「うん、上手じょうず」

乱くんはそう言ってくれるけど、彼の足の動きに一歩遅れてもたつくばかりな私のステップは、とても上手なんて言えたもんじゃない。乱くんの足が行くまま、乱くんの動くがまま、引きずられるみたいな形でそれについていくのに精一杯だ。
片方の手は小さな手に柔らかく包まれ、もう片方の手は、お互いの背中の辺りにまわっている。

「大丈夫だよ、主さん。その調子」

すぐそばにある乱くんの唇が柔らかく動いて、言葉を発している。ただそれだけで、身体中を巡る血の温度が勝手に上がっていくような気がして、余計に自分の足の動きになんて集中できなくなった。

ダンスホールでもない、立派なお城でもない。いつも事務仕事をしている自分の部屋の中で、私はいつか憧れた舞踏会をなぞっていた。



人生で、たった一度だけプリンセスになったことがある。
ただし「変身前」の、だ。

なんてことはない、小学生の頃、学芸会でやった演劇でのことだった。
演目は、誰もが知っている「シンデレラ」。
いじわるな継母や姉に召使いのような扱いをされていた少女・シンデレラが、一夜限りの魔法でプリンセスとなって、夢に見た舞踏会に参加する。そこで王子様に見初められたシンデレラは、彼と手を取り合いダンスをする。うっとりするような時間もあっという間に過ぎ去り、逃げるように王子様の元から立ち去った少女は、一旦は召使いとしての日常に戻る。けれど、ガラスの靴の導きで王子様と再会し、めでたく幸せを手に入れる。
子供にも分かりやすく演じやすい、学芸会では定番だったこのストーリー。
しかし演劇でやるには、一つ難点があった。

そう、変身のシーン。
魔法使いの力によって、ボロきれで出来た服がうっすらとブルーがかったドレスに変わり、みすぼらしい靴はガラスの靴に、髪の毛も綺麗にまとめ上げられて、ドレスの色に合わせた髪飾りで総仕上げ。
そんな大変身、一人の人間が演じるにはそれこそ魔法の力がなければ無茶なわけだ。
それで、シンデレラの役は「変身前」と「変身後」で、二人に分けて演じられることになった。
クラスで一番かわいい子が満場一致で変身後のシンデレラに決まり、その後、背格好が一番近いという理由で、私には変身前のお役目がまわってきた。
変身前のシンデレラは出番が一番多くて、友達はみんな喜んでくれたし、主役なんてすごいと羨ましがられた。お母さんも「おめでとう」と言ってくれたし、毎日張り切って練習に付き合ってくれた。

「ふうん、そんなことがあったんだ」
「うん、子供の頃のことだけどね」

隣に座る乱くんが、頬杖をつきながら甘いお酒の入った小さなグラスを傾けた。

今日、私の誕生日を祝う席でのこと。
一日の仕事を終え、みんなも無事に出陣、遠征を終えた後。晩ご飯のため向かった広間の戸を引くと、いつもの広間はすっかり誕生会仕様に飾りつけられていた。
折り紙で作られた壁飾りや、テーブルの上にある超特大のショートケーキだけでも十分に嬉しかったのに、近侍の乱くんが被せてくれた花のかんむりが可愛くて嬉しくて、一日の疲れも吹っ飛んでしまった。
真っ白な花を主役にした花かんむりはプリザーブドフラワーで出来ているらしく、生花と違って枯れないから、飾っておくこともできるらしい。これは『今日の主役の証』であり、誕生日プレゼントの一つでもあるのだそうだ。

そうして始まった誕生日会は賑やかに進んだ。
燭台切さん特製のご馳走を食べ終え、ケーキを食べはじめた頃、ずっと隣に座っていた乱くんがご機嫌に言った「主さん、なんだか本当にお姫様みたい」という一言。
それで、小学校の頃の演劇を思い出したのだ。
乱くんは、うん、うん、と相槌を打ちながら話を聞いていてくれた。みんなお酒が入っているためか、どんちゃん騒ぎになっているけれど、乱くんは静かに優しく、私の話に耳を傾けてくれていた。
いつもそうだった。乱くんは、何気ない日常の会話だろうとくだらない世間話だろうと、私の顔をじいっと見つめながら話を聞いてくれる。初めの頃は少し恥ずかしかったし、綺麗な瞳に顔を覗き込まれるとすぐに顔が火照ってしまっていたけど、長い付き合いの中で、ようやく慣れてきたような気がする。

「主さんが演劇かあ、ボクも見たかったなあ」
「うーん、出番は多かったんだけど、まともに演じられてた記憶ないし……大根役者っぷりとか見られたくないなあ」

思い出すだけで恥ずかしくなるような自分の棒演技を頭から取っ払うみたいに、残しておいたショートケーキのイチゴを口いっぱいに頬張った。ショートケーキの製作者である小豆さんが、特別大きなイチゴがのった部分を私にくれたのだ。
噛んだ瞬間、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。いろんなご馳走の味が口の中に残っていたけれど、イチゴの甘みと少しの酸味がさっぱりとそれらを一掃した。

「でも、そっかあ。シンデレラって、確かに演劇でやるのは難しいよね。まさかフツーの小学校に本物の魔法使いなんているわけないし」
「ホグワーツじゃあるまいしね」
「言えてる〜」

声を上げて笑いながら、乱くんはグラスに口をつけた。

「ね、主さん。王子様役は……どんな男の子が演じたの?」
「うーんとね、確かクラスで一番足が速い子だったなあ? かなりの人気者だったよ」
「ふうん?」

足ならボクだって速いよー、と唇を尖らせる乱くんの可愛らしい仕草に思わず笑ってしまう。いつも先陣きって戦場を駆けていく姿を見ていれば、言われずとも分かることだ。クラスで一番足が速かった男の子のことだって、乱くんならきっと楽々追い越していくだろう。

「ね、じゃあさ、舞踏会は?」
「ん?」
「綺麗な衣装でダンス、とかさ。主さんも、やってみたかった?」
「うーん、少しだけね。やっぱりほんのちょっとだけ、憧れたなぁ」

昔の話だけどね、とごまかすように付け足して、私も飲み物の入ったグラスを傾けた。

本当はあの時、小さなすり傷ができたみたいに、心のどこかがずっとヒリヒリと痛かった。
本番の舞台の上、魔法使いが杖をひと振り。魔法にかけられたフリをしながら舞台裏に下がった私と入れ替わりで、キラキラした衣装を身に纏ったあの子が舞台に飛び出る。
たかが小学校の体育館のスポットライトだけど、光を浴びたあの子はそれでもきれいに輝いていた。
綺麗に着飾ったあの子に向けた大きな羨望の裏に、確かにあった嫉妬の影は、誰にも言わないようにしていた。小学生の頃に抱いた感情なんて、あまりにも幼くて惨めで、おまけに残酷だった。
多分、あの日から何となくだけど、魔法とか奇跡とかの類は私の目には映らなくなっていった。

まあ、だからこそ審神者になれた日のことは鮮烈に記憶している。
自分の指先が刀に触れたそばから、とても綺麗な男の人が花びらをひらひら纏いながら姿を現したのだから。初期刀である蜂須賀さんが目の前にフワリと舞い降りた時、紫がかった長い髪の毛も、眩しく輝く金の衣装もとても綺麗で、思わず素早く瞬きをしてしまった。
きらきら輝く綺麗な男士たちを生み出せた私は、シンデレラより魔法使いの役が相応しかったのかもしれない。
それでも全く、一向に構わなかった。
自分の力が、刀剣男士を目覚めさせる。美しく力強い彼らを呼び起こし、世界を守る。それは夢みたいなことで、けれど確かな現実として、すでに私の日常となっている。
綺麗な衣装を着て踊れなかった幼い頃の私は、ここで毎日救われているのかもしれなかった。



「はあ、楽しかったし美味しかったなぁ」
「ふふ、良かったね」

乱くんと二人で部屋へ戻る道筋、今日食べたご馳走やケーキの味を思い出しては嬉しくなって、へにゃりと間の抜けた顔になってしまっていた。
誕生日をお祝いしてもらえるのは、いくつになっても嬉しいものだ。一日中ずっと主役扱いをされるのは気恥ずかしくもあるけど、好きな食べ物、素敵なプレゼント、そういうものに溢れた特別な日は子供の頃に戻ったみたいな気分になる。
魔法なんかこの世にはないけど、魔法みたいな、夢みたいな気持ちには案外簡単になれるものだ。そういう時間を作ってくれるみんなに出会えたからこそ、こんな風に思えるんだろう。

「ね、主さん」

部屋に着くなり、先に部屋へ足を踏み入れた乱くんが片足でくるりと回り、こちらを振り返った。
さっきまでの賑やかな空間をすっかり忘れてしまったみたいな静けさの中、乱くんの動きだけが明るくきらめいている。

「あのさ、ボクと踊ってみない?」
「え?」
「ホラ、舞踏会みたく!」

電気もつけていない、月明かりでうっすらと白んだ部屋の中で両手を柔らかく広げる乱くんは、とても綺麗だった。
暗闇の中、月光を背に受けた乱くんの周りだけが、淡く光って見える。
あまりに現実味のない景色が、眼前に唐突に現れた。その事実がうまく飲み込めずに、ぼんやり立ち尽くしてしまう。

「ねえ、主さん?」
「え? あ、ああ、うん」
「ボク、さっきのお話聞いてね、主さんと踊ってみたいな〜って思ったの」
「は、はい」
「ガラスの靴も、可愛いドレスもないけど」

言いながら、乱くんは自分の髪をまとめていた赤いリボンを解いた。柔らかく広がった毛先から月の光が滑っていき、光の粒が跳ねた気がした。
乱くんは髪を軽く整えて、私の手を取る。ついさっきまで髪をまとめていたリボンを柔らかく私の腕に巻き、器用に蝶々結びをした。

「さすがのボクも魔法は使えないから、今はこれが精一杯……なんてね」

ちょっぴりはにかみながら、乱くんはこちらへ手を差し出す。

「さ、主さん!」

躊躇してばかりで動けずにいたが、明るく呼ばれてようやく、手を伸ばさなければと思い至った。指先が綺麗に揃った乱くんの手に、おずおずと自分の手を伸ばす。
指先がほんの少し触れた途端、細い指に捕まった。絡めとられた片手はそのままに、乱くんのもう片方の手は、そっと背中に回された。
急に距離が縮まった。鼻をくすぐる、少しクセのある甘い香りの正体はお酒なのだと、一瞬遅れて気づいた。

「私、踊ったことなんてないんだけど……」
「大丈夫、こういうのは見よう見まねでいいんだよ」

声を発すると、乱くんに息がかかってしまいそうで、なんとなく息を詰めてしまう。
音楽無しで踊るの? と聞きたくて、けれど声を出すことにすら臆病になってしまっている。
不意に、乱くんが目を閉じる。丸く膨らむ目蓋の形があまりにも綺麗で、息をするのも忘れてしまう。
惚けながら固まっていると、耳馴染みの良い音が鼓膜を揺らした。とても小さな、けれど可愛らしいメロディ。
乱くんの鼻唄だ、と気づいた瞬間、手を引かれた。

「わっ……」

ダンスは静かに始まった。
いつかの舞台裏で聞くばかりだった懐かしいメロディに合わせて、私たちはごく簡単なステップで部屋の中をくるくる回る。
唇で綺麗な弧を描きながらゴキゲンに鼻唄を続ける乱くんは、時折「上手」だとか「その調子」だとか言ってくれるけど、そんな褒められたもんじゃない。
自分が一番よく分かっている。
乱くんの綺麗な顔に見惚れてばっかりだってことも。手に汗が滲んできたことなんかに焦って、のぼせた時みたいに顔が熱くなってることも。いつか登れなかったダンスの舞台なんか比じゃないくらいのステージに、単純に浮かれてるってことも。
でもきっと、乱くんもこういうダンスに憧れていたのだ。だから、今こうして、同じ夢に憧れた私たちは手を取り合っている。
どちらがプリンセスで、どちらがプリンスなのかなんて、多分どうでもいいことだ。
今、私たちが二人きりの舞踏会の中にいる。それが全てなのだろう。

ふ、とメロディが途切れて、曲の終わりを告げる。それと同時に、足の動きもぴたりと止まる。
短く息を吐いた乱くんに「ね、どうだった?」と上目遣いで尋ねられる。

「なんか、夢見てるみたいな気分……」

そっと離れていく手の温度が惜しいと思うことすら、なんだか良からぬ意味を持ってしまいそうで、ごまかすみたいに手で顔を扇いだ。
乱くんから顔をそらして、細く長い息を吐く。ようやく身体の中の空気が正しく循環したような気がして、あの時間が本当に夢になっていくみたいな感覚に陥る。

「夢じゃないよ」

逃げ場を無くすみたいな言い方で、乱くんは私の腕に巻いたリボンをなぞり、「これ、主さんにあげるね」と小さく呟いた。

「このリボンが、今日が確かな現実だって証になる」

12時に解けちゃう魔法なんかよりずっと確かでしょ? と、乱くんは無邪気に目を細めた。
そっと、乱くんの両手が私の頬へ伸びてくる。さっきまで私の手を優しく掴んでいてくれた優しい手が、何か強い意思を孕んでいる気がして、思わず身を固くした。

「目をそらさないで」

熱い頬の温度は、多分乱くんの手のひらから彼の内側に伝わってしまっている。

「ボクの目を見て」

言われるがままに、吸い込まれるようにその目を見つめ返す。ガラス玉みたいに透き通った青色の瞳の中に捕まえられて、胸が苦しくなる。

「今日、この時を夢になんかさせないし、今の主さんの気持ちを、いつか解けちゃう魔法なんかにもさせてあげないんだから」

今の私の気持ち。それは何なのだろうか。
乱くんは? 彼は、何を想っているのだろうか。舞踏会への明るい憧れだけでは決して無いことが、彼の仕草一つひとつから伝わってきて、手際よく逃げ場を奪われたことにようやく気づいた。
シンデレラは最後に幸せを手に入れたけれど、じゃあ今、私が手に入れようとしているものは何なのだろうか。それを簡単に幸せと呼べるほど、私は子供ではなくなってしまったし、それの正体を容易く見破れるほど大人になれてもいない。
多分、一向に落ち着かない心臓の高鳴りだけが、答えを持っている。