フライゴンに向かって「な?」と呼びかけて、手に持っていたモモンのみを与えた。
話を聞いているのか、いないのか。フライゴンはモモンのみにがっつきながらにこにこと笑っている。

「そう、なのかなぁ」

フライゴンの食いっぷりに苦笑いしながら、少年は「憶測ですけどね」と付け足すように呟いた。
とにもかくにも、この少年には感謝しなければならない。こうして、またフライゴンと会うきっかけを与えてもらったんだから。

「……あ、そうだ! スーパーボール!」

ずっと片手に持ったままだったスーパーボール。そもそもこれを取ろうとしたのが、一連の事のはじまりだったわけで。

「はい、どうぞ」
「あ、どーも」

差し出したボールに、少年が手を伸ばす。
少年の指がボールに触れるか触れないか、という、一瞬の差だった。
ボールに向かって首を伸ばしたフライゴンが、開閉スイッチを鼻の先でカチ、と押してしまった。

「えっ……!?」

その瞬間、フライゴンは赤い光とともにボールの中へ吸い込まれていった。
愕然としている私の手のひらの上で、ボールはしばらくゆらゆら揺れて、数秒後、静かに動きを止めた。

「あ、お姉さん、フライゴンゲット……」
「え、え」

半笑いの少年が発した「ゲット」という言葉に、まず冷や汗が出た。
少年が大切にしていたスーパーボールを、不慮の事故、というかフライゴンのせいとはいえ、私が使ってしまった。

「ご、ごめん! このボール、きみのだったのに……!!」
「あはは、いや、いーですよ。スーパーボールなんてまた買えばいいし」
「でも……」
「ポケモンとの出会いは一期一会でしょ」

気にしないで、と笑う少年に、何度も頭を下げた。

「ポケモンて面白いですよね。時々、想像もつかないことをやってのけるから」

少年の寛大さに感謝しながら、私は苦笑いで頭を上げた。

これからタマムシシティを目指すという少年は、片手を軽く振りつつピカチュウとともに行ってしまった。
私の手の中には、これまで持ったことすらなかったスーパーボールがひとつ。
目の高さまで持ってきて、青い半円を覗き込む。

「フライゴン、ほんとにきみはマイペースなんだから」

いまだに夢心地だけど、手の中のスーパーボールは心なしか温かく感じた。
乾いてきたとはいえ、服はまだ湿っている。でも、とりあえず職場に戻らなければならない。
すいぶん長いこと留守にしてしまった。怒られるかもしれない。

でも、私にはフライゴンがいる。
ポケットの中に、これからはいつも一緒にいてくれる。
手始めに、今日の帰りに本屋に寄って、フライゴンの生態について調べるための本を買おう。
それから、美味しいサンドイッチも忘れずに。

「さ、行こうか!」

ボールを上着のポケットに収めて、職場目指して走り出した。