※現パロ

なまえが出て行って、ちょうど三日が経とうとしている。
連絡は一度もない。

いつも二人で手足を伸ばし、だらだらと寝っ転がっていたフカフカのカーペットの上に一人、なす術もなく四肢を投げ出し転がっている。
秋も終わろうとしている近頃は、薄っぺらの絨毯は畳んでしまい、代わりに小さな島のような存在感の、ふんわりとしたこげ茶色のカーペットを敷いて、そこに二人で転がっていたのだ。たまに互いの足をぶつけたりして、怒ったり笑ったりしながら。

「実家に帰らせていただきます」という書き置きが置かれたままのテーブルの横で、後ろ手を組んで寝返りをうった。

ああもう、早く春が来ねえかなぁ。
朝の気温が昨日より下がっているのに気づくたび、あのふんわりとした柔な日差しを待たずにはいられなかった。冬が嫌いなわけではないが、北の大地に容赦なく降り続ける白と、頭上に崩れ落ちてきそうな曇天の墨色は、飽きが来るのが早い。
色彩の薄い世界にはどうしても色が欲しくなるのだ。

「春が来れば良いなぁ」

独り言ちた言葉に応じてくれる人がいないのが、いかにも寂しい。常であれば返ってくる声もどこへやら。
いや、どこへやら、などではない。はっきりと、彼女はその先を示しているうえ、連絡手段なんかはいくらでもあるのだ。
そのくせ行動に出ないまま、過ぎていく時間を見送り続けているのは、自分の胸のうちに住み着き蔓延る自尊心からであることは、誰に言われずとも分かっていた。

よっこらせと口に出しながら体を起こし、鉛でも括りつけたみたいに重い体を台所まで引きずっていく。休日であるのをいいことに昼近くまで寝ていたせいか、頭の後ろが鈍く痛んだ。
電気もつけず薄暗い台所で冷蔵庫を開けると、中を照らす白い明かりが痛いくらい目にしみた。目を瞬かせながら、塩っけばかりが強い安物のバターと、三日前に買った食パンと、ノンアルコールビールを引っ張り出して、三つを無理やり片腕に抱えこんだ。
一緒に暮らし始める時、なまえが選んで買ってきた淡いミントグリーンの食器棚を開き、平皿を一枚取り出す。
表面がパサついた薄っぺらな八枚切りの食パンを一枚、袋から取り出して皿の上にポイと放り出した。
もう、パンを焼くという行為すら面倒だ。

シンク脇の調理台に放り出したバターが常温で少し溶けるのを待つ間、ひたすら宙を眺めていた。
ここのパン屋さんの食パンは美味しいんだと、なまえはいつも決まって近所のパン屋で食パンを買ってきていた。このパンもまた、あいつが買ってきたものだ。

溶けかけたバターを、パサついた食パンに塗りたくる。その作業はなんだか虚しいもので、真っ白なキャンバスのような食パンにバターが馴染んでいくのだけがひたすら心地よい。
そうして出来た簡易な昼飯らしきものとノンアルビールを、一人の食卓へ運ぶ。出来ることなら昼からアルコールを摂取してやりたかったが、昨日の夜に全部呑みきって切らしていた。わざわざ買いに行く気力もない。
「いただきます」と適当に手を合わせてパンを齧り、ノンアルビールを呷った。バターの塩気が強いためか、意外とビールのようなそれにも合うような味に仕上がっている。
いやしかし、やっぱりこの虚しさにはアルコールがほしくなる。

昼間から酒を飲みたがるだらしなさ。
適当な昼飯で済ましちまう甲斐性のなさ。
冷蔵庫の扉を足で閉める雑さとか言葉の荒さとか。

こんなことになったきっかけはいくらでも思い当たる。
バターの塩気が嫌というほど舌を刺激しているというのに、それすらどうにも味気ない理由もまた、明白なのだ。
明日食う飯が一人なのは嫌だ。
今日の夕飯が一人なのは、もっと嫌だ。

半分齧った食パンを皿の上に放って、勢いのままにベッドの上のスマホに手を伸ばす。
危うくバターの油分がついた人差し指で触りそうになって、行儀が悪いと分かっていながら立てた中指で画面に触れた。電話帳の履歴の一番上にある文字の並び、みょうじなまえを見つけるや、勢いあまってそれをなぞる。

「あ」

途端に、画面には呼び出し中の表示がされてしまった。

かかっちまった、電話。
何を言うかもロクに決めてないのに。

慌てながら受話口に耳を当てると、幸いまだコール音が鳴っている。
よし、かけ直そう。少し落ち着いてからまたかけ直したほうが賢明なのは明らかだ。こんな、勢いのままに話をして、余計なことまで口走ったりして取り返しのつかないことになっちまったら、それこそマズイ。
心の中で言い訳を並べながら耳を離そうとした、その瞬間、コール音が途切れた。

「もしもし」

受話口から聞こえた耳馴染みのある声に、離した耳を引き戻された。聞き慣れた声がすぐそばに聞こえて、身が固まる思いがする。
切りたいのに、切れない。
退っ引きならない状況に追い込まれて、とりあえず何か言わねばと動かした口先からは「あ、いや」という何の意味もない文字列が吐き出された。

「どなたですか」
「え? いや、俺……」
「オレオレ詐欺?」
「いや……」

完全に弱り切ったこちらとは対照的に、向こうは全く隙がない。
いや、別に隙を突きたいわけじゃないのだ。
ただ戻ってきてほしい。
その一心しかないのだが、しかしそれしかないが故に、上手いこと切り出すこともできない。歯がゆくて奥歯を噛み締めていると、耳元に息がかかったと錯覚するほどに特大のため息が返ってきた。

「直くん、用がないなら切るけど」
「バっ……いや待て、切るな、頼むから」

勢いあまってバカヤロウ呼ばわりしかけたが、なんとか踏み止まった。
もう破れかぶれだ。用は? と聞かれたら答えは一つしかない。

「帰ってきてくれ」

喉の奥が渇いて、声が少しだけ掠れた。
実家に帰るという書き置きに、最初こそ肝は冷えたが、落ち着いて考えてみるほどに、内心どこかホッとしていた。それはつまり、他の野郎の元に行って慰めてもらって、ってなことには一先ずならずに済んでいるということだ。
そこまで考えがいって、しかし改めてゾッとしたのだ。
もし実家に帰ったなまえが、実家近くに住んでるという役所勤めの幼馴染と再会してそこからあれやこれやと話が進んだら。もし実家に帰るが方便で、今頃大学時代のサークルの同期だという男と二人きりで会っていたりしたら。
この人が、手の届かないところまで行ってしまうかもしれない。

「悪かった。ちゃんと話したい」

いつだっただろうか、男友達に偶然会った話を聞かされて、舌打ち一つ残してタバコを買いに出て行ったことがある。
向こうに悪意はなかった。ただ久しぶりに友人に会えて嬉しかった、程度の話を本当に嬉しそうに言葉を弾ませてするものだから、その間に頭の中が煮え立つようで、少し頭を冷やそうと思ってのことだった。冷静になるための退避だったはずが、ドアを閉める音が思いのほかデカくなって、余計に気まずくなったのを、嫌というほど覚えている。
近所の自販機でタバコを買って、大した金を持ってきていないことに気づいてパチンコで増やそうとして負けて、やり切れなくて帰宅した時、向こうはちゃんと俺を待っていた。いや、リビングで背筋伸ばして正座して、目を閉じている姿は「待ち構えていた」と言ったほうが正しい。
『ちゃんと話そう』
そう言って、いつだって逃げずにいてくれたはずのこの人が、自ら離れていってしまったことが、とてつもなく怖い。

「もう逃げないから」

必死で、情けなくて、ガラにもなく声が潤んだ。考えれば考えるほど、ことの重大さに気づいていくようで嫌になる。
それでも、明日また一緒に飯が食えるなら。
これからの人生、一日でも多く、一緒に飯が食いたいから。

「帰ってきてほしい。飯食いながら、また一緒にいるための話がしたい」
「わ、分かった。分かったよ、もう」

焦ったような声は、意外にも温度が高くって、耳がくすぐったいような気がした。

「負けた、わかったよ。帰るから、ちゃんと話そう」

「帰る」という言葉に、糸が切れたように力が抜けていく。へなへなと力が抜けていくままに身を転がして、そのまま大の字になった。

「迎え行ってもいいすか」
「え、実家だよ? 実家まで来るってこと?」
「うん」
「いいの?」
「うん」

ややあって、口の中でごにょごにょ言ったような「直くんがいいなら」という言葉に、背中にバネがついたみたいな勢いで跳ね起きた。

「じゃあ今から行く。飛ばしていく」
「バイクで来るの? スピード出しすぎちゃダメだよ」
「ん」

肯定とも否定とも取れないような曖昧な返事をしたのは、飛ばす気満々だからだが、しかしそれも見透かされているのか「安全運転でね」と念押しされた。運転に関しての信用のなさには自覚がある。

「……帰り、どっかで何か美味いもの食おうよ」
「うん、いいね。じゃあ待ってるからね」

顔が見えなくても笑っているのが分かるくらいの優しい声に短い返事をして、電話を切ってすぐにスマホをポケットに押し込んだ。
クローゼットを乱暴に開いて上着を引っ張り出して、マフラーは適当に輪っかにして雑に巻いた。暖房のスイッチを切って、カギをひっ掴む。

会いたいと思った人に、会いたい時に会える喜びを、何と呼べばいいのだろうか。
許してくれたことを、愛だと思って自惚れてもいいのだろうか。
恋しくて涙が出そうで情けない自分を、受け入れてくれるあなたが、やっぱり全てが好きなんだと、言ってしまってもいいんだろうか。

好きだ。
もう何度も伝えてきた言葉を、今はそれでも伝えたい。いいかな。
全ての疑問の答えを持つあなたに、今から走って会いに行くよ。