足元にひっそりと咲く紫の花が、ひんやりとした乾風に揺れる。
そのたびに、あの日の、白んでいく明け方の空を鮮明に思い出していった。多分あの時、目の前で同じように、紫の髪が風に揺れていたからだと思う。



「お前は強いトレーナーになんざなれない」

はっきりと私の夢を否定したのは、親兄弟友達含めた周囲の人間全ての中で、シンジ、ただ一人だけだった。
シンジがポケモントレーナーとして旅立つ、その日のことだ。
私もシンジみたいに、いつか強いポケモントレーナーになるから。
何気なく、無邪気にはしゃいで言った、その言葉に対しての、それがシンジの答えだったのだ。
彼のお兄さんであるレイジさんは、彼を窘めるようなことを言って、私をフォローしてくれていたような気がするけど、あまりよく覚えていない。

私の夢は、シンジの背中を追いかけて、強いポケモントレーナーを目指すことだった。
家も歳も近かったシンジのことを、私は物心ついた時から好きになっていた。
額がくっつきそうなくらい顔を近づけて一緒に図鑑を覗き込んだり、トバリで開かれる大会を見に行って、出場しているレイジさんを応援したり。まだ幼い私にとって、シンジと共に過ごす時間こそが世界の全てに思えていたほどで、そんな中で私が彼を好きになることは、ごく自然なことだった。
この頃のシンジには、まだ子供特有の角のなさ、可愛らしさが残っていた。
シンジの雰囲気が変わったのは、レイジさんが育て屋を始めた頃のことだったと思う。あの頃から、私と顔を合わせることも、だんだんと少なくなっていった。
それでも、私はまだシンジのことが好きだった。誰よりもレイジさんを尊敬し、憧れ、自分もトレーナーになるんだと、まっすぐ前を見て話す、そんな彼が好きだった。

「そっか」

自分の夢を否定した張本人に、私はその一言だけを返した。
シンジが言うなら、そうかもしれない。
なぜか奇妙なほど腑に落ちる言葉だった。

お前は強くなれない。

結局、シンジには見抜かれていたのだ。
私がシンジのことを好きだ、ということも。ポケモントレーナーになりたいのは、シンジのようになりたい、シンジの近くにいたいからだ、ということも。
そんなんで強くなれるわけがない、と。それを、彼はたった一言で私に告げたのだ。



結局、ポケモントレーナーになるという夢も、シンジのそばにいることも出来なくなった私は、レイジさんが営む育て屋さんの手伝いをしながら、ジョーイ養成学校に通っている。
ジョーイさんを目指すのは、特別な理由はなく、ただ何者かにはならなくてはならない世の中で、特別な何者かになれない私でも努力でなんとかできるかもしれない場所を、なんとか選んだ結果だ。当然、生温い世界ではないから、学校で学ぶのにプラスして、育て屋で多くのポケモンと触れ合う機会をいただいた。事情を話せば、レイジさんはすぐに快諾してくれた。

学校が休みの今日も、レイジさんのお手伝いをしている。深緑の山々から降りてきた涼しい風が、足元の紫を揺らすたびに、シンジを思い出していた。

「そういえば、あいつ、帰ってこないみたいなんだ」
「え?」
「シンジだよ。リーグ終わった後に少しは顔出せないのかって聞いたんだけどね」

まるで全部見透かしたみたいなタイミングで話を振られて、内心ヒヤリとした。が、当のレイジさんは「忙しないよなぁ」と眉を下げて、困ったように笑うばかりだ。
草はらで腹ばいになって安らぐメリープの毛を、静電気が起きないよう特別な加工がされている専用のブラシで撫でながら、平静を装って「残念ですね」と他人事みたいな返事をした。
シンジは、私が今レイジさんのお手伝いをしていることを、知っているのだろうか。
もし、いつか、何も知らないシンジがこの家に戻ってきて、私がここでお世話になっているのを見たら、どんな風に思うのだろうか。
あれ以来会っていない私が、今どんな将来を描いているかを知ったら、どんな顔をするんだろうか。
分からないのだ、何一つ。
あの日以来シンジの顔を見たのはテレビの画面越しのみで、そんな私には、シンジがどんなことで、どんな反応をするのか、想像すらできない。私は今の今まで、強さを追い求めるシンジのことを好きでい続けているくせに、シンジのことを何も知らない。
トレーナーになるという夢を諦めて、それでもシンジを待ち、会って、叶うならそばにいたいという勝手な願いを、私は捨てきれずにいる。

シンジは、どうだろうか。
シンジが旅立つあの日まで、私はシンジの眼に映る世界の中にいた。だからこそ、彼は私の半端な夢を見抜けたのだ。
けれど、今は違う。走り続けるシンジの瞳に、私のことなんて少しも映ってはいない。良くて、視界の端に陰を落とす幽霊みたいな不確かさで、彼の世界にちらつくことしか出来ていないだろう。

物心ついた頃から抱いていた、シンジが好きだ、という純粋な想い。
あの日から、水底に沈んだままの私のこの想いは、すでに腐りきって、もはや性質のまったく異なるものになってしまったような気がした。シンジのことを想えば、ひやりとした風が虚しさに満ちた胸のうちを通り抜けていく。

「なまえちゃんだって、シンジに会いたいんじゃない?」

どことなく、気遣うような声色。シンジと同じ紫の髪が揺れるのを見て、適当に「はい」と、返そうと思った言葉が宙ぶらりんになった。
私はシンジに会いたいのだろうか。
会えば、シンジが旅立ったあの日から自分が積み上げてきた全てが、何もかも壊れてしまうような気がした。

「そうですね」

けれど間違いなく、全てが台無しになったって、私は彼に会いたくてたまらない。未だに諦めきれない未来のビジョンの切れ端に、しがみついたまま離れられない自分の女々しさが嫌になって、けれど今日もまた、水底からの浮上はできないでいる。


request by はる様(ダイパ・シンジでシリアス)