「鹿之介様……?」

呼びかける女の声が一気に脳みその中を駆け巡り、思い出したくもない記憶を蘇らせた。顔面からいっぺんに血の気が引いていき、顔が青くなっているであろうことが自分でも分かる。
名前を呼び間違えるでもなく、きっちりと、かつ愛おしげに自分の名前を呼ぶ女。

なんでこの女が、この学園にいるんだ。



「げぇ、出茂鹿だ」
「出茂、鹿之介だ!相も変わらず失礼な奴だな」

学園長先生の庵を出て渡り廊下を歩いていると、前から歩いてきたきり丸がこちらの顔を見るなりあからさまに顔をしかめた。面倒な奴に会ったもんだと思いながら、しかしまぁ学園の誰でもいいから頼みたいことがあった自分にとっては良いタイミングである。

「なぁきり丸、今暇か? どうせ暇だろ」
「うわーっ、ホラすぐそういう失礼なこと言う。だからイヤなんすよ」
「正面切ってイヤとか言うな、いいから答えろ」
「暇じゃないっすね」
「嘘つけ、お気楽忍たまの分際で」
「僕だってそれなりに忙しいんですー。今から校庭行って乱太郎としんべヱと一緒に昼寝するんで」
「それを暇と言うんだよ!!……今、小松田くんが吉野先生と一緒に遠方へ出ているだろう?その間私が事務の仕事を手伝っているんだ。で、学園長先生から少しお遣いを頼まれたんだが、学園の誰か暇そうな奴に案内してもらうよう言われたんだ。と、いうわけだ。案内しろ」
「長々と説明くさい台詞ご苦労様ですが絶対イヤでーす」

ハイサヨーナラと勝手に話を切り上げ背を向けやがったきり丸の首根っこを掴む。

「ぐえっ」
「昼寝なんていつでも出来るだろうが、私が真面目に仕事をしようとしてるんだから手伝え!」
「確かに昼寝はいつでも出来ますけど!いま昼寝をするのは今しか出来ないだろ!離せ出茂鹿!」
「うるさーい急に哲学じみたこと言うな!あと出茂、鹿之介!!」
「鹿之介様……?」
「そうだ鹿之す……」

渡り廊下の縁を隔てた向こう側からの、突然の乱入者。
思わずきり丸をひっ掴んでいた手をパッと離してしまう。咄嗟に声のする方へ目をやってしまったことを、今さら後悔した。
見覚えのある懐かしい黒目がこちらに向いているのが居心地悪く、今すぐにでも逃げ出したいのに、体は蛇に睨まれた蛙の如く動かない。心と体がうらはらに矛盾したまま狼狽するこちらの様子を意にも介さず、女は一目散にこちらへ駆け寄ってきた。

「鹿之介様、お久しゅうございます!」
「あ、あわわ」
「へ、みょうじ先輩? 鹿之介、様ぁ?」

あわわ、などと口に出してしまった。あまりにも格好悪い。
しかし今は、そんなことよりもこの女である。まるで飼い犬が主人に尻尾を振るように、興奮できらきら輝く眼差しを惜しげもなく向けてくる、この女。
ひとり状況の飲み込めていないきり丸が呆気にとられて、というか若干引いたように口の端を引きつらせているのが目の端に見えた。

「え、お二人はお知り合いで……?」
「そう!実は私たちは将来を誓い合っ」
「てない!……イヤ確かに、お家同士のそういう約束事はあったが!お前のうちが謀反起こして勝手に没落して全部パーになったからもう何の関係もないただの他人だ!!」
「わーまた説明くさい台詞を……」
「そう!私と鹿之介様は許嫁だったの。昔はそれは仲睦まじく」
「ない」
「共に野山を駆けまわり手に手を取って」
「取ってない」

完全に引きつった笑いで「仲良いんすね」と適当なことを言うきり丸は、急に何か思いついたような顔をして、ポンと手を叩いた。

「そーだ、みょうじ先輩! いま、出茂鹿さんがお遣いの道案内お願いする人を探してるみたいなんですけど」
「やる! やります!!」
「話早っ! まぁでも良かったっすね出茂鹿さん」
「イヤ良くなーい! 勝手に話を進めるな! 頼むきり丸お前が案内してくれ」
「何で? 旧知の知り合いとの再会なんてそうそうあるもんじゃないですよ、ホラ見てくださいみょうじ先輩の嬉しそうな顔。あれ裏切れるんすか?」
「嫌なんだよ本当に頼む」
「えー、何がそんなに嫌なんすかぁ」

ちょいちょい、と手招きをするきり丸の背に合わせて屈めば、声をひそめて耳打ちをされた。

「それこそ出茂鹿さんが言う通り、ぶっちゃけもう赤の他人なわけですよね? 気負うこともないんじゃないですか?」

何がそんなに嫌なんすか? と説明を求められて、思わずぐっと押し黙る。
そうだ、もう赤の他人なのだから、いちいちこの女に気を遣ったりする必要もないし、ただの案内人扱いしてやればいい。
じゃあ何がそんなに嫌なのかと問われると、この女が見たところまたこっちに未練がありそうなところだ。こちらにそんな気がないのに無駄に好意を抱かれても困る。扱いにも困る。というかもう、普通に気まずいから嫌だというのが本音だ。
……という、なんとも子供じみた理由を、目の前の本物の子ども相手に打ち明けるのも嫌だ。
そんな自分自身のワガママとプライドの板挟みになり、唸りながら頭を抱えた。

「ま、どうしてもってんならついて行ってあげてもいいすけど」
「何! 本当かきり丸! ありが」
「きり丸くん、小銭あげる」
「えっ!!」
「えっ」
「はい、小銭が1枚、2枚、3枚」
「いいいいいい、いいんすか!?」
「うん、それで何か美味しいものでも食べてきなよ、乱太郎くんやしんべヱくんと一緒に。3人で。今から」
「はぁい! みょうじ先輩大好きぃ!!」

引き止める間も無く、ものすごいスピードで脱兎の如く走り去っていくきり丸を呆然と見送ることしか出来ないこちらを尻目に、隣の女はのんきな顔できり丸に手を振っている。

「さて」

にこ、という効果音でも聞こえてきそうな笑みをこちらに向けて、女は手を差し出す。

「参りましょう、鹿之介様」

絶望しながら思った。
きり丸は次会ったとき覚えてろ。



活気付く町の人並みをするするとすり抜けていく女の背中や身のこなしは、まさしく「くノ一」のそれになっていた。
時折振り返るその顔全面から溢れ出てくるいかにも嬉しげなオーラに何度もゲンナリさせられながら、ようやく目的地までたどり着いた。学園長先生から頼まれた、今超人気だという茶菓子の売っている町だ。
意外なことに女は、道中ほとんど口を開かなかった。せめてもの救いだとは思いながら若干気味悪くも思う。これだけ鬱陶しくついてきていながら、何故なにも言ってこない? 背景に芍薬牡丹百合の花でも背負ってトキメキ溢れる少女漫画ヒロインのような顔をしていながら一言も口をきかずに笑みばかりこぼすのは軽くホラーだ。怖い。

「なぁ」

たまらずこちらから口を開けば、女は目に見えて分かるくらいに目を輝かせた。

「し、鹿之介様が……」
「は?」
「私に語りかけている……」
「は」
「ま、待ってください音声付きだと破壊力がですね」
「なんだそれ怖……」
「え、可愛い!?」
「耳鼻科に行ってくれ」

訂正してもなお謎に照れるのをやめない女の様子にドン引きしながら、一つ思いつく。
もう茶菓子屋は目と鼻の先だ、ここからなら自分一人でもたどり着ける。もう案内はここまででいいからお前は帰れと言ってしまえばいいのではないか?
これ以上この女と行動を共にするのは面倒だし、とも思うが、以前同じような事例で小松田くんを置いて帰って学園長先生のご機嫌を損ねたのが記憶に新しい。
と、なると。やはりここまで来たからにはこの女に最後まで同行してもらうしか道はないらしい。

「お前、何で忍術学園にいるんだよ。家が落ちぶれたのによく学校なんざ通えるな」

逃げ道がないことへの苛立ちをぶつけるみたいに、ほとんど八つ当たりのような質問を投げかけてやった。

「あ、実はうち今お金には困っていないのです」
「は?」
「父は腹を切りましたが、母がとある地方の豪族に見初められまして。今は母と共にそこで厄介になっております」
「ふうん」

なるほど女は女で意外にたくましいらしい。一家の主が腹を召したが、それでも上手いことやっているというのは素直に大したもんだと思った。

「それで今は行儀見習いのために学園で学んでいるのです」
「へー」
「まさかそのおかげでまた鹿之介様にお会いできるなんて……これも何かのご縁! 今はお家の事情という壁もなくなりましたしこの機会にぜひ私を娶り」
「隙あらばねじ込もうとするな」

やっぱり話しかけなければ良かった、とため息をつきながら菓子屋に入れば、軽やかな甘い香りがした。上質な菓子屋らしい、しつこさのない香りだ。

「きみは外で待ってろ」
「え、でも」
「いいから」

せめて店の中にいる間くらいは、あの目から逃れて一人になりたい。帰りの道中にも当たり前のように隣を歩くであろう女に、ひらひらと手を振ってみせれば、奴はしおらしく頷き、大人しく店の外へ出て行った。
内心でホッとしながら、店主に菓子の詰め合わせを一つ頼む。人の良さそうな店主は、快く了承した上で、何か思いついたような顔で口を開いた。

「あ、奥方様も中でお待ちいただいてもよろしいですよ?」
「イヤ奥方とかじゃないので全然」

いらない気遣いをしてきた店主に引きつった愛想笑いを向けながら「いいからお早く、お願いします」とわざとらしいイヤミをぶつけた。奥方様などとんでもない、悪い冗談である。腹立たしく思いながら店の壁に背中をどっかりと預ければ、おそらく精一杯であろう愛想笑いを浮かべた店主は少々お待ちください、と商品の準備を始めた。

ひと息つき、今までも、これからも思い出す必要のなかった昔のことを思い出した。

思えば、なまえに自分の名前の訂正をしたのは、出会ったばかりの時、ただの一度きりだった。
私が齢十、あれが五つの頃だったと思う。

「でもしかさま?」
「でもしかじゃない、出茂、鹿之介!」
「鹿之介、様」
「そうだ」
「うふふ、鹿之介様」

そうだ、あの頃から、折にふれてはニヤニヤしているような変な女だった。
当時はそれこそ玉のようにころころとした子どもだった分、今よりは可愛げがあったのだ。
だからだろうか、柄にもなく妙に優しくしてしまったのは。
きり丸の手前ということもあり否定はしたが、実は手を引いて歩いてやったことは、あった。しかし当時の心境としても、今思い返してみても、あれは妹ができたような、そんな感覚でのことだった。
砂利道で躓かないよう、女が傷など作らないよう。
みょうじ家が急な謀反を起こした時、その手はあまりに呆気なく遠のいた。驚く間もなく、感傷に浸る間もなく、当たり前にあった家同士の交流はパタリと途絶え、みょうじ家の当主が腹を切ったことだけがうちに伝えられた。

言ってしまえば、それだけのことだった。
家同士で仲が良かったがために交流があった年下の女が、急にいなくなった。この乱世にはありふれた話なのだ、本当に、取り立てて悲しんだりすることもなかった。
ただ、急に訪れた喪失感と何とも言えない虚しさに苛まれた、幼い頃の朧げな記憶だけが、ずっと胸のうちに刻まれ続けていた。

それが。

「どうしてあんな強引なゴーイングマイウェイ女に……」
「お、お客さん? 何言ってるんです?」
「え? ああ、いやぁ……」

ぼんやり考え込んでいるうちに、菓子の用意ができたらしい。アホみたいな独り言を打ち消すみたいに慌てて笑顔を取り繕ってはみたが、店主は訝しげに首を捻りながら菓子の包みを差し出した。その態度は癪だったが、仕事は仕事だ。預かってきた金を事務的にさっと手渡し、浅く頭を下げる。

さあとっとと帰るかと店の暖簾をくぐれば、店を出てすぐそこに、女の姿を見つけた。
が、いらん妙な輩のおまけつきで、だ。

「おねーちゃん、いま暇?」
「特別稼げるいいお仕事やってみる気ない? 君ならいーい働きが出来ると思うんだよねぇ」
「離してください、興味ないので」
「ちょっとついてくるだけでいいんだって、ね?」

下賤な笑みで女の手を取る男と、さらに男がもう一人。あちこち擦り切れているみすぼらしい着物と一丁前に腰に下げているボロの刀を見るに、おそらくそこらのお侍の末端らしい。大方、戦場での慰み者にでもするつもりなのだろう。女一人なら多少強引にでも連れていけると踏んだのか。何なのかは知らないが、女は極めて冷たい目で連中をあしらっている。その目が、見たことがないほどに冷え切っているのを目の当たりにして、一瞬こちらまで怯んだ。
しかしこのままでは帰れないのだ、さっさとこの場を離れるに越したことはない。

「ほら、そんな連中無視だ。とっとと行くぞ」

女の手を掴む雑魚の手を、軽く弾く。

「何だ旦那付きか」
「イヤ旦那ではない! 断じて!」
「なら関係ないだろう、どいてな兄ちゃん」
「うるさいな、連れなんだよ。そっちこそどけ下郎が」
「ああ? 関係ねーやつぁ引っ込んでな!」

凄みながら手を引く気配を見せない連中を、どう躱すべきか考えを巡らせる。いざとなったら力ずくかと思っていたその時、女がはたと思いついたように手をポンと叩いた。

「そうだ、そうですよね! 鹿之介様! 関係ない奴は引っ込まないといけないそうなのでここはもう結婚するしか」
「え、ここでそういうこと言う?」
「と、いう訳で! 私たち夫婦なので! 仲睦まじい夫婦の時間を邪魔するなんて野暮ですわよ」
「待て勝手に話を進めるな」
「仕方ないじゃないですか、関係があればオッケーみたいですし」
「そーいうこっちゃないだろ! バカかお前は!? イヤ、そうだバカだった……」

頭を軽く抑えつつ連中のほうを盗み見れば、突然始まった茶番を前に「この女ヤバイのでは?」という顔をしてながら引いていた。全く同感であるが、とにかく上手いこと隙は出来た。

「今だ、走れ!」
「わっ」

女の手を掴み、隙をついて地面を思い切り蹴った。背後で「あ、逃げられた……」という情けない声が聞こえる。無理に追ってくる気配はないが、とりあえず距離をとるに越したことはない。

町のはずれまで走り抜けて、足を止めた。
女のほうを見れば、だいぶ走ったにもかかわらず、息はほとんど乱れていない。さすがくのたまと感心し、しかし代わりに顔が、いや耳までもが目に見えて赤くなっている。おまけに瞳には溢れんばかりに水分が溜まっているではないか。
ぎょっとしながら、あくまで慌てている内心を見透かされないように潜めた声で問うた。

「何だ、くノ一のたまごのくせにあんな連中が怖かったのか?」
「いえ、昔を思い出しまして……」
「昔?」
「鹿之介様に手を引いていただいた時のことを思い出したら自然と涙がですね……」

女にそう言われてみて、ようやく手を掴んだままだったことに気づいた。慌ててその手を離せば、女は今の今まで私に掴まれていた手を愛おしげに見つめる。

「えへへ、もう手を洗わないようにしよ」
「汚い汚い、洗え。手洗いうがいまでしっかりしてくれ」
「じゃあ、また御手に触れても構いませんか!?」
「やめろ図々しいな……」
「じゃあやっぱり手は洗わずにいるしか……」

なおもアホなことを言う女を前に堪えきれず、はあ、と大きなため息をつく。シュンとして肩も視線も落としている女の額に手加減なしのデコピンをかました。

「え!? 痛っ! 何!?」
「私は小松田くんや吉野先生が帰ってくるまで学園にいるって言ったろ」
「え?」
「だから何ということもないが」
「え、え?」
「とりあえず手は洗えよ」
「え、それって、つまり……?」

答えを求めるように顔を覗き込もうとしてくるなまえを引き剥がしながら、逃げるように学園への帰り道を辿った。
かけた言葉に特別な意味はないし、道中、距離が離れすぎないようにしてやったのも、一緒に戻らないと後が面倒だからというだけで他意はない。
ついさっきまでなまえの手が収まっていた自分の手のひらが、やたらと熱をもっているような気がするのも、多分気のせいだから。
勝手に上がりそうになる口の端を顔中の筋肉で押さえ込みながら、学園に戻る足を早めた。

「鹿之介様、お待ちください!」
「嫌だ離れろ」
「追いかけっこみたいで、これはこれでまた良さがございますね!」
「少しは凹んでくれ……」