薄い薄い画面の向こう側で、まるで一つの島みたいな黒い塊が、波打つ鈍色の海面を突き破るみたいに顔を出した。
太陽を背に、一瞬空を飛んだそれは、そのまま海面へと吸い込まれていく。重たい体は、重力という抗いようのない力に負け、海面を叩き割る。そうして白い壁みたいな飛沫を上げながら、再び暗い水の中に姿を隠してしまった。
それら一連の動作は、地球上の、早すぎる時間の流れを少しでも遅くしようとしているみたいな、ゆったりとした動きだった。

一度でいいからクジラをこの目で見たい、と言っていた彼女の目はうっとりと遠く、ここではないどこかに行ってしまいそうな気がして、少しだけ焦ったような気持ちになったのを、薬研はなんとなく覚えていた。



「ちょっと付き合ってくれないか」と、断る隙を少しも与えないような前のめり具合で薬研に詰め寄られたのが、まだほんの20分ほど前のことだ。

ほとんどの刀剣男士たちがまだ夢の中にいるような時間に目が覚め、寝ぼけ眼のまま顔を洗っているところに、薬研はやってきた。
はた、と目が合った一瞬、二人して動きを止めた。
おはようと口にするより先に、彼は掴みかからん勢いでこちらにつかつかと歩み寄り、なまえの右手首をがっしり掴んだ。
ちょっと付き合ってくれ、とそのまま引っ張っていかれそうになるのを慌てて制して、分かったからせめて準備させてほしいと、訳もわからず半分泣いているような声色で頼めば、案外すぐにその手は離れた。が、10分で支度しな、とどこかで聞いたことがある海賊みたいな傍若無人なセリフを吐くものだから大慌てで身支度を整えた。
薬研は普段、見た目から想像できないほど落ち着いている。短刀らしく、どちらかと言えば低めの身長で、けれど短刀の中で一、二を争うほどに大人びているのだ。
だから、今朝の薬研がなんだか妙にそわそわと落ち着かないのが、なまえを少し不安にさせた。

薬研に手を引かれながら本丸の門を出て、まだ朝靄の晴れない砂利道をしばらく歩いているが、これから自分がどこへ行くのかまるで検討がつかない。どこに行くのか、と問いかけても、行けば分かるとつれない答えが返ってくるばかりで、しかも薬研は一度もこちらを振り返らない。前ばかり見て、しかしなまえの手をしっかりと捕まえたまま、きっちり歩調を合わせ、ただただ足を前へ運んでいる。

靄で白く霞んだ視界は、なんとなく深い海の底を思わせた。
海の底がどんなところか、なんてテレビでしか見たことがないけど、湿った空気を掻き分けながら進むと、ちょっとだけ息が詰まるような感じがする。水の中を泳ぐような感じがして、まだ少し眠たい頭の中で、なまえも薬研も二人、海にいる夢を見ているような心地になっていた。
緩く長い坂道を少しずつ登っていく。その先は小高い丘のようになっているらしく、小さな白い花がちらほらと咲く草はらを、山から降りてきた風が小さく波立たせた。草を踏むたび、さくり、さくりと耳触りの良い音がする。薬研が器用に花を避けて歩くので、ちょうどその上を行くように、足元に注意を払いながら歩みを進めた。

「大将、ほら」
「え?」
「下ばっかり見てないで、前を見てみな」

顔を上げ、薬研が親指で指す方角へ目をやった。
パッと見たとき、それが何なのか、分かりかねた。
山だ。
決して高いとはいえない山々が視界いっぱいに連なり、それらは一様に、靄をベールのように纏っている。薄群青の空と、ほんの少しだけ顔を出し始めた太陽の光が、白であるはずの靄をほんのりと葡萄色にしていて、そこから時折顔を覗かせる山のてっぺんは、何か生き物のように見える。

「たまに、早起きをした時は鍛錬がてら、ここら辺りまで走って来るんだが、俺はこの景色に海が重なってな」

薬研の言葉で魔法のスイッチが入ったみたいに、目の前に広がる景色が海へと姿を変えていく。
あの靄が海なのだとしたら、頭を覗かせている山、彼らはさしずめクジラやイルカといったところだろうか?

「俺はまだ海をこの目で見たことはないが、どうだ?」
「うん、綺麗。綺麗な海、だよ」

本物の海を知っているなまえは、しかし本物よりも、目の前に広がるこの海が好きだと思った。
他の誰でもない、初期刀の次に出会ったはじめての短刀。薬研藤四郎と見ているこの海だから、例え潮の香りがしなくても、足元に広がるのが砂浜ではなく草はらでも、まるで海のように波打つ靄と、次第に青色を深く増していく空を海だと思えた。
いつか、薬研と一緒にテレビで見たクジラを思い出した。
はるか太古の昔から、歌を歌いながら、世界のすべてを知っているような瞳で海を渡り続ける、巨大な生きもの。

「大将、これ」
「ん? 何?」
「やるよ。今日、誕生日だろう」

薬研が懐から取り出したのは、小さな薄緑色の包みだった。なるほどプレゼント用らしくラッピングされ、可愛らしくリボンがかけられたそれを、掴まれていた手のひらの上にぽん、と置かれた。
薬研が万屋で「プレゼント用で」、なんて言って、これを片手に店を出たのかと思うと、ちょっと微笑ましい。リボンを解いてしまうのも惜しい気はしたが、それ以上に中身が気になってしまう。目線で聞けば、薬研は短く「開けてみな」と目を細めた。
丁寧にリボンをほどいた、包みの中に入っていたのは、クジラの尻尾を模したネックレスだった。尻尾の先には水色の石が光っていて、地平線から顔半分を覗かせ始めた太陽がそれをきらきらと光らせる。

「すごい、可愛いよ」
「大将、テレビで熱心に見てたろ」

はは、と笑いながら、薬研はなまえの頭に手を置いた。

「誕生日、どうせ一日中みんなに囲まれちまうだろうし。大将にこの景色も見せたかったし」

早起きは三文の徳ってのは本当だったな、などと笑いながら、弟たちにするのよりは少しぎこちない手つきで、自分の主の頭を撫でた。そのぎこちなさがなまえに伝わってしまう前に手を引き、再び靄の海を振り返る。

「いつか大将が、本物の鯨を見に海へ行く時は、俺を連れていってくれ」

どれだけ遠くに行くとしても、きっと自分なら邪魔にはならんだろうから。だから。
太陽が連れてきた明るい朝によって、一瞬現れた海はただの白い靄になっていた。
綺麗なものは、いつだって一瞬だ。多分、この人だってそうなのだと、似合わない焦燥感に駆られて半ば強引に手を引いてきてしまったことを、少しだけ後悔はしていた。けれど、それでも今、言ってしまわなければ気がすまなくて、バカを承知で叶うかどうかも分からない願いを口にしている。

「うん、その時は一緒に来て」

あっさりと約束の言葉を返されて、自分から言ったくせに、薬研は目をぱちくりさせて、ちょっとだけ面食らったような顔をした。

「その時は、これも連れて行かないとね」

人差し指と親指でつまみ上げたネックレスをゆらゆら揺らしながら、なまえは薬研の瞳に向けて笑いかける。

揺らいだ瞳に気づかれていないといい。
これだけ必死になって二人きりになっておいて、あれだけはっきりと夢見がちなことを言っておいて、未だに自分の感情に気づかれるのが、少しだけ怖いと思う。
そうして笑う顔が好きなのだ、と言える日が来たら、その時はまた何でもないみたいな顔で、笑って「うん」と答えてほしい。


title by さよならの惑星